第3話 オレンジ・レイン
カラン、カラン。
お店の入口に取り付けられたカウベルが、乾いた金属音をたてた。
「いらっしゃいませー。おや、ベティちゃんじゃないですか。もう講義は終わったのかい?」
カウンターの内側で包丁とジャガイモを持ったまま、マスターの
「あー、暑い、暑いっ、やっぱり涼しいー!
マスター、おはようございまーす! あー、クーラーが、クーラーが」
タンクトップにジーンズ、肩から大ぶりのショルダーバッグを掛けた女子大生が店のドアを素早く閉める。
ショートヘアにくりくりとした大きな瞳、少しだけ上向いた小鼻がチャーミングな女子だ。
額の汗を手の甲で拭い、エアコンで冷却された店内の空気にうっとり目を閉じた。
フルフェイスのバイク用のヘルメットを抱えている。
ベティと愛称で呼ばれた
梅雨入り前のとても蒸し暑い、ある夕暮れ時のことである。
『かふぇ・ぷらすα』は、
日中はランチやコーヒーを提供し、夕方から深夜にかけてはアルコールと月替わりの創作料理を売り物にしている。
オーナー兼マスターの江川さんは、以前フォーク・シンガーとして活躍した時期がある。アルバムも何枚かメジャー・レーベルから出している人物なのだ。
現在はお店を経営しながら地元のラジオ局でパーソナリティなんぞもやっており、気が向いた時にギター片手にライブハウスに出演したりしている。
そんなマスターがコーヒーや料理をふるまう店であるため、イラストレーターや演劇人、舞踏家など芸術関係の常連客が多い。
お店は位置的に言えば大学通りからは少し遠い。地下鉄で一駅半、歩けば二十分程度。
いつの頃からか、
部員たちは漫画という芸術にたずさわる自称アーティストとして、このお店に出入りすることがひとつのアイデンティティとなっている。
代々の先輩から「ここを第二の部室と思うべし」と申し送りがあった。
もちろんそれだけではなく、江川さんの作る料理はどれも絶品で、しかも量が多い。
カレーライス、焼きそばなどの定番料理は学食のゆうに二倍の盛りがあり、値段も近所の喫茶店よりもはるかに安いのだ。貧乏学生の財布に優しい、良心的な価格設定になっている。
店内は天井から床まで、渋めのオールド・ウッドで構成されている。それに同じ素材で作られた四人掛けテーブルが五卓、つめれば七人座れるカウンター。
ベティは中京都大学文学部の二回生で、漫画研究会の部員である。
「この暑さは、なんなのさ! って怒ってみても汗がドッと出てくるだけ。エアコンだけを生涯の伴侶とします」
「はははっ。まあ、座って。アイスコーヒーでいいかな」
四十歳は超えているはずの江川さん、さらさらの長めの髪をかきあげ、ベティに爽やかな笑みを浮かべた。
白地のTシャツの上に着たローリング・ストーンズのロゴマーク入りのエプロンで両手を拭き、カウンター奥のキッチンに入っていった。
「アイスコーヒーのシャワーを浴びたい」
ベティはメンソールの煙草に火を点けし、漫画研究会部員の定位置である一番奥のテーブルに目を向けた。
あまりの暑さに思考が鈍っており、ようやくそこに人がいたのに気づいたのだ。
「ありゃ、
「おーい、戊馬くーんやーい」
ベティの問いかけに微動だにせず、いびきの音がさらに大きくなっていく。
「ったく、いい若い者が。まだ
キッチンからアイスコーヒーをなみなみと注いだグラスを持って、江川さんが出てきた。
「なんかさあ、徹夜で漫画原稿に取り組んで、そのまま講義受けてきたんだって」
「漫研部員なら当たり前のことを。さも大袈裟に江川さんに吹聴していた映像が浮かぶわ」
カウンター越しにアイスコーヒーを受け取ると、立ち上がった。テーブル奥の席で寝ている笛人の横に腰を降ろす。
よいしょ、とヘルメットとグラスをテーブルに置き、ショルダーバッグを肩からはずした。
「今の時間はご覧のとおり、お客さまは君たちだけだし、ゆっくり寝かせてあげてよ」
江川さんはそう言うと、再び包丁を持ちじゃがいもの皮をむき始めた。
ベティはアイスコーヒーを一気に半分飲みほした。
「プハーッ、生き返りますぅ」
とんっとグラスを置き、満面笑みを浮かべる。
「もうとっくに梅雨の時期なのにねえ。連日の暑さは異常だよ」
「二週間以上雨も降らないですね。お陰でわたしらライダーにとっちゃ、ありがたい話なんですけど」
ベティは愛用のヘルメットをペしぺしと叩く。
「気象庁も大変だね。何年もの気象統計と格闘しながら、毎日暑さの記録更新を発表しないといけないしね」
江川さんは器用に包丁の先端で、ジャガイモの芽を丁寧にくり抜く。
「毎年、梅雨の時期って嫌いだけど、今年は待ち遠しいわあ。打ち水にレインボーじゃないけど」
「えっ、なになに? 冬の爺い金的ってさあ」
笛人が突然むくりと首をもたげ、寝惚けた声であたりをみまわした。
「寝惚けてんじゃないよ、この誇大広告野郎!」
ベティはピシャリと、笛人の広い額を叩いた。
「痛ってー!」
本気の悲鳴を上げた。
「あーあ、あれは効くよ」
江川さんはまるで自分がはたかれたように、眉間にしわを寄せた。
「おっはよーん、戊馬ちゃーん」
ベティは行為とは裏腹に、たっぷりと色気のあるチャーミングな声色で笛人の顔をのぞき込んだ。
「おっ、ベティじゃない。お、おはよう」
「不眠不休の創作活動、ごくろうチャン、戊馬くん。大作の進捗状況を上官に報告したまえ」
まだ夢と現実のはざまを彷徨う笛人は、真っ赤になった額を押さえたまま脳のCPUを高速演算させ、今の状況を把握しようとした。
その時である。
カラン、カラン。
カウベルの音のした入口、三人は顔を向けた。
むうっとする生温かい外気とともに、ひとりの客が入り口に立っている。
西陽がドアのガラスに反射して影になってしまい、人物像がよくわからない。
「いらっしゃいませ、どうぞ」
江川さんは笑顔で声をかけた。
シルエットから浴衣姿の男性と判明するが、着物が大きいらしく袖からは指先しか見えない。頭は剃っているのか、坊主頭である。痩せ細ったミイラのような印象だ。
のっぺりとした顔の男性は、おもむろに口を開いた。年齢は六十歳代から七十歳代のように見受けられる。
「ココハ、液体、飲ミ物ヲ、提供サレマスカ」
(はーん? 外人のオッチャンかあ)
ベティは訝しげな視線を向ける。
「ええ、もちろん。コーヒー、紅茶、なんならビールもありますよ」
江川さんはにこやかに答える。
「ソデスカ」
「外は暑いでしょう。どうぞこちらへ、お好きな席へおかけください」
江川さんはカウンターから出ると、丁寧に両手を広げた。
「アア、ソデスカ」
男性はベティが入って来たときと同じように、履いている下駄の音を立てながらヨタヨタと転びそうな足取りで店内に入ろうとして、奥に陣取る漫研部員二人に気付いた。
なぜか顔をそむけるように、入口横のテーブルに背を向けて倒れ込むように腰かけた。
ベティと笛人は顔を見合わせた。そして小声でささやく。
「ねえねえ、ベティ。あの人は外人かなあ」
「そうじゃね。だって日本語が変だし」
「頭ツルツルで、浴衣もヨレヨレ、しかもダブダブ、サイズが合ってないよね」
江川さんは外人らしき客のテーブルに、レモンを少し搾ったお
「メニューはこちらです」
テーブルに立てかけてあるお手製のメニュー表を、指さした。
「字、解析デキズ、スミマセン」
「外国の方なのですね」
江川さんは微笑みを崩すことなく、相手を見た。
「ガイコク? ハア。ナニカ、美味ナル液体ヲ、所望デス」
「美味なる、ですか? うん、そうですねえ、では生の搾りたてオレンジジュースなんていかがですか。私の友人がやっている農園直送のオレンジなんですよ。これは常連のお客さんにも好評ですから」
「オ、レン、ジ。何ヤラ、
「かしこまりました」
「シカシ、ソノ対価トシテ、コレハ使用可、デアリマスカ」
客は、やけに膨らんだ巾着を胸元からから取り出した。中味をテーブルの上にぶちまける。チャリンチャリン、チャリーンと大量の硬貨がテーブルに広がる。
一円から五百円玉まで合わさった硬貨を、江川さんは驚きながら確認する。
「これまた沢山ありますすね。こんなに要らないですよ、一杯四百円ですから」
「ソデスカ、契約デキマシタカ。ウレシ」
グニャグニャと客は笑った、と江川さんには見えた。
好奇心むき出しのベティと笛人は揃ってカウンターの椅子席へ移動する。そちらのほうが観察しやすいからである。
「江川さん、江川さん、あのお客さんはは何者でしょうか?」
「かなりお疲れみたいですけど」
「あの大量の硬貨は、もしかして偽造とか。あっ、お賽銭ドロボーかも」
小声で問いかけてくる二人に、江川さんは苦笑しながらカウンター内で生オレンジをジューサーにかけた。
「本物の硬貨だったよ。きみたち、あまりお客さんをを詮索しないように」
「はーい、すみません」
二人はしょんぼり頭を下げた。
ジョッキの縁にスライスしたオレンジを挿し、氷を浮かべたジュースをトレイの載せた江川さんがカウンターから出る。
「お待たせいたしました」
音符を模したコースターを敷き、オレンジジュースを置いた。漫研二人組は目だけを動かし、成り行きを見守っている。
ゴクリ、とのどが鳴る音。客は大きく目を見開いてグラスを凝視した。
「オ、レン、ジ」
いきなりストローも使わずに、一気にジョッキを傾けた。
「エッ!」
いつも
客の口が大きく開き、氷ごとオレンジジュースが喉に向かって流れ込んでいく。傾けていたジョッキをゆっくりテーブルに置き、客は唸った。
「ビ、美味ナルモノ! 美味。オ、レン、ジ。初ノ味覚、モウ一杯!」
口を開けたままの江川さんは、ハッと我に返った。
「お、お口に合って良かったです。ではもう一杯お作りしましょう」
空いたジョッキを持ち、カウンターへ戻る。
「は、早い」
「氷ごと飲んじゃってましたねえ」
「うーん、もう一杯! だって」
ベティと笛人の囁き声を聞きながら、江川さんはもう一度オレンジ絞りの作業に入った。
〜〜♡♡〜〜
一時間後。
「ひい、ふう、みい、と。はい、確かに六千四百円ちょうどいただきます」
江川さんは若干疲労したような表情で、それでも笑顔を絶やさずに硬貨を数えて受け取った。
「オ、レン、ジ、トテツモナク美味ナル液体。満足、御礼申シ上ゲ
客はテーブルから立ち上がった。
「アッ! 戊馬くん、あの人」
「エッ? マジ」
二人は立ち上がった客を見て驚いた。なんと、太っているのだ。着ていたダブダブの浴衣が今ではあつらえたかのように、ピタリと客の体型に合っているではないか。
つまり、縮んでいた身体が膨らんで元にもどったというところだ。顔つきも二十歳は若返ったかのように見受けられる。
「ありがとうございましたあ」
来店時とは打って変わって威風堂々とした態度でドアから出ていく客に、江川さんは頭を下げた。
「じゅ、十六杯も飲んだよ、あの人」
「オレンジジュースって、あんなに瞬間的に太るのかしら。わたし、いくら江川さんの美味なるお手製でも遠慮しちゃいまーす」
カウンターの裏側に戻った江川さんは、廃棄バケツにてんこ盛りになったオレンジの皮を見てうなずいた。
「僕もこの商売してから、初めてだよ。あんなに美味しそうにジュースを飲んでくれたお客さんは」
「そこですかぁ、江川さん」
「いやぁ、しかし驚きました」
ベティは感嘆の溜息をついた。
〜〜♡♡〜〜
「じゃあ、帰りまーす」
「はーい、お疲れ。戊馬くんはベティちゃんのバイクに乗せてもらうのかな」
「タクシー代は、もちろんいただいますが」
「エェ、ただでいいじゃん」
江川さんに見送られ、二人はカウベルの音を立てながらお店の外に出た。
「うわっ、暑ッ!」
同時に叫んぶ。
西の空を真っ赤に染めた太陽は、まだまだ熱線を地上にこれでもかと降り注いでいる。
「んんっ?」
店前の歩道に停めた大型バイクにキーを差し込んだベティは、ヘルメットをかむろうとして首をかしげた。
「どうしたん? ベティ」
「いま、ポツンと」
「鳥のフン」
「やかましい! 雨じゃ、ないかな」
笛人はバイクのタンデムシートに取り付けてあったヘルメットを受け取りながら、夕空を見上げた。
「あら、ほんとだ」
「でしょう。やっと恵みの雨だわさ。ありがたいけど、本降りになる前にアパートにもどらにゃね」
ベティはまたがると、セルモーターを回した。
ポツン、ポツンと小さな雨粒が乾ききった黒いアスファルトに吸い込まれる。
シートにまたがったベティは、まだ立っている笛人を振り返った。
「ちょっと、何してんのさ、チャッチャッと乗ってよ」
それでも顔を上げたまま、じっと空を見上げている。笛人はおもむろに口をあんぐりと開き、空を仰いだ。
「戊馬くん、暑いからって雨水はまたお腹壊すよ、前みたいに」
「ベティ」
「だからー、何さっ」
笛人はベティを真剣な面持ちで見た。
「この雨」
「うん」
「オレンジの香りがする」
「ハアッ?」
眉間にしわを寄せたまま、ベティはヘルメットを脱いだ。
「寝過ぎで味覚が壊れた? なんで雨がオレンジなのよ」
ベティは口元に付いた雨の水滴を、かわいらしい舌先でペロリとなめる。
「うっ」
「どう? オレンジの香り、しない?」
「する」
二人は顔を見合わせ、それからも一度空を見上げた。ポツリ、ポツリと遠慮深げな雨粒は、ほんのりとオレンジの香りを振りまきながらに宙を舞っているではないか。
「まさか、ねえ」
「もしかして、さっきの外人さんって」
「雨の神様? 聞いたことないよう」
「だよね。でも、あの大量の小銭ってやっぱりお賽銭じゃあ」
オレンジの香り漂う久しぶりの恵みの雨。その後ようやく本格的な梅雨に入っていった。
了
ひねもす漫研、オタクかな (SFではなく、あくまでも私小説であると断言する!) 高尾つばき @tulip416
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