第4話(その四)

scene8.


 赤梨が目覚めたのはごちゃごちゃとした部屋のベッドの上だった。紙の匂いが鼻腔をくすぐる。この匂いが好きで、なんだか落ち着いた気になる。そこには明かりのひとつもついていなかった。月明りが天井に近い窓から入り込んできているので、外は夜であることが伺える。


 窓から差し込む月明りで、赤梨の起き上がった真ん前にパブロ・ピカソのゲルニカが飾ってあるのが見えた。縦が約三・五メートル、横が約八メートルある絵画がずどんとそこに飾ってあった。それが飾ることのできるほど、この部屋は大きいらしい。確かに、赤梨が眠っていたベッドも赤梨一人では少し寂しいほどの広さだった。


 一九三七年。スペインの画家、パブロ・ピカソが描いた絵画であるゲルニカは、スペインで起こった内戦の最中、ドイツ空軍のコンドル軍団によってゲルニカが受けた都市無差別爆撃——通称ゲルニカ爆撃を主題としている。二〇世紀を象徴する絵画とされ、準備と製作に関して最も記録されている絵画でもある。


 しかし、それは前述のとおり、大作であるが、工業用の絵の具ペンキで描かれたはずで、ともすれば、こんな匂いはしないはずだ。ペンキを用いることでピカソはこのゲルニカという大作をわずか一か月弱で描き切った。


 だというのに目の前にあるゲルニカからは何の匂いもしない。タペストリーなのだろうか。もう少し、寄ってみようと起き上がらせた上体をさらに前に傾けたところで、


「動かないで」


 と短く命令された。誰だと声のしたほうを見やると、そこには月明りのせいもあってか、真っ白な肌をきらきらと光らせ、光沢のあるつややかな白に見える銀髪を腰ほどに伸ばした美少女がベッド横の椅子に腰かけていた。


 その手には少し大きなスケッチブックがあり、鉛筆を走らせていた。しゅりしゅりと音がする。


「ごめん」と赤梨が謝ってもう一度上体をついさっき起き上がらせたくらいまで戻す。


「寝て」


 短く言われた。わずかに首を頷かせて赤梨はそのままベッドに倒れこんだ。

 さらさらと黒鉛の削れる音がする。この子は何を描いているのだろう。ちらりと目だけを動かして少女を見る。少女の目は真剣そのもので、その手は止まることなく動き続けていた。


 羨ましい。赤梨は素直に思った。俺もそんな風に描けたら――気を失う前のことを思い出す。ついさっきの出来事のように思い出せる。


 誰とも知れない男とも女とも区別のつかない不思議な声に導かれて、あの筆を手にしたとき、体の中を全能感ともいえる感覚が駆け抜けた。何でも描ける気がした。自分が思う絵を、好きだと思った世界を、きれいだと思った世界を、心や記憶の片隅だけでなく、しっかりと白いキャンパスに残せるような、そこに世界を作り出せるような、そんな気がした。そんな気がしていた。


 同じように、何でもできるような、目の前に倒れたグリーンを助けられるような、目の前に立ちはだかるあの二人を倒せるような、そんな気が、確かにしていた。


 そういえば、あのあとグリーンはどうなったのだろうか。無事でいただろうか。機内で話したときのように、軽やかに話すグリーンはいるのだろうか。


「気になるの」


 そんな赤梨の心を見透かしたような質問が少女から投げかけられた。え、と赤梨は息を飲んだ。


「その絵」


 ああ、そっち、と呼吸が軽くなる。


「ああ、気になるよ。ゲルニカって、すごい絵だから」

「何がすごいの」


 少女は手を止めて、顔を赤梨に向けた。透き通った目をしていた。蒼い、遠くのほうまですべて見ているような、深い蒼。どきりとして、赤梨は最初の声が言葉にならなかった。それを誤魔化すように咳ばらいをした。


「なんかよくわからないところがすごい。いろんな風に見れるんだ。その昔、描いた張本人のピカソは『牡牛は牡牛、馬は馬。観客はそれらを自分で解釈できるシンボルとして見ようとする』と言った。でも、そのあとに、『牡牛が残忍性と暗黒を、馬は人民を表す』って言ったんだ。それでもって、『ゲルニカという作品は象徴的で寓意的なものである』ともね。ほかの要素についてまったく説明のないまま彼は死んだ。でも、俺は、それでいいんじゃないかと思うんだ」

「どうして」

「絵に答えはないと思うからだよ。どんな絵だって、明確な答えは要らないと思うんだ。描いた人がどんな思想をその絵に込めたとか、わからなくたってすごいものはすごいし、綺麗なものは綺麗だ。裏にどんなことがあったってね」


 ふう、と赤梨は深く息を吐いた。少し気恥ずかしい。自分で言って、自分のことを顧みて、今なら描けるだろうかと考えた。そんなことを言って、自分は描けないという答えを今なら外せるだろうかと。

 そう、と少女は短く答えた。


「でもあれを描いたのはグリーンよ」

「え?」

「グリーンが描いたの。だからあれはピカソの描いたものじゃない。ピカソの思いはそこにないわ」


 そういって少女は止めていた筆を再び走らせた。

 グリーンが描いた。にわかには信じられない。模写したのだとしても本物と寸分違わないように見えるそれは贋作にしては気品に溢れている。あの軽佻に見える彼が画商である以前にこれほどまでに絵画を描く才能に溢れているとは驚きだった。


 と、少女の手がすぐ止まった。どうしたの、と赤梨が尋ねようとしたとき、木製のドアがぎいいと音を立てた。


「ホワイト、またここにいたのかい? 駄目だよ、赤梨くんはぐっすり眠っているのだから悪戯をしようなんて――」


 噂とすればなんとやら。右手に持っていたコーラの瓶を放り出してグリーンは赤梨に飛びついた。どふっとベッドが軋む。ぐっと赤梨は抱きしめられた。思いのほか腕力が強くて体が軋むほどだったが、助けられたことが嬉しくて、また会えることができて、我慢できた。


「目が覚めたんだね! 随分と眠っていたじゃないか! さすがに眠りすぎだよ! 私は正直もう起きないのではないかと思ってひやひやしていたところだ。ほら、日本には三年も眠りこける男がいるらしいじゃないか。それが赤梨くんなのかと思って仕方ないから三年は見守ろうと決意していたというのに」

「うるさい」


 そういってホワイトはスケッチブックを持って開け放たれたドアから出て行った。


「こらホワイト、もう少し何かないのかね?」


 それに答えることもなく、ホワイトの姿は見えなくなった。


「すまないね。彼女は妹のような子でね。少し気難しいところがあるが、絵を描くセンスもピカイチだし、何よりかわいい。目に入れても痛くないほどかわいいんだ。赤梨君もそう思うだろう? まるでフランス人形のようで、可憐で華凛で愛らしい。だからあの子ももう少し人とコミュニケーションを図れるようになったらいいんだが、ああでもそれだと悪い虫がついてしまうか。もし私があの子とまるで知り合いじゃなかったら声をかけてしまうものなあ。あ、流石に今の私はかけないよ? ストライクゾーン、というやつが外れているからね。あくまで言葉の綾だ。でも赤梨くんはストライクなんじゃないか。君くらいの子だと、あれくらいがちょうどど真ん中なんじゃないか? それともインコースか? アウトコースか? いずれにせよ、判定はしっかりとストライクだろう?」


 うん? とほほ笑むグリーンに、うるせえと言ってやりたかったが、それより、あの軽口がまた聞けたことがうれしくて、少し泣きそうになった。


「おいおいどうした赤梨君。まさかどこかに傷があるのかい? まいったな、外傷はなかったはずなんだが。まさか内傷か? どこだ?」


 ごそごそと衣服をはぎとろうとするグリーンを制して、赤梨は違うと、グリーンの体を押しのけた。グリーンはベッドから離れた。


「俺、グリーンさんのこと助けられたんだなあって思って。夢じゃなかったんだなあって思っただけです」赤梨はそう言って袖で目じりをぬぐった。

「そうかそうか。そうとも、赤梨くん。君は私を救ってくれたのだ。ありがとう。心から感謝する。一度ならず二度までも救ってもらえるとはね。君のおかげで、またコーラを飲むことができた」


 空の右手を挙げて、「ああ、そういえばコーラを投げてしまったんだった」と肩を竦めた。


 そこで、あれ、と赤梨はグリーンの言葉を思い出した。


「俺、三日も眠ってたんですか?」

「ああ、三日眠っていたよ」

「ホテルどうしよう……」

「それは心配に及ばない。すべてこちらで処理した」


 ウインクする。グリーンはついさっきまでホワイトが座っていた椅子に腰かけて、一息ついた。


「君が予約していたものはすべてキャンセルしたよ。いつ目覚めるのかもわからないからね。それでも、すぐに目覚めてくれてよかったよ」

「あの、グリーンさんが生きているってことは、つまり、その前に起きたことも夢じゃないですよね」

「ああ、夢じゃない。あれもまた現実だ。まるで夢物語だけれども、しっかりとした現実の話だよ。君の目の前で私は下手なステップを踏んで一度死にかけた。

 いやあ、まいったよ。まさかあそこにクロードが来るとは思っていなかった。というか彼も酷い奴だよなあ。一時ではあるが仲間であり親友であった私の心臓をぐさりと一突きにしたんだぜ? 笑い話にしてはスパイスが効きすぎて辛口を通り越して美味しくない。生きた心地がしなかった」


 苦笑いするグリーンに赤梨も苦笑いし返す。それからグリーンに心配そうに、


「体はなんともないんですか?」


 グリーンは立ち上がって、くるりと一転してみせた。


「元気だよ。君が助けてくれたと言ったろう? 君はどうやら治癒魔法まで扱えるらしくて、気絶した君を背負って逃げるくらいには、あの時には回復していたんだ。さすが、ダ・ヴィンチの魔術師と言ったところだね」


 ぽかんとする赤梨に、少し歩こう、とグリーンはベッドから起き上がらせた。ホワイトが出て行ったドアから部屋の外に出ると、長く廊下が伸びていて、一面に窓ガラスが続いている。その反対側、部屋と廊下を隔てる壁には、様々な絵画が飾られていた。


「ここは私の屋敷だ。イタリアのサンジャミニャーノにある」

「ああ、そうなんですか。ってイタリア!? 俺フランスにいたんじゃ……」

「魔法を使えばなんだって出来る。ドラえもんの秘密道具で言う『どこでもドア』を我々も使えるのさ。クロードが使っていたろう? それにしても、どこでもドアか。自分で言っておいてなんだけれど、なかなか秀逸なたとえだなあ。もしかすると藤子・F・不二雄先生は魔術師だったのかもしれないね」


 グリーンはどこまで日本を知っているのだろう。一人頷くグリーンをよそに、赤梨は廊下に延々と飾られている絵画を見ていた。


「その絵画たちが気になるかい?」

「ええ。それにしてもすごい数ですね。奥までずっと続いてる」

「そうさ、すごい数だ。イタリアも絵画の国だからね。ルネサンス期の絵画だけでも数えるのが億劫になるほどある。黎明期から始まり、初期、盛期、マニエリスム期と約三〇〇年も続いたんだから。その時代をつくったこのイタリアという国こそ、その絵画たちを守るのにもってこいの場所なのさ」


 守る? その言葉が引っかかった赤梨は近くにあった絵画を良く見やった。それはラファエロ・サンツィオの『キリストの変容』だった。一五二〇年ごろに描かれたこの作品は今はヴァチカン美術館に保管されているはずのものである。


 その当時、ナルポンヌ司教の枢機卿であったジュリオ・デ・メディチによって依頼され描き始めたこの作品はラファエロの遺作として有名であり、彼の死後、弟子たちが描き上げたものである。


 これも贋作だろうか。ついさっき、ホワイトがあのゲルニカはグリーンが描いたものだと言っていた。これも同じようにグリーンが描いたものだろうか。


「それは本物だよ」


 グリーンはあっけからんと言った。本物だとしたら、それはグリーンが、もしくは赤梨の知らないグリーンの仲間が盗んできたことにならないだろうか。借りてきたとか、買い取ったとか、そんなことにはならないはずだ。


「本物がどうしてここにあるんですか!」

「盗んだのさ。守るためにだけどね」

「そんなことしていいんですか? ていうか守るってなんですか」


 赤梨は肩を竦めたグリーンをじとりと見やった。


「君も見たろう? 彼らがモナ・リザを破壊しようとしたのを」


 こくりと赤梨は頷いた。あり得ない話だ。あり得ないけれど、あり得た。あの時、ブラウンと呼ばれた男は躊躇いもなくあの名画を平然と爆発させようとした。グリーンが守ったからモナ・リザは今なおその微笑みを観客に向けている。


「あれはね、単純にモナ・リザが嫌いだったからじゃあない。壊せば世界中で話題になるからでもない。モナ・リザを壊すことによって、分散している魔力を失くそうとしたのさ」

「魔力を失くす?」

「そう、魔力というのは、魔術師にとって戦うために必要な力だ。それが無くなってしまえば魔術師は戦えなくなる。魔法の筆によって描かれた数々の作品、それらにも魔力が宿っているんだよ。魔法の筆にはその画家の命が宿り、その命は、筆を通じて白いキャンパスに宿る。結果、世界中に様々な絵画が残り、それは今でも観客を虜にしている。その中に魔力を残してね。面白いことに魔術師が生まれると絵画に宿るその魔力は、その魔術師を殺さない限り絵画自身を守るために使われるんだが、魔術師が生まれるより早くその絵画が壊されてしまうと――」


 魔術師が力を使えなくなる。少し先を歩くグリーンがこちらを振り向いて言った。


「じゃあ、モナ・リザも盗もうとしていたんですか?」

「盗もうとしていたよ。随分前にね。ところがモナ・リザは盗めなかった」

「どうして」

「それはわからない。いや、見当はついたんだが、果たしてこれであっているのか定かじゃないんだ。仮定の話でもいいなら説明しようか?」


 お願いします、とグリーンの隣まで赤梨が歩き寄って、頭一つ分高いグリーンの顔を見上げた。


「おそらくだけれども、モナ・リザの中に魔法の筆が隠されていたからなんだろう。他の作品もそう。ダ・ヴィンチの作品はどれもが盗めなかった。その場から動かないんだ。取り外そうにも取り外せない」

「でも確か、俺が生まれる前ですけど、モナ・リザ展が開催されたはずです」

「贋作さ。非常によくできた贋作だ。うちにあるよ? 見るかい?」


 うそ……。思わず赤梨の肩が落ちた。


「がっかりするな。この世界には本物と偽物がたくさんあって、混じり合っている。どれが本物でどれが偽物かなんてわからないんだ。私があれを本物だと言えるのは、まだラファエロの魔術師が生まれていないからで、これから先、ラファエロの筆を使う魔術師が生まれることが一度としてなかったら、ヴァチカン美術館から盗み出したあれは偽物ということになる。逆に、誰かがラファエロに選ばれて魔術師になれたら、あれは本物だった、となるわけだ。ある種のギャンブルだよね」


 人生そんなもん。と言いながら、グリーンは大事そうにその絵画を眺めた。


「でもこれが本物ならいいなと強く思うんだ。画商としての私はこれが本物だと確信しているしね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ダ・ヴィンチ・ウィッチ 久環紫久 @sozaisanzx

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ