怪奇小説掌編集
ねくす
消滅ボタン
暗い部屋に男が寝ている。アパートの一室。白い天井。雨の音。窓を覆うカーテンは薄く、灰色の外界から差し込む光が唯一の光源だった。床には物が散乱していて足の踏み場もない。低俗な小説や漫画が積み上げられ、モニターにつながれた配線は数え切れない。プラスチックのケースに取扱説明書は無く、PCのファンは何年も回り続けている。食品系の廃棄物も幾分かは落ちていたが、虫の気配は無い。部屋には殺虫剤のにおいが染みついていたから。雨の音がする。ざあざあざあ。耳鳴り。頭痛。自己嫌悪。ただ貯金を食いつぶすだけの生活など、いつまでも続くわけがない。男は寝返りを打った。その目は開いている。しかし何も見ていない。どうなろうと知ったことか。時間だけが過ぎて行く。雨は止まない。梅雨の終わりは遠かった。
階段を登る足音。次第に近づく足音。自分の部屋でなければいい、という思いを裏切ってチャイムの音が響いた。ぴんぽん。ぴんぽーん。帰れ。舌打ち。チャイム。男はプラスチックの空き箱を踏んだ。割れた。表面のイラストには大きな亀裂が入っていた。
覗き穴から見えるのは宅配員の姿だった。震える手が扉を開ける。湿気が隙間から流れ込んでくる。来訪者は帽子を目深にかぶっていた。奥に見える生垣で紫陽花が青い花を咲かせていた。
「お届け物です。サインいただけますか」
差し出されたボールペンを受け取り、彼は忌々しい自らの名を署名する。宅配員の口元は笑っていた。四角い箱は両手に収まるほどの大きさ。見ず知らずの差出人。どうやら着払いではないらしい。ありがとうございます。宅配員は頭を下げた。男は気味が悪くなって扉を閉める。振動。蛇口から水滴がこぼれた。ぽたり。ぽた、り。
箱は黄土色の包装紙に包まれている。怒り任せに包みを破くと、白い立方体が姿を現す。面を二等分する黒い筋がぐるりと一周回っていた。それは溝だった。親指で力をいれると、ぱかり、と二つに割れる。収められていたのは二つ折りの紙片、そして奇妙に黒光りする円形のボタンだった。
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××○○様
ご当選おめでとうございます。
厳正なる抽選の結果、こちらの「消滅ボタン」を送らせて頂くこととなりました。
以下の使用法および追記をよく読み、ぜひご活用下さい。
〈使用法〉
箱内の黒いボタンを押すと、あなた様の存在が「消滅」します。一瞬のことですので痛みはありません。ご安心ください。
〈追記〉
「消滅」について、こちらで補足説明させて頂きます。
以後、××○○様という人間はいなかったものとして世界が再構築されることになります。例えば、戸籍は抹消され、関わりのある人々の記憶や、過去も改ざんされることとなりましょう。その「あなた様が産まれて来なかった世界」への移行は一瞬にして成し遂げられます。不都合は何もありません。誰にも迷惑をかけず、苦しませることも悲しませることもなく「消滅」することをお約束いたします。
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文章を二度読み、男は片手で紙片を丸めた。箱のフタを閉じ、ワンルームに戻る。がじゃり、ぐぢょり、と足は一歩ごとに何かを踏み続けていた。ベッドを前にして彼は立ち止る。イタズラだ、と思えば思うほどに嫌な汗が溢れ出てくる。梅雨のせいだ。湿気のせいだ。ざあざあ。うぜえ雨。死ね。
いっそ死んでみるか。乾いた笑いが口元から漏れる。梅雨の雨のように冷や汗は流れ続ける。鳥肌が立つのに肌は熱く、湿気を帯びた全身の毛は虫が這うようにまとわりつく。
消滅ボタン。プラスチック製の安っぽい押ボタン。押せば何かが変わるかもしれないが、変わらないかもしれない。消えることができるなら。不毛な毎日が終わるなら。男はごくりと唾を飲み込む。前髪の合間から自らの手に目を落とす。何も成し遂げることの無かった手。役立たずな手。汚い手。指先が黒い球面に伸びる。
一瞬だけ、彼の脳裏に過去の風景が写った。それはめまぐるしく変化していったが、登場人物の顔は全てが黒く塗りつぶされていた。顔の無い卒業アルバム。二重線だらけの履歴書。幼き頃の誰かがブランコで遊んでいる。黒は全てを侵食し、やがて指先の一点に収束する。
男は黒い円形を押しこんだ。
カチ――
カチカチカチカカカッカチアカチチカカカカッカッカカカカカカチチタカチカアチカイカチカカカカカチカカカカカチチカカカ
狂ったような連打はいつまで続いたことだろう。やがて歯の震えまでもが共鳴し、ワンルームには奇音が響いていた。嘘じゃないか。はは、馬鹿にしやがって。それでも汗は止まらない。指も止まらない。殺虫剤のにおい。耳鳴り。紫陽花。宅配員。
ぴんぽん。ぴんぽーん。
男は箱を放り投げた。数年ぶりの駆け足で床を蹴る。文句の一つでも言ってやろうとドアノブをひねり大きく息を吸った。客人のことなどお構いなし。激しく扉が開け放たれたれる。が、宅配員の影法師は一瞬にして消え去った。男は一歩踏み出す。久々の外気が肺を満たす。背後で扉が閉まり、鍵のかかる音がした。男は目を見開く。雨は止んでいた。灰色の空を写す水溜り。その向こうには赤い赤い紫陽花の花が咲いているのだった。
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