文芸部の部長は悪魔と契約して

 丸椅子に座って原稿を読んでいると部長の手が僕の肩越しに伸びてきて、柔らかく後ろから包み込んでくる。「そのまま」と彼女は言った。僕は原稿に目を落としたまま読むのをやめる。紙の上には部長の書いた小説がある。今すぐに読まなくても立派な文芸作品であることは分かっていた。部長は世に知られた小説家で、部長が女子高生作家であることは、ほとんどの人に知られていなかった。僕は部長の本名も筆名も知っている。それでも部長と呼ぶのは僕が文芸部の部員だから、というのが分かりやすい答えなのだと思う。


「大事な話があるの。きみだけに教えてあげる。わたしが小説を書くことができる理由と、これからの秘密」


 いつになく愛おしそうに部長は体を近づけてきた。吐息が耳に当たって熱く、くすぐったい。窓の外で枯れ木が北風に揺れている。部屋はヤカンを沸かす石油ストーブで暖かい。僕たちは高校三年生で、僕は推薦で進学先を、部長は印税で食べていくことを決めていた。本棚の並ぶ空き教室、文芸部の部室で進路を語り合ったのは、つい先日のことだった。


「わたしね、悪魔と契約したの。小説の悪魔、もしくは文学の悪魔。放課後に文学全集を読んでたら出てきた。ぬわっと。わたしが中学生のときの話」


 部長は早くに両親を亡くしていて、そういう生い立ちが作風を深いものにしているのだろうと語る人が文学界隈にはいるらしい。人を見る目がないのね、と彼女は言って、その通りだね、と僕は言った。部長にとって両親がいないことは、ちっとも悲しいことじゃなかった。彼女の人生について、彼女自身がいちばん納得しているという話を聞いたのは、いつのことだっただろうか。


「小説の深い深い世界に連れてって。わたしのお願いは、それ。小説家とか文学者みたいなものになろうとは、初めから思ってはいなかったのよ。でも、その深遠に触れようと思ったら、自分の手を伸ばすしかないんだなって、今まで書いてきて思うかな」


 僕は部長の言う悪魔について思いを巡らせてみる。どんな形をしているのだろう。鬼のように角があって、吊り上がった白目に、黒い肌の巨体――いや、もっとモヤモヤした、黒い霧のようなものなのかもしれない。僕は思い浮かべる。たとえば、中島敦の書いた『文字禍』について。文字の霊を研究する古代メソポタミア人は文字の掘られた石板に押しつぶされて死んだ。『狐憑』の青年シャクは物語を語らせる憑き物が取れたとき、部族から捨てられとして喰われてしまう。どちらも救いのない話だった。


「太宰もヘミングウェイもサリンジャーもカミュもナボコフも、悪魔に憑かれた作家だよ。ディネセンとかマルケスとかは神様に加護された人たちだけど。たぶんね」


 壁を覆う本棚の片隅に岩波文庫があったなと思い出す。でも、僕の体は部長の手から逃れることを良しとはしない。万年筆の先を通して、もしくはキーボードのタイピングを通して、一つ一つの言葉に形を与えていく指先は何よりも大切なもののように思えた。


「小説の、もっと根源的な言葉の深みからくみ上げたものが、わたしの体を通り抜けていく。その度ごとに、わたしが人じゃなくなっていく感じがするのに、言葉は、わたしが紛れもない人だって語り掛けてくる。わたしの書いた小説は、わたしじゃないところまでつながっていて、それは先人たちがたどり着いたところ。もしくは、これからの書き手たちが行き着くかもしれないところ。あるいは、キミみたいな、平凡に生きようとする読者の言葉にならない思いの、どこか。わたしはどこへでも行くことができた。そこで見つけたものを言葉にして持ち帰って、金銭的に測れる価値のあるものは出版社に持っていく。まだ今の人たちに早いと思うものは、机の引き出しにひっそりと隠しておく」


 僕たちの代で文芸部は廃部が決まっていた。一つ上、二つ上の先輩は部員として名前を貸してくれる生徒を勧誘し、廃部にささやかな抵抗を見せたけれど、活動をしないという文芸部の実態は何も変わらなかった。気まぐれで部室を訪ねると、その回数を重ねるごとに部屋の人数は減っていった。最後に残ったのが彼女と僕だった。文芸部は休部という形で名前を残しているけれど、僕たちが卒業すれば、それも終わりだろう。


「ほんとうは、悪魔は魂しか代価に取らないそうなの。でも、わたしが賭けに勝ったら命を取るのは免じてやろうって。それはね、言葉を失った女の子を、愛してくれる人がいるか、いないかっていう賭け」


 部室には僕と部長の二人だけだった。そんな日が、一年、二年と続いた。たまたま部長の書いた原稿を読む機会があって、その文体は今まで読んだどの小説とも違っていたけれど、直感的に、あの作家かもしれないという予感がしたのだ。部長も、その作品は出版や商業とは関係無い個人的な創作物だと言っていて、とても実験的だし、文体も異質だから、読ませても特定はされないだろうと思っていたらしい。部長は笑って、運命的ね、と言った。それから間もなくして、僕たちは手をつなぎ、また少し経って、お互いの背中に手をまわすようになった。言葉が巧みなことを除けば、部長の笑顔、肌のきめ細やかさ、スカートの長さ、その他すべてのことが、あまりにも普通の女子高生だった。


「わたしは言葉を担保に言葉を前借りした。文学世界のフリーチケットは有効期限が今日まで、時間指定は、ちょうど逢魔ヶ時、午後四時四十四分。それを過ぎると、わたしの中から言葉は消える。言語と呼べるようなものは全て。なにも書くことができない、読むことも、話すことも、考えることすらも。人間が決めた人間のための記号、音、意思疎通のためのルール、その輪の中から強制的にはじき出されて、人形か、動物みたいな何かになってしまうの、わたしは」


 窓の外からは黄昏が射し込んでいて、僕たちとはまるで似つかない影が床の上に落ちている。そこには何者かが潜んでいて、聞き耳を立てているように見えた。僕は部長の原稿を机に置いた。壁の時計は四時四十分を指していた。


「わたしはいろいろと書き過ぎたし、きみにもしゃべり過ぎたよ。だから、これからはもう、黙ろうと思う。はじめは、言葉の無い世界で寂しく死ねばいいと思ってた。今は、きみがいるから。きみに嫌われるなら、死んでもいいと思ってる、なんてね」


 言葉巧みな部長の作り話なのだろうか、と頭の片隅で思っている。素直になれない小説家の、あまりにも回りくどい心の内の告白。どちらでもいいじゃないか、と僕は思う。部長はここにいる。机の上の、原稿の上にもいる。すでに発表された作品の中にも。これから発表されるであろう作品の中にも。


 僕と部長の間から言葉は消えた。夕暮れの陽光が最後の輝きを見せる。

 僕は影を見た。部室に細長く伸びる、一つになった僕たちの影。




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