私でない私と私
「人は、与えられたものを駆使して生きていくしかないの。
あなたにはそれができない。でも、わたしならできる。不幸と理不尽の使い方だって、それなりの心得があれば特別な人生を謳歌できる。それは、誰にでもできることじゃないの。特別なものが与えられるのは、それに見合うだけの確率的な希少性がある。要するにレアってこと。だから、私はそれを上手く使いたい。だって、あなたより使いこなせる自信があるもの。屋上から捨ててしまうのはもったいないわ」
ちょうど、屋上の手すりを超えて校庭を見下ろしているところだった。この両手を離せば重心が前に傾いて、私は落ちる。頭から落ちて、めでたく人生からおさらばできる。そんな自殺を図ろうとした矢先、彼女は言った。
「どうせなら、その体を私に使わせて」
不思議な声の響き方だった。他人の声を聞くのとは少し違う。声を発するとき、口からの振動が直接、頭の中に響き渡るような、内側からの声。
振り返る。夕暮れの赤い光が無人の屋上を照らしていた。風が吹く。四月半ばの風は、私にとって少しばかり冷たい。この時期の高校は静かだ。放課後はとくに。新しい学年が始まったばかりで、まだ誰もが緊張感を持っているから。
「体を使うって、どういうこと?」
姿を見せない彼女に対して、私は返事のしようがなかった。だから独り言のように声を発するしかなかった。回答が来るよりも早く、私は自分の体が動かされるのを感じた。
「それはね、例えばこういうこと」
私は、手すりの上に立とうとしていた。そして実際に、立った。綱渡りの要領で歩き始める。その足取りは軽く、踊りのステップを踏むかのよう。安物のローファーはお世辞にも足にフィットしてるとは言えない。けれど、柵の上で器用にバランスを取りながら、私は――私の体は、歩いたのだ。
その時点で、すでに私の体は私のものではなくなっていた。別の人間が、別の意思に従ってこの手足を動かしている。私はただ感じることだけを許されていた。それもすらも自らの意思で放棄すれば、私は、完全に消えることが可能だろう。そんな気がした。その通りよ、と彼女が囁いた。
こうして私は私の体を失った。強く望めば取り返すこともできたのだろうが、そんな意思はない。私は自殺未遂者だった。その感情は「死にたい」というよりは「消えたい」の方が近かったけれど、その望みを叶えるのに、自殺という選択が一番近いように感じられただけのこと。他に方法があるなら、それはそれで構わない。彼女が私の体を欲しいというなら、喜んで譲る。
あなたのことについて教えてほしい。今度は言葉にする代わり、心の内で念じてみた。私は、彼女のことについて何も知らない。どこかで聞いたことのある女子の声で語りかけてきたから、ただ「彼女」と呼んでいただけなのだ。私の体――彼女は花のように笑って、手すりから降りた。屋上の中央に向けて、くるくると踊る。地平線からの夕陽が私たちを赤く赤く照らしている。
「簡単に説明するなら、多重人格ってとこかしらね。ひとつの体にふたつの以上の意識が宿っている状態のこと。一般的にはコロコロ人格が変わる精神病、みたいな捉え方だけれど、あれはまあ、複数の意識がお互い上手にやり合っていく方法を知らないだけ」
彼女は天を仰いだ。世界の禍々しさを全身で感じている。その喜びが、間接的に伝わってくる。私は、別に嬉しいとも羨ましいとも思わない。自殺を思うほど冷淡な存在になってしまったから、それは仕方のないこと。
彼女はあえて、言葉に出して説明を続けた。その事実は、私以外の意識が存在することの証明に他ならなかった。
「私は、どちらかというと、あなたと上手くやっていきたい。それは仲良くとか、慣れ合うとか、そういうのとは違って、なんていうか、契約みたいなものだね。友達じゃなくて、パートナー。私の言ってる意味、わかる?」
――うん、わかるよ。私も、そっちの方がいい。
「良かった。その様子だと、私の希望にもおおむね応えてくれそうだね。あなたは自分を捨てたかった。それなら私が全て譲り受けるわ。いいかしら」
――ええ、もちろん。
「嬉しい。とっても嬉しいわ。ありがとう」
――でも、大変だと思う。死にたいと思ってしまうくらいに、私の周りは、私に優しくない。それでもいいの?
「いいのよ。むしろ、そうじゃなきゃだめ。言ったでしょう、私なら、あなたに与えられた不幸も理不尽も上手く使いこなすことができる。もし興味があるなら、しばらく見ていればいいわ。あなたのこと追い出したりはしないから。すきなだけ私と一緒にいればいいし、嫌になったら、消えてしまえばいい。意識に形はないから、消えようと思えば本当に、消えることができるわ」
日が沈み、闇に覆われた町のどこかで、私のようで私ではない何者かが悠々と歩いている。これは私を失った私だけが知っている、私と私だけの秘密。星の無い空を見上げて、不敵な笑みを浮かべたい。不敵な笑みを浮かべている。不敵な笑みを浮かべていた。私は誰か。それはもう、私ですら分からなかった。
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