第32話 のっぺらぼうの咄

 イックーさんはこのところ、顔拭き用の制汗デオドラントシートを使ってイクという独自の技法を編み出し、悦にイッておった。汗を拭いておるときに着想を得たらしい。

 制汗ならぬ、性感というわけじゃ。

 ……各々がたは真似するでないぞ? 刺激が強すぎてよくないらしいからのう。

 さて、ある蒸し暑い夕べのこと。丁度そのシートを切らしておることに気付いたイックーさんは、急ぎ都へと向かったそうな。

 だが、これは極めて浅はかな行為であった。

 大人顔負けのイキざまを見せるゆえ忘れがちだが、イックーさんは小坊主なのじゃ。その足で日の落ちる前に寺に辿り着くことなど、到底無理な話よ。

「──ああ、まずい、すっかり遅くなってしまった……!」

 日もとっぷりと暮れ、暗くなってしまった帰り道を、イックーさんは急いだ。ひどく心細げな面持ちでのう。

 夜盗の類は当然警戒すべきだが、なによりも怖いのは……そう、おばけじゃ。イックーさんは小坊主なのでな。

 おっかなびっくり進むうち、やがて小川を渡る橋まで辿り着いた。

「……ひああぁっイグッ!?」

 イックーさんは、イキかけてしもうた……

 橋げたの上に人影があり、両手を欄干に乗せて川を見つめておったからじゃ。一瞬おばけかと思ったのだが、どうやら若い町人らしい。月明かりに照らされた横顔はチンうつで、なにやら思い詰めた様子である。

 これはまさか、身投げをしようというのではなかろうか?

 もしそうであるなら、仏道にイキる者として看過はできぬ。恐怖も忘れて、イックーさんは近付いてイッた。

「あの、もし……」

「……ん?」

 半身に振り向いた若者の瞳からはせいきが感じられず、尋常の様子ではない。これはいよいよ危ないかもしれぬ。

「ひょっとしてあなた、よからぬことをお考えでは? 早まってはなりませんよ」

 若者はゆっくりと首を振った。

「これはこれは、立派な小坊主さまではありませんか。御仏に仕える御人が、シモジモの者に関わるべきではありません。どうぞ捨て置いてください」

「そんな! 御仏の教えは皆さまのためのものです。わたしは修行の足りぬ小坊主ですが、少しでも御力になりたいのです。もし悩みがあるならお聞かせください」

 食い下がるイックーさんに、若者は嬉しそうに微笑んだ。

「なんとお優しい! でも……よろしいのですか?」

「ええ、なんでも話してみてください。話せば気が楽になるということもございますし」

「本当に? こんな私の言葉を聞いてくださるのですか? 本当に?」

 今や若者は、この上もなく楽しげな笑みを浮かべておる。先ほどまでの様子からすれば、いかにも不可解な豹変といえよう。

「え? ええ……」

 イックーさんが戸惑いながらもそう返した瞬間、若者は──バッ! と前をムイた。

「アヒィーッ!?」

 イックーさんは思わず悲鳴を上げた。

 袴が足首まで下ろされており、下半身が露出されておった。それだけでも恐ろしいのに、おお、なんということ……そこには毛が一本もなかった。つるつるだったのじゃ……

「こんな私にも、まだ優しくしてくれますか? 本当に?」

 若者が満面の笑顔で言ったとき、イックーさんの恐怖は最高潮に達した。

「う、うわああぁぁぁぁのっぺら棒だああぁぁぁぁーっ!」

 仏の教えも忘れ、一目散に逃げ出した。

 宵闇はすでに濃く、辺りは妖しいほどに暗くなってきおる。背後で若者が笑い続けている。その笑い声が、どこまでも追ってくるような気がして、イックーさんはひたすらに走る。

 彼はなぜのっぺら棒になってしまったのか? そして、なぜそれを他人に見せるのか? まるでわからぬ。わからぬからこそ、恐ろしいのじゃ。

「ハァ、ハァ……イグッ、イグゥ……ハァッ……!」

 必死に走るうちに、道の先にアダルトグッズの屋台と思われる灯りが、ぼんやりと見えてきた。小さき灯りなれど、イックーさんがどれほど安堵したかは想像に難くない。まだほんの小坊主なのじゃ。

 ──あ、ああ、助かった!

 こけつまろびつ光の中に駆け込むと、開店準備をしていた店主らしき男の背中へと声を掛けた。

「あ、あ、あの、すみません、助けてください!」

 男は顔半分を振り向かせた。

「ん? どうしなすった、そんなに青い顔をして。盗賊でも出たかね」

「違うんです! 今、そこの橋のところで……あ、ああ……わたしは、見てしまったのです、あまりにも恐ろしいものを……!」

 息も絶え絶えに語るイックーさん。

「ほう……その恐ろしいものとは──」

 男はそう言うと──バッ! いきなり前をムイた。

「こんなものではなかったかい?」

 男もまた袴を穿いておらず、つるつるであったそうな……恐ろしいことよ。

「うわああ!」

 イックーさんは咄嗟に買ったばかりの制汗デオドラントシートを一枚取り出し、男の下半身へとこすりつけた。

「アッ、これは……イクウウゥゥーッ!?」

 男がひるんだ隙に、イックーさんは逃げ出すことができたのじゃ。

 ああ、果たしてこれは現実のことなのであろうか? すべて悪い夢ではないのか。どこか遠く、物狂おしいほどに美しい鳥の声がする。小夜啼鳥の声が……自分は気でも違ってしまったのではないか。

 夢漏町むろまちの夜は深く、暗い。その闇に囚われて、もう永遠に抜け出せないような気がした。

 明日の場所もわからぬまま、無我夢中で走るうち、やがて何かにどんとぶつかって、イックーさんは尻もちをついた。

「ア──ッ!?」

「……おや? イックーどの!」

 見上げてみれば、そこに勃っていたのは、永劫の原罪つみを右手に掲げ、それを喰らい尽くさんとする男であった。

「し、シンえもんさん!」

「どうしたでござるか? そんなに慌てて。危ないでござるよぉ、ムシャムシャ」

 イックーさんは再び安堵しかけたが、不安の雲がムクムクと胸に広がってきた。恐る恐る尋ねる。

「あの……シンえもんさんは、その……のっぺら棒ではありませんよね?」

「ん? どういうことでござるか?」

「実は──」

 イックーさんから、のっぺら棒に行き遭った話を聞くと、シンえもんは闇を吹き飛ばすように快活に笑った。

「はっはっは、安心なされ、拙者、子供の頃からボーボーでござるぞ! ゆえについたあだ名が、チンえもんでござる!」

 いじめかな?

「あ、ああ、よかった……」

 ホッと胸を撫でおろすイックーさんへと、シンえもんは首を傾げてイッた。

「にしても、のっぺら棒がそれほど怖いでござるか?」

「そりゃ当然ですよ!」

「しかし、イックーどのものっぺら棒なのではござらんか?」

 イックーさんはふと真顔になった。

「あ……そうでした……」

 忘れがちではあるが、イックーさんはまだ小坊主なのじゃよ。

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イックーさん 華早漏曇 @taube

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