後編

 そんなある二月の帰り道。

 木の葉を全て落とし寒そうにしている並木道に負けず劣らず、マフラーの中に顔の下半分を埋めているボク。自分の吐いた息が眼鏡を白く曇らせ余計に寒く感じる。そんなボクとは対照的に、赤いレンガ造りの道を楽しそうにぴょんぴょんと跳ねている彼女。時々吹雪く北風など物ともしていない様子だ。

「そういえばね、テッちゃん」

 不意に立ち止まり振り返る彼女に、ボクは歩幅を緩めぬまま首を傾げてみせる。

「私ね、ちょっと悩み事があってね、クラスの男の子に相談したんだけど──」

 ボクの足が地面に張り付いたようにして止まった。

 彼女の言葉が右耳から左耳へと突き抜ける。

──男の子に相談した? ボクには一度も相談した事がないのに?

「ねぇ、テッちゃん聞いてる?」

 頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚えながらも、ボクはなんとか平静を装った。

「何で、ボクに相談してくれなかったの?」

「だって、テッちゃんじゃ無理なんだもん」

 もう一度強い衝撃を喰らって、上体が揺らいだ。どうにも、これ以上は耐えられそうにない。

「そんなのさ、相談してみないと分からないじゃん」

「何で怒ってるの?」

「怒ってなんかないよ!」

 ボクの大声に彼女の体が小さく震えた。一瞬しまったと思ったが、すぐにそんな考えも頭上の靄の中に吸い込まれていく。

「なによ、いきなり。そんなんだったら、もう別れるから」

「……うん、別れよう」

「えっ?」

 切り札がボクに効かない事に驚いたのか、キョトンとした表情のまま立ち尽くす彼女に背を向けると、ボクは反対方向へと歩き出す。

 悲しくて、情けなくて、歩いていたはずの足はいつの間にか全力疾走に変わっていた。そして、息が切れない事が何よりも辛くて、ボクの視界が涙で歪んだ。


 あれから一週間が経ち、ボクの生活は半年前のものに戻っていた。

 授業中に呼び出しをくらう事もなければ、昼食を買い出しにいく必要も無い。夜中までひっきりなしに鳴っていたケータイも、今は躾けられた犬のように鳴き声一つ出さない。

 彼女の事は綺麗さっぱり忘れよう。そう自分に誓った。

 それなのに、ボクは何故か自転車を漕いでいる。

 雪が降り出した深夜の道をただひたすらに。曇った眼鏡を額にかけながら。

 きっかけは、今日の夜に届いたメール。

『今までありがとう、さようなら』

 素っ気無いその文面をちらりと見て無視しようと思った。もう関係ないんだと。

 でも、気になって仕方が無かった。

 今まで一度だって言われた事のない、彼女の“ありがとう”という言葉が。

「ちくしょう、走ってばっかだなボク……」



 なんとなくプールにいるのではないかと思ったボクは、杜撰な学校の警備に感謝しながら一直線に屋上へと向かう。

 ボクの勘は正しかったようで、青い扉を抜けるとボクの身長よりも高いフェンスの向こう側に誰かが座っているのが見えた。

 頭の上に雪を積もらせた彼女だ。

 ボクは自分でも溜息なのか安堵なのか分からない息を吐くと、彼女と背中を付けるようにしてフェンスの向かい側に腰を下ろした。

「よく、ここが分かったね」

「なんとなく」

「そっか」

 背中越しに彼女の体が小刻みに震えているのが伝わってくる。

 ボクは上着のポケットから暖かい缶を二つ取り出すと、一つをフェンスの下に空いた隙間から彼女へと渡した。

「おしるこ、好きでしょ?」

 ボクの問いに対する返答は無く、蓋が開く音だけが聞こえてくる。

 ボクは悴んだ手の平の中で缶を転がした。

「私ね、小さい頃自分の事を天使だと思っていたの」

 何の脈絡もなく始まった話に耳を傾けながら、視線を真っ黒な空へと上げる。

「本当にそう思ってたわけじゃないんだけど、周りの人から『天使みたいだね』って言われて育ってきたから、もしかしたらそうなのかもって思ってたの。あ、これ自慢じゃないんだよ? ……やっぱり、ちょっと自慢かな」

 たった一週間ぶりなのに、ひどく懐かしく感じる彼女の声。

「大きくなるにつれて分かっていった、自分は普通の人間なんだって。それと同時に、気が付いたら私の周りから人がいなくなってたの。不安で寂しくて、また自分の事を天使なんだって思うことにしたんだ。私は天使なんだから人とは違うんだ。だから、一人でも仕方が無いんだって。ほら、私って人との付き合い方とか知らないから──」

「知ってるよ」

 彼女の言葉を遮るようにして挟んだボクの言葉に反応してか、雪がバサリと落ちる音が聞こえた。

「人一倍寂しがり屋で、人一倍自信がなくて、人一倍不器用だって」

 しばらく彼女は黙っていたが、やがて小さな息と共に呟く。

「そっか、バレてたか」

 不意に彼女が立ち上がった。

 ボクは振り向く代わりに、熱を失った缶を地面へと置く。

「私ね、テッちゃんに告白された時、この人となら上手くいけるって思ったの。言葉にするのが難しいんだけど、直感っていうのかな?」

「ボクもそう思った。実は今も、そう思ってるんだ」

「そっか。……そっか、じゃあ私と同じだね」

 彼女の嬉しそうな声に、ボクも口を僅かに歪めた。彼女との繋がりが再び戻ったような気がしたから。

「おしるこ、ありがとう。それじゃあ、私帰るから」

「え?」

 振り返ったボクに彼女は空を指し示す。

 そして、何も無い虚空へと一歩踏み出し、闇に消えた。

「おいおい、何の冗談だよ……。何で勝手にどっか行っちゃうんだよ。先輩がいないと、ボク駄目なのにさぁ!!」

 絶叫と共にボクはフェンスを飛び越えると、闇と同化し底が見えないに下に視線を配る。

「って、言うと思った?」

「あれ、気が付いてたの?」

 段差になってフェンスの向こう側からは死角になっている落下防止用の出っ張りにしゃがみながらボクを見上げている彼女。それを見て溜息をついた。

「気が付いてなかったら、いつまでも縁に座らせておくわけがないでしょ? ほら、風邪引くから帰ろ」

「うん。……あっ」

 何かに気が付いたように辺りを見回すと、彼女は困ったようにボクの顔を見上げてくる。

「テッちゃん引き上げて」

「天使なんでしょ。自分で飛んで上がってきなよ」


 降り積もる粉雪を照らしながら、二人乗りの自転車が進む。

「あのね、前に言った相談のことなんだけど」

 相談という単語に古傷を抉られるような感覚を覚えたが、何も言わずに前だけを見つめる。

「もうすぐ付き合って半年でしょ? だから、テッちゃんに何をプレゼントしたらいいのかを相談してたんだ」

 ボクは油の切れかけたロボットのような動きで首を動かした。

「アホみたいな顔してるよ」

「だったら、言ってくれればよかったのに」

「だって、驚かせたかったから」

 体中に笑みが溢れていくのを感じた。それと同時に、急に気恥ずかしくなって彼女から視線を逸らす。

「ごめんね、テッちゃん!」

「う、うわ、ちょっと!」

 突然後ろから抱きつかれ、バランスを失った自転車は雪の上に派手に転倒した。

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ボクの天使様 農薬 @no-drug

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