ボクの天使様

農薬

前編

 走る、走る──。

 細切れになった息を吐き出しながら、校舎の中を疾走する。

 肺が焼け付くように熱く、脳が酸欠を訴え始めた。脇腹にも劈くような痛みが走るが、手にしている紙袋を強く握り締め、一歩でも前へ、十センチでも先へと足を進める。

 途中すれ違った生徒達がぎょっとした表情で道を譲っていく。どうやら相当酷い形相のようだ。

 階段を駆け上がり、渡り廊下を駆け抜け、また階段を上る。

 速度を緩めぬままスマフォを見ると、上下に揺れるレンズ越しにデジタル数字で十二時三十四分と表示されているのが見えた。

──残り一分。これならいける。

 階段を二段飛ばしで上っていくと、やがて錆付いて鍵の掛からなくなった青い扉が見えてくる。そこを抜ければ、目的地である屋上プールだ。

 時期が半年ほど過ぎ、適度に汚れたプールサイド。そこに設置されたベンチに少女が座っている。それもただの少女ではない。頭に“美”の付く少女だ。

 彼女はこちらを見て、風に流れる長い髪を押さえながら薄く微笑む。

 その花のように可憐な微笑みに心を奪われるが、頭を振ると肩で息を切りながら小走りで彼女へと近付く。

 膝に手を付きながら息を切らしているボクの前に立つ彼女。

 ボクの背が高いせいかやたらと小さく感じる可愛い彼女は、ボクの手から紙袋を半ば強引に引っ手繰る。そして、すぐに紙袋が落ちた軽い音が耳に届いた。

「テッちゃん」

 不気味なほどににこやかな声に、ボクは恐る恐る視線だけを上げる。

「これは何?」

 丸いカリカリに揚げられたパンを持つ彼女。

「あ、あの、カレーパンです」

「私が頼んだのは?」

「焼きソバパンです」

 答えと共に叩きつけられたカレーパンは、ベシャリという音をたて食べ物としての役目を終えた。

「別れよっか」

「ちょ、ちょっと待って。売り切れてたから仕方なくカレーパンを──」

 身振り手振りで弁明するボクの言葉を彼女は片手であっさり遮ると、ベンチから立ち上がる。

「私の事なんてどうでもいいと思っているんでしょ?」

「そんな事ないって」

「じゃあ」

 彼女はボクを、いやボクの後ろを細い綺麗な指で指し示す。

「飛び込んでよ」

「えっ?」

 指の先にあるのは、午前中まで凍っていたであろう薄汚れた水の入ったプールのみ。

「えぇ!?」

「ねぇ、早く飛び込んでよ」

「いやだって、これ汚いし。それにほら、風邪引くかもしれないよ?」

「やっぱり私の事なんてどうでもいいんだ。……さようなら」

 扉へと向かって歩いていく彼女を引き止めようと言葉を探すが、真っ白になった頭は何も思い付いてはくれず、ボクは頭を掻き毟った。

 そして、眼鏡を投げ捨てると、奇声と共に冬のプールへとダイブする。


 これが、ボク──真宮徹と、彼女──樋口祐子の至って普通の日常である。



 ボクより一つ年上の彼女と出会ったのは、入学して間もない頃の事だ。

 はっきり言って、一目惚れだった。

 目の前に天使が舞い降りたのだと錯覚したほどだ。

 学園屈指の超有名美少女。そんな彼女に、何の関連性も無いボクが告白したのは、今になってみればかなり大それた事をしたものだと思う。そして、結果的にボク達は付き合うことになった。

 その時のボクは、完全に浮かれていたのだ。

 だから、彼女が“超有名”な理由について全く気が付いていなかった。


 片鱗1

 とある授業中。

 突然ケータイが振動しだしたので確認すると、「いつもの場所で待ってるから」と彼女からのメールが届いていた。

 いつもの場所がプールだと瞬時に理解したボクは、休み時間を待ち侘びながら授業へと意識を戻す。ところが、きっかり一分ごとに同じ内容のメールが十回も届くという尋常ではない事態に、ボクは腹痛を理由に教室を飛び出しプールへと駆け出した。

 しかし、いざ着いてみれば彼女は笑顔でベンチに腰掛けているではないか。

「一体、どうしたの?」

「何ですぐに来てくれなかったの?」

「いやだって、授業中だし。というか、何でここにいるの?」

「テッちゃんは、私より授業の方が大事なんだ」

「どっちが大事かとかじゃなくて」

 会話が微妙に噛み合ってない事以上に、状況が把握できずに困惑しているボクに彼女は、笑顔から能面のような無表情へと変化すると淡々とこう告げた。

「別れましょ」

「えぇ!?」


 呼び出されたら一分以内に駆け付けるという条件で許してもらった。


 片鱗2

 とある日曜日。

 彼女とのデートという事で服選びにかなりの時間をかけたが、三十分前に待ち合わせ場所に着いていた。

 二十分後、手を振りながら小走りで駆けてくる彼女。

「ごめんね、待った?」

 小さく息を漏らす彼女にボクは首を振って答える。すると、彼女の視線がボクの服に止まっている事に気がついた。

「黒系にしてみたんだけど、どうかな」

 少し照れるボクに彼女は、「とっても似合ってる」と言ってくれた。

「そういえばね、私の今日のラッキーカラーって白なんだ」

「へぇ、そうなんだ」

「だから、着替えてきて」

「えぇ!?」

「私の事なんて、どうでもいいんだ。だったら──」

「着替えてきます、着替えてきますから、ちょっと待っててッ」

「急いでねぇ」


 それから、デートの時は彼女のラッキーカラーを調べる事にした。


 エトセトラ。


 最初は羨ましがっていたクラスの男子達も、徐々に彼女の超有名な理由に気が付き始め、ボクに同情の目を向けるようになってきていた。

『よくあの天使様についていけるな』と。

 でも、ボクは彼女の笑顔を見るだけで幸せな気分になれたし、それ程苦痛にも感じなかった。

 そんなこんなで、ボク達は付き合い始めて半年を迎えようとしていた。

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