やはり、嫁は鬼だったようだ


「あなた、おかえりなさいまし」

「ただいま」

「お食事になさいます、お風呂になさいます?」

 玄関のドアを開けると、嫁が刀を持って待っていた。

「それともここで、打ち合いといきましょうか?」

 嫁が鬼になっていた。俗に言う「鬼嫁」ではない。頭には尖った角が二本、釣り上がった目元は夫婦喧嘩のそれよりも恐ろしい。

「取りあえず夕飯は食って来たし、風呂かな」

「討ち合いは?」

「死ぬからやめとくよ」

 そりゃ、内心では驚いているさ。平凡なサラリーマンの日常を終え、帰宅したと思ったら小言ばかりの嫁が本物の鬼になっていたなんて。きっと俺は疲れているに違いない。今日も残業を頑張りすぎたか。

「問答無用!」

 嫁が刀を振り下ろした。俺の脳天に向けて一直線。

 思わず身を引くと鼻先を鋭利な刃物が通り過ぎて行った。

「危ねえだろバカ」

「ねえ、打ち合いでしょ?」

 そんな鬼のツラで、きょとんとした顔をするな。気持ち悪い。

「待て。とにかく待て。俺は疲れているんだ。まずは風呂と飯だ。おまえの相手はそれからでいいだろう」

「あら、夕飯は食べてきたんじゃないの」

 そうだった、と気付いた頃には水平に刀が振りかざされていた。危機一髪、しゃがみこんだ俺の頭を、ひゅっ、という風切り音が通り過ぎる。足元に、はらはらと黒いものが落ちる。どうやら俺の髪の毛のようだ。

 おい、マジかよ。

「ひとまず、風呂に入って来る。おまえは来るなよ。打ち合いでもなんでも、話はそれからだ」

 身を屈めて鬼嫁の脇を通り抜ける。ああ、この瞬間に刀を振り下ろさないでくれよ。俺はまだ死にたくないんだから。

「しかたないわねえ。あなた、待ってるわ」

 脱衣所のドアにしがみつき、必死の思いで中に逃げ込む。洗濯機の上にカバンを投げて、溜息。洗面所の鏡には途方に暮れた俺の顔が写っていた。

 もちろん、のんびりと風呂に入っている場合などではない。

 嫁が鬼になってしまった。いや、鬼が嫁になってしまった? とにかく、あの刀は本物だ。切れ味はバツグンに違いない。死ぬ。間違いなく死ぬ。そんなのはごめんだ。嫁以前に人殺しじゃないか。

 なんとかして逃げよう。そして、生き延びよう。それしか選択肢はない。でも、どうやって? 俺は風呂場の引き戸を開けた。一応、それなりの大きさの窓があるけれど、プラスチックの格子がはめられているから外へは逃げ出せない。

 浴槽にはたっぷりのお湯が入っていて、湯気がもくもくと上がっている。冗談じゃない。あいつは本気で「お風呂になさいます?」なんて口走っていたのだろうか?

 コンコン。

 ノックの音、俺は振り返った。

「ねえ、あなた。お背中流しましょうか」

「いいから待っていてくれ。じきに出る」

 さあ、いよいよヤバくなってきた。時間稼ぎにも限界があるってもんだ。

 だが、打開策は一つもなし。袋のネズミならぬ、風呂場のダンナ。洗面所に戻り、鏡の前で顔を叩いて気合いを入れてはみたが、アイデアの一つも思い浮かびやしない。なんというか、困り果てた。

 俺はここで死ぬのだろうか。そりゃ、たいした人生じゃなかったさ。会社ではゴミのように働かされて、好きでもない女と結婚、バカな子どもが二人。そういえば、あいつらはどうしたのだろう。もしや、あの鬼嫁に殺されてしまったか。もしそうだったところで、たいして悲しくもないのだけれど。子育ては色々と面倒くさいのだ。夫婦関係と同じくらいに。

 なぜ、嫁は鬼になってしまったのだろう。俺の幻覚なのだろうか。それが一番、納得できるような気がする。

 そうだ、ちゃんと温かい風呂が準備されていたじゃないか。どう見えたところで、やはり俺の嫁なのだ。もしかしたら、本当に風呂の湯船につかって、多少の疲れでも落とすことができたなら、扉の向こうで待っているのは刀を構えた鬼嫁ではなく、愛想笑いを浮かべる妻の姿なのかもしれない。

 いやいや、どうだろう。嫁は俺のことがあまりにも嫌いだったから、鬼に変化してしまったのではなかろうか。それこそ「死ね!」と叫びたいくらいに。あいつだって、好きでもない男と結婚したのだ。俺が嫁を愛していないように、あいつも恋愛感情の欠片すら持っていないはずだ。

 会社。嫁。家族。

 全ては成り行きで、こんなところまで来てしまった。そう、産まれてからこの風呂場まで、俺の人生は全てが成り行きである。

 それなら、多少は嫁のご機嫌でもうかがうっておけば、なんとかなるのかもしれない。嫁の人生も成り行きでここまで来てしまったはずだ。多少は理解もしてくれるだろう。嘘でもいい。この場をしのげれば、きっと明日はやってくる。つまらない日常が戻って来る。そう信じよう。それしかない。

「ねえ、あなた。遅いわよ」

 扉の向こうから声がする。

 俺はドアノブに手を伸ばした。震えているのが自分でも分かる。さあ、俺も覚悟を決めよう。嫁の機嫌を取らなければならない。それが、生き延びるための最善の手段なはずだ。

 がちゃり。

「お待たせ。待たせて悪かったな。愛してるよ」

「なによ、いまさら」

 目前の顔が奇妙に歪む。

「気持ち悪い。死ね」

 やはり、嫁は鬼だったようだ。


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