証拠品逃げるにげるにげる

楠瑞稀

第1話


 仕事をしている奴は『労働者』だが、仕事をさせられている奴はただの『奴隷』だ。

 そう言ったのは、昔の偉人でもなければ現代の成功者でもなく、俺が十七の時に死んだ親父だった。死亡診断書には「心不全」と書き記されていたが、仕事の最中に倒れた親父の正しい死因が「過労」であったことは、誰の目にも明らかだった。

 果たして親父が『労働者』だったのか、『奴隷』だったのかは考えるまでもない。

 そして今の俺がどちらなのかも、推して知るべしだ。



「——っ、この腐れキチガイの糞っ垂れが!!」

 かつてここが地方都市だった時代の名残——ショッピングモール跡の廃墟を俺は必死になって走り抜ける。

 割れた硝子の切っ先は丸く、砕けたコンクリートは砂になる。そんな長い時間を掛けて深く抉られた地下階層には水が溜まり、真っ白で目のない生き物たちが好き勝手に泳ぎ回っている。

 瓦礫とガラクタばかりのここは、後は崩れて無になるのを待つばかりの場所だ。とっくの昔に見捨てられこんな地に、わざわざ足を踏み入れるような酔狂な人間は俺しかいないだろう。

 どうして自分がこれほどまでにがむしゃらになっているのか。さっぱり分からないまま、俺はただ身体を動かし続ける。

 筋肉は乳酸を蓄積しパンパンに腫れ上がっているし、無理をさせすぎた関節は悲鳴を上げている。酸素の供給が足りないせいか煙草の吸い過ぎか、呼吸のたびに肺には焼け付くような痛みを覚える。なにしろ気付けば三十路をとっくに迎え、肉体は最盛期を過ぎている。若さだけを武器に、意味もなくがむしゃらになれた時代はとっくに終わったのだ。

 こんなに苦しい思いをして、それがいったい何になるのか。そこに果たして意味があるのか。倒れる柱、積み重ねられた廃材を跳び超えるように避けながら、それでも俺は薄暗い通路を一気に駆け抜ける。

 ふいに正面に光が見えた。通路の終わりだ。俺はそこに目掛けて走り込む。

 眩しさに目を眇めながら飛び込んだのは、吹き抜けの一角。空から差し込む太陽の光が、階層ごとに幾重にも交差した空中回廊を透かして、地下に溜まった水を照らしていた。

 幻想的とも言えるその光景に俺は一瞬目を奪われるが、それを打ち砕き、現実に戻す足音が一定の速度で近付いてくる。もちろん、俺の足音ではない。

「捕まえたぞ——いかれマネキン野郎があぁぁっ!!」

 下層階の空中回廊を走り抜けようとする人のような影に向かって、俺は躊躇うことなく飛び降りた。

 それは俺に気付いて顔を向けるが、遅い。俺は投網のように、奴に向かって全身で落下する。身体のあちこちが、どこをぶつけたのか分からない程に痛むが、それを堪えて手足を絡めてしがみ付く。さすがの奴も歩みを止め、膝をついた。その時再び、俺の身体が宙に浮いたように錯覚する。

 いや違う。錯覚ではない。俺はまたしても落下しているのだ。俺が飛び降りた衝撃で崩れた空中回廊が、階下のそれを巻き込みながら落下している。鼓膜が破れんばかりの轟音が響き渡り、吹き抜けの一角に反響する。

 天も地も分からない程に振り回されながら、それでも俺は奴から手を離さなかった。

 さながら溺れた者が藁を掴むように。あるいは、子供が親に縋るように。

 そして俺は衝撃を覚悟し、固く目を閉じた。



 フラッシュが幾度となく焚かれ、その度に室内が白く染まる。

 二十世紀の北欧地域のそれを意識してデザインされた部屋は、装飾品が少ない為やけに簡素に見える。だが、置かれているどの家具も、俺の給与では到底賄えない値段である事は簡単に予測がついた。

 床や高価なベッド、棚の上などで番号を立体映像として浮き上がらせている電子回路チップを踏まないように跨ぎ越しながら、俺はステンドグラス(驚くべき事に本物の硝子だ!)の嵌め込まれたガラス戸を開き、バルコニーに出る。

 そこでは丁度、視界一面に広がった空にたなびく雲が、斜めに傾いだ太陽によって橙色に染まりはじめた所だった。その壮大にして傲慢な景色に俺は閉口し、懐に手を入れる。そして固い箱の角に指を押し付けた所で、はたと我に帰って手を離した。

「そういや、禁煙してたんだったっけな……」

 ほんの二日前くらいからではあるが、もう何度目かになる禁煙を俺は決意していた事を思い出した。それが何時まで続くかはさておくとしても、事件現場であるこの場所でヤニを吸い、匂いを僅かにでも残してしまえばそれだけで科学捜査班から大目玉を喰う事は分かり切っている。

 なにしろ昨今の科学技術は、吸い殻さえ落ちていなくとも僅かに付着した匂いや灰だけで銘柄程度なら簡単に特定してしまう。つまりその程度のものさえ、捜査の邪魔になるのだ。

 これほどまでに肩身を狭くして生きている煙草吸いは、そろそろ絶滅危惧種として保護対象にすべきだ。自分が禁煙を始めたことは棚に上げ、そんなくだらないことを考えながら俺はバルコニーの手すりに腕を掛け、下界を見下ろす。そこには雲同様に橙色に染まった海と、陸地が遥か下に見える。警察が派遣した調査船がまるで胡麻粒のようにいくつも浮かんでいた。

「マーク、おい! マーク」

 室内から上司の呼ぶ声が聞こえる。俺はそれに返事をすると、夕日に染まるバルコニーから室内に戻った。



「マーク、来たか」

 部屋に入った俺に気付いてそう声をかけたのは、俺の直属の上司であるアンディ・パルマ警部補だった。もっとも上司と言っても、年は俺よりもだいぶ下である。エリート刑事らしい垢抜けて都会じみた優男だ。てっきりいるのは警部補一人かと思ったら、そこにもう一人見慣れない人影を見つけて、俺は一瞬ぎょっとする。

 乳白色の光沢を持った、つるりとした肌。間接部には継ぎ目があり、透明な強化プラスチックのカバーの下にはケーブルと人工筋肉が見えていた。これといった特徴の感じられない顔の中にある、人間の目と同様の役割を果たすセンサーアイが僅かな機械の作動音を立てている。恐らくピントを絞ってこちらを見ているのだろう。

 もちろんこいつは人間なんかじゃない。いまや世界中に至極ありふれた、ヒューマノイド・ロボットだ。

 驚かされた事が癪に触り、俺はそいつを無視して警部補に話しかける。

「チャドウィック氏から話は聞き終わったんですか?」

「ああ」

 俺の質問に、警部補はその時のやりとりを思い出したようで、ややうんざりしたような顔でうなずいた。

「やはり、氏の意見に変わりはなかったのですか?」

「そうだな。絶対に自殺や事故では納得しないと、顔を真っ赤にして主張していたよ」

 そう言って嫌そうに顔を拭う仕草を見せたのは、恐らく飛び散った唾の感覚を思い出してしまったからだろう。

 ここは国内でも有数の資産家である、チャドウィック氏の空中豪邸だ。本来ならば三日後にこの場所で、彼の一人娘の生誕祝い兼婚約発表のパーティが執り行われるはずだった。しかしもちろん、それは中止となった。

 何しろ我々は今まさに、そのエリザベス嬢の行方不明事件の調査を行っている最中なのだ。


 事件が発覚したのは今日の正午。

 二十歳の誕生日と婚約発表を近日に控えた令嬢エリザベス・チャドウィックが、昼になってもいっこうに部屋から出てこなかった。ハウスメイドの一人が怪訝に思って部屋を尋ねると、そこはもぬけの殻。彼女はこつ然と姿を消していたのだ。

 昨晩から当日昼に掛けて部屋に居り、何があったのか知っているのは、エリザベス嬢の使っていたオリヴォー社製家庭用アンドロイドCZ‐860‐YⅡだけ。さらに、このアンドロイドは深夜バルコニーに出た姿が、エリザベス嬢を見た最後であると証言したのだった。


「もう自殺で決まりじゃないですかね。確か遺書も見つかったんでしょう? アンドリューがどうとかって」

 俺は部屋で見つかったという遺留品のデータを思い出す。

「アンドリューを処分しないで、だな。そこの機械の登録名だったはずだ」

 警部補は、エリザベス嬢個人所有のアンドロイドを顎で指し示す。主を喪ったアンドロイドは、無機物らしい冷静さでその場に直立している。

 アンドロイドは今ではごく当たり前に社会に普及しているが、それでも個人で所有することは珍しい。何しろ購入費や定期メンテナンスにかかる金額、国から課せられる税金などを考えると人間一人を雇った方がよっぽど安上がりなのだ。

 今時アンドロイドを個人所有するなんて、よっぽどの金持ちの道楽者ぐらいだ。そして内装にまで拘ったこんな空中豪邸を立てるチャドウィック氏は、まごう事なく大金持ちの道楽者の代表格と言った人物であった。なにしろ氏は娘の五歳の誕生日に、当時の最新機種だったこのヒューマノイド・ロボットを、高価な玩具兼世話係としてプレゼントするほどである。

「チャドウィック氏が納得するまで、捜査を続けるつもりなんですか?」

 俺はげんなりした気分を隠さずに、警部補に尋ねる。仮にこの空中豪邸がある高度七千フィートの上空から墜落したとすれば死亡は確実だし、遺体を見つける事すら不可能だろう。確かに大富豪であるチャドウィック氏は、政界や警察上層部に顔が利く。しかし、結果の分かり切った事件に何十人の捜査官を費やす程、一般の警察は暇ではない。

「そんな嫌そうな顔をするな」

 そう言う警部補自身も、つまらなそうに顔をしかめながら、懐から電子タバコを取り出して銜えた。煙に似せた水蒸気が立ち上がるそれは、年々規制の声が高まる煙草の代替え品として非常に人気が高い。しかし俺としてはそんなオモチャを吸うくらいなら、禁煙していた方がマシだという思いが拭えなかった。

「それに、チャドウィック氏の言葉は大げさではあるが、確かに気になる点がない訳じゃない」

「気になる点、ですか?」

 俺が尋ねると、警部補は頷いて胸ポケットからタブレット端末を取り出した。

「数か月前から、令嬢の行動範囲内で不審な人物を目撃したという証言が複数ある。人物の特定には至ってないが、恐らく同一人物であろうというのが捜査官の意見だ」

 画面を指でスライドさせながら、警部補は説明する。

「後はこいつだな」

 端末に触れていた指をそのまま翻して、ヒューマノイド・ロボットに向ける。奴は微かな駆動音を立てて、こちらに顔を向けた。

「これは俺の勘だが、こいつの証言にはどうにも違和感がある。場合によっては記憶メモリチップを解析する洗う必要があるかもしれない」

 証言が怪しい。目の前でそう言われているのにも関わらず、アンドロイドは反論することもなく大人しくその場に控えている。

「そんな訳で、マーク。すまないがお前には、もうしばらくこの事件を担当してもらうことになる」

「分かりました」

 俺はその言葉にうなずく。気の進まない仕事ではあるけれど、上司の指示に反抗しても仕方がない。

「……それから、これはまったくの別件の話になるんだが——、」

 パルマ警部補は端末をポケットに戻しながら、どことなく言い辛そうに口を開いた。その所為で、それが碌でもない話であることに早々に気付いてしまう。

 落ち着かない気分の俺は、ただ煙草を欲しいと強く感じた。



 敷地の中をしばらく走り、たどり着いた建物の前で車が止まる。俺は車内のセンサーに身分証をかざして、料金を支払った。無人のマグレブ・タクシー( 磁気浮上“magnetic levitation”の略語)は、宙を滑って音も立てず公道に戻っていく。

 ここは俺が所属する第七エリア市警の庁舎であり、今回の事件の捜査本部が置かれている場所だ。俺はここである人物を待つ事になっていた。時間は指定のそれより、六分早い。俺はつい煙草の箱に伸びそうになる手をスラックスのポケットに突っ込み、苛々と相手を待つ。

 それから十分ほど経ってようやく、目的の人物が姿を現した。俺は建物を出てこちらに向かう二人連れの人影に、眇めた目を向ける。

「悪いな、マーク。待たせたか」

「いや、大丈夫だ」

 心にもない返事を返した相手は、同僚のアーチー・ジェサップ 巡査だ。俺は今日こいつから、とある証拠品を受け取り、運搬する役目を申し付かっていた。アーチーは振り返ると、背後にいたもう一体の人影を顎でしゃくる。

「マークは確か一回見ているよな。こいつが、運んでもらいたい証拠品だ」

 表情を変えないまま、俺に向かってそいつはかすかに頭を下げる。オリヴォー社製家庭用アンドロイド、品番CZ‐860‐YⅡ——登録名アンドリュー。チャドウィック氏の空中豪邸にいたヒューマノイド・ロボットだ。

「聞いていると思うが、こいつを中央本部の電子調査機関まで運んで欲しいんだ」

 パルマ警部補から受けた指示だ。だからそれに否はないが、俺にはいくつか腑に落ちないことがあった。

記憶メモリチップの解析の為だろう? だが、アンドロイドの保持情報は当局の開示命令さえあれば、どこででも閲覧できるんじゃなかったか?」

 アンドロイドに限らず、各商店の防犯カメラや設置機器などに記録されたデータは全て、電子情報管理法によって警察や政府機関への提供が義務付けられている。今では情報を閲覧できるようにするための開示キーを、予め機体に設定しておくよう定められていた筈だ。

「その法令が施行されたのは七年前だろ」

 あっさりとアーチーは答える。確かにそうだったかも知れないな、と俺は思い返した。

 今でこそ当たり前のものとして受け入れられているが、当時は個人情報がどうのこうのだとか国家機密法がうんぬんとかで、この法令は随分新聞でも取り沙汰されていたものだ。

 だが咽喉元過ぎればなんとやらで近頃では誰も話題にせず、もう何十年も続いていることのように思っていた。実際にはまだ施行されて十年も経っていない訳だが。いくら当時の最新機種だとは言え、さすがに十五年前のロボットに開示キーが付いている訳がない。

「それに、この機種は記憶チップがブラックボックスになっているらしくて、契約上オリヴォー社でも勝手に開けない。中央本部の専門家に任せないといけないんだとよ」

 俺はワザとらしく鼻面にしわを寄せる。

「面倒臭えな。いっそ箱詰めして航空便で送っちまえよ」

「それができるなら、そもそも頼んでねえよ。ヒューマノイド・ロボットは電源を落とさなきゃ貨物扱いにできないんだよ。そして、電源を落とせるのは所有者だけだ」

 つまり、それができるのは行方不明のエリザベス・チャドウィック本人だけだ。

「高速鉄道を乗り継いで、たった二日の距離だ。駅までは車で連れて行ってやるし、あとは呑気に鉄道の旅を満喫していればいいさ」

「そう思えれば世話ないぜ」

 アーチーのその言葉に俺はうんざりとため息をつく。諸悪の根源たる証拠品を俺は睨みつけるが、それはまるで他人事のように涼しい顔で佇んでいた。


 高速鉄道のターミナルは、旅行客や家族連れ、あるいは俺のような出張先に向かう勤め人の姿で溢れかえっている。列車の到着や出発を告げるアナウンスが複数の言語でひっきりなしに響き、その喧しさに俺は眉間にしわを寄せた。

 すっかり失念していたが、世間ではもう長期休暇が始まっているらしい。切符はすでに完売しており、辛うじてキャンセルの出た二席を確保できたのは天文学的な幸運だった。ちなみにヒューマノイド・ロボットは手荷物扱いにはならず、しっかり大人一人分の切符を買う必要がある。

 列車の出発まで、さほど間がない。俺は切符の時刻とプラットホームの場所を確認すると、背後に向かって顎をしゃくった。

「こっちだ。着いてこい」

「かしこまりました、サー」

 流暢に返された言葉に、俺は思わずぎょっとして振り返る。そう言えばこいつの声を聞くのは初めてだと気付く一方で、アンドロイドが喋るのは当然のことだと内心の驚きを抑える。

 犯罪や宗教観、あるいは倫理上の問題から、ヒューマノイド・ロボットの外見はひと目で人間ではないと分かるものにするべきだ、という風潮がかつては主流だった。もっとも近頃はそれもだいぶ古臭い考えとなり、人間とほとんど見分けが付かないヒューマノイド・ロボットの数は爆発的に増えている。

 今や時代遅れのこの家庭用アンドロイド”CZ‐860‐YⅡ”も、当時の風潮から人間にはあり得ない乳白色の外装と、所々から内部の機構を見せつける作りになっているが、機能的には最新の物とそう変わらないはずだ。

「マークでいい。あと敬語も使うな。むず痒くなる」

「分かりました、マーク」

 ぶっきら棒な命令に律儀に頷くロボットに、俺はさっさと背を向けて歩き出した。途中ちらりと振り返ると、ロボットは一定の距離を保ったまま、まるで雛鴨のように後をついてきている。

「お前はエリザベス譲の件は理解しているのか?」

 俺は正面を向いたまま、なんとはなしにそいつに尋ねる。機械に声を掛けるなんて、独り言より辛うじてマシな程度のものでしかないが、無言でロボットをまとわりつかせているのも息が詰まった。

「はい、マーク。エリザベス様は昨晩未明より、行方が分からなくなっており、警察による捜査が行われております」

「……まあ、そうだな」

 まさに模範解答としか言えないその返事に、俺は歯切れの悪い相槌を打った。当然のことながら、そこには主が死亡したかもしれない喪失感も、身を投げる直前に最後に会ったのが自分かも知れないという焦燥も欠片も見られない。機械は所詮機械であり、予めそうプログラミングされていない限り、情緒的な反応を期待しても無駄なのだ。

 もっともその一方で、それはロボットが人間に対して無関心であるということとは一致しない。飽くまでシステマチックな働きであるが、機械は常に人間の一挙一動を捉えている存在であることは疑いようがないのだ。

(——でも、だからこそ、おかしいんだよな)

 俺は駅までの車中で確認した報告書の内容を思い出す。昨日、捜査官が口頭で前夜の状況を確認したところ、 このアンドロイドは以下のように回答した。

  最後にエリザベス嬢を見た時、何か普段と違う様子はあったか、そして彼女がバルコニーに出たあと不審な音や声を聞かなかったか。これらの質問のどちらに対しても、奴の返事は同じだった。すなわち『いつもと何も変わりありませんでした』と。だが、それはおかしいのだ。

 こうした対人用ロボットは、恒常的に人間のバイタルチェックを行っている。体温、脈拍は正常か。呼吸は荒くなってないか。顔色に変わりはないか、などだ。それによって体調の異常を素早く察知し、必要があれば近くにいる他の人間や緊急コールに連絡する。五歳の時から専属となっていたエリザベス嬢であれば、なおさら平常時のデータは揃っていたことだろう。

 もし、彼女が本当に自殺を決意していたとしたら、身体に何の変化も出ないほど平常心を保っていたとは思えない。何らかの異常を、センサーは感知していた筈だ。そして不慮の事故で彼女が転落したとしても、同様だ。物音一つ、悲鳴一つ漏らさずに転落したとは考え難い。

 ならば、一体なぜこのロボットは、それらを察知できなかったのか。その前後の詳しい状況を確認する必要があった。


 出発時刻に無事間に合い、俺は"アンドリュー"を連れて指定の座席に着いた。ここまで来れば、後は寝ていても目的地まで連れて行って貰える。乗った列車は前世紀に実際に利用されていたそれを復刻したというコンセプト車両で、仕事でなければそれなりに楽しい時間を過ごせたことだろう。

 しかし良すぎる姿勢を崩すことのないロボットを席に着かせた俺は、悠長にその隣に座っている気分にはなれなかった。

「ちょっと煙草吸ってくる」

「いってらっしゃいませ」

 律儀に返事をするロボットをつい斜目で睨みつける。視線を振り切るように、そいつを置き去りにし喫煙ルームに向かった俺は、しかし途中で禁煙を思い出して自販機でコーヒーを入れることにした。

「もう禁煙も辞めちまうかな」

 水っぽいコーヒーをすすりながら近くの窓に寄りかかる。そして荒んだ気持ちのまま、昨日のパルマ警部補との会話を脳内で反芻した。



「すまないが、契約の件はしばらく待ってくれ」

 予想していた事とは言え、一番聞きたくなかった類の言葉に、俺はぐっと奥歯を噛みしめる。

「……それは、更新が打ち切られるということですか」

「その可能性も皆無ではないということだ」

 濁されているとは言え、他に聞き違えようのないその事実は、頭をハンマーで殴られたような衝撃を俺に与えた。

 今の時代、警察という職種は明確な二種類に分けられる。一方は良い大学を出て、難しい試験に合格した終身雇用の上級刑事職。もう一方は三年ごとの契約を繰り返し、いざとなったらあっさりと首を切られる臨時雇用の一般刑事職だ。もちろんパルマ警部補は前者であり、俺は後者に当たる。

「俺、何かヘマをやりましたかね……?」

 自分のこれまでの仕事ぶりを、俺は思い返す。確かに目を見張るような大黒星をあげた事はないが、その一方で致命的なミスも不正もしていないはずだ。

「ああ、君は真面目に仕事をしてきてくれたよ」

「では、何故……っ?」

 俺は思わず警部補に詰め寄る。警部補もこの件には負い目を感じているのだろう。相変わらず視線を合わせようとしないまま、電子タバコの水蒸気を吐き出した。 

「数年前、試験的に市内警邏を目的としたロボットが所轄内に導入されたのを覚えているか?」

「え、ええ……」

 俺は今も市内でパトロールをしたり、スピード違反や違法駐車などを取り締まっているロボットポリスのことを思い浮かべる。事件の捜査など複雑な事はできないが、それでも単純な業務に関しては随分な活躍を見せていると聞いている。

「あれの本格的な運用が決まってね。それに伴って、予算の配分を大きく見直す事になったんだ」

「つまり、あいつらを雇う代わりに、俺らがリストラになるってことですか……?」

「……まだ、決まった訳ではない」

 飽くまで確定事項ではないと繰り返してはいるが、それはもはや高い確率で実現することなのだろう。俺の頭の中を、ぐるぐると感情の奔流がうずを巻いている。気を抜けば、今にも警部補に掴み掛かり、喚き出してしまいそうだ。

「何も今働いている全員の契約を切る訳じゃない。だが、うち何人かについては、その可能性もあり得ると言う事を念頭に置いておいてくれ」

 警部補は俺の肩を叩くと、それ以上は何も言わずに黙って脇を通り過ぎて行く。今それを告げる事は、警部補なりの部下へ配慮なのだろう。しかし俺は振り返る事もできず、告げられた事実に完全に打ちのめされていた。



 もう随分前から、ロボット技術の発展に伴う人間の失業率の増加は、たびたび新聞の見出しを賑わす社会問題となっていた。

 老人介護や医療看護、単純作業や危険な場所での労働を代わりに行うロボットは、人材不足や労災事故の削減に大きく貢献した反面、それらの職務に従事していた人間から仕事のシェアを奪った。もはや人間が、その仕事をする必要性がなくなってしまったからだ。

 しかし、ロボットが代わりに仕事を行ったとしても、人間は働かなければ自分も家族も養っていく事ができない。ロボットの社会進出と比例する失業率の増加、それを初めとする様々な社会問題の紛糾は確かに俺の耳にも入っていた。酒の席ではしたり顔でそれを憂いてもいたが、結局こうして我が身に降り掛かるまで他人事でしかなかったことを突きつけられる。

「仕事をロボットに奪われそうな俺が、ロボットのエスコートをしなければいけないなんて、笑い種にしかならねえよな」

 俺は前髪をかき上げて乾いた嘲笑を浮かべる。しかし、僅かでも残る可能性に縋りたいのならば、そんなお笑いの仕事をきっちり完璧にこなさなければならないのだ。

「ったく、仕方がねえ。戻るか」

 俺は舌打ちして、コーヒーのカップを握りつぶす。そして気を取り直して席に戻ろうとした時、ふと窓の外の人ごみの隙間に見覚えのある乳白色の光沢を見た気がした。

(……まさかな)

 見間違いだろうと思いつつも、嫌な予感を拭い切れなかった俺は急いで指定の席に戻る。果たしてそこで見たのは、空になった座席だった。

 ざっと全身の血の気が引く。俺は脳内物質の過剰分泌で、早まる脈と荒くなる呼吸を自覚しながら、向かいの席の年配の婦人に素早く確認した。

「すみません。ここにいたアンドロイドが、誰に連れ出されたか見ましたか?」

 女性は僅かに驚いた顔で俺を見たが、すぐさま答えてくれる。

「いいえ、連れ出した人はいなかったわよ。単体で席を外したから、てっきり貴方が遠隔操作で呼び出したのかと思ったわ」

 その言葉に俺は自分の迂闊さを痛感する。正規の主がいない今、勝手に動く事はないと高を括っていたが、確かに予めインプットされていた指示や遠隔操作によって、こちらが予想していない行動をとる可能性だって十分あり得たのだ。

 俺は婦人に礼を言い、すぐさまアイツを追いかけようとしたが、最悪な事に列車はそれを見計らっていたかのように動き出してしまう。発車ベルが鳴っていたのを、聞き逃していたらしい。だが、このまま次の駅まで連れて行かれてしまえば、あの証拠品を見失ってしまうことは確実だ。

(ちくしょうめ……っ)

 俺は一瞬の判断を吟味する間も惜しんで、窓に飛びつきそれを限界まで開く。目の前で、ホームの景色がどんどん流れていく。この車両が窓の開く旧式の型で助かった。これが今時の列車なら完全に詰みだ。

 ほんの短い間でそんな事を考えていた俺は、速度を上げ始める列車からプラットホームに向かって、躊躇うことなく飛び降りたのだった。



 遥か後方から、女性の甲高い悲鳴が聞こえた気がするが、知ったことではない。ホームの床に叩き付けられる衝撃を自ら転がる事によって殺した俺は、警報を鳴らして緊急停止する列車を尻目に全力で走り出す。

 ふざけるな——という怒りが、俺の頭の中を占めていた全てだった。それはいきなり逃げ出したあのアンドロイドへの怒りもあるし、証拠品から目を離すというあり得ない失態を犯した自分への憤りでもあった。

 俺は窓から見かけたアンドロイドの進行方向へ、ひたすら走り続ける。速度を優先したせいで、次々とぶつかる他の客の迷惑そうな顔も、僅かな罪悪感を抱く間もなく次の瞬間には記憶から吹き飛ぶ。それくらい、俺はもう気が気ではなかった。

(——捉えた……っ!)

 そしてついに、俺は人ごみの合間にあの乳白色の光沢を見つける事に成功する。どうやらあのいかれロボットは、駅の出口に向かっているようだった。

 ロボットは、人ごみの中では人間を傷つけないよう、出せる速度を人間並みに制限されている。その為、今はまだこうして辛うじて機体の影についていく事も可能だが、外に出れば人間には追いつけない速度で一目散に逃げ出すだろう。それを逃さない為には、駅の中でどうにかしてケリをつけるか、全速力のロボットに追いつく手段を用意するかだ。

 俺は溢れんばかりの人の群れと、“アンドリュー”との距離を測る。そして意を決すると、思い切って奴とはまったく別の方向に走りだした。

 

 ターミナルを出た先の街並は、小綺麗に整えられつつも閑散としていた。ターミナルにはショッピングモールやホテル、映画館、ビジネスオフィス、病院など、様々な施設が併設されており、その一角だけで小さな街として成立してしまう程の充実振りを売りとしている。

 逆に言えば、そこだけですべてが事足りてしまう為に、ターミナル周辺部は街としての外観だけを用意された無用の空箱だった。特に、車の通る中央道路を外れた路地などは、人っ子一人いない為ゴーストシティさながらである。

 今、そこを一体のアンドロイドが歩いている。人気のない殺風景な通りを、ロボットだけが歩みいくその光景は、大昔SF映画で流行った滅亡後の世界のような寂寞感を、見るものに与えるだろう。

 休む事なく駆け通していたロボットだったが、周囲に足音一つしないことで警戒の度合いを僅かに落としたようだった。旧型デザインのヒューマノイド・ロボットは歩みを止める。途方に暮れたかのように天を見上げるその様は、まるで己の行くべき道を見失った巡礼者のようだった。

 だが“奴”は、唐突にまた走り出す。——気付いたのだ。

「——待っちやがれぇぇっ!!」

 俺は気配を殺して相手を伺うのを止め、即座に全速力で相手を追いかけはじめる。相変わらず、ビルの隙間に響き渡る足音はしない。それもそのはず。今、俺の足は反社会的なけばけばしい塗装をなされたマグレブ・ボード( 磁気浮上“magnetic levitation”の略語)を踏みしめ、音もなく地面の数インチ上を滑っているのだ。しかも恐らく違法改造が施されているのだろう。その速度と来たら、オートモービルに匹敵する。お陰で、疲れも知らず走り続けるアンドロイドまでの距離は、ぐんぐんと縮まっていった。


 ターミナルの人ごみの中、走るアンドロイドに追いつけない事を悟った俺が向かったのは、地下駐車場だった。そこにはお約束のように、大人や社会に反抗せずにはいられない捻くれたガキどもがたむろして、流行りのマグレブ・ボードに勤しんでいた。

 マグレブ・ボードは、今ストリートの若者たちの間で一番人気のスポーツだ。近年、磁気浮上車マグレブ・カーが一般的な交通機関になって以降、市内の道路には全面にわたって磁気発生装置が備え付けられるようになった。

 それを利用して、電磁石を組み込み、簡易的ながらも車と同じように浮上・推進を可能にしたのがマグレブ・ボードだ。見た目は、長い歴史を持つ雪上スポーツのスノーボードや、大昔に流行った(そして今でも懐古主義の愛好家がいる)スケートボードに似ている。もっともマグレブ・ボードによる交通事故や転倒事故、推進装置の違法改造により出力を上げたうえでの暴走行為などが頻発しているため、良識のある大人たちにとっては頭痛の種となっていた。

 俺はパトロール中に何度か声を掛けて顔見知りになった市内の悪たれ坊主たちに、このマグレブ・ボードの乗り方を教わったことがある。その結果判明したのは、市街地での機動力にかけてはマグレブ・ボードはかなりの優位性を持っているということだった。その経験から、俺はターミナルの地下駐車場にいた地元の悪ガキどもから、マグレブ・ボードを借り受けることにした。

 もちろんここのガキ共とは初対面のため、随分と反発を食らったが俺の心の籠った《説得》によって、最終的には惜しげもなくボードを《貸し与えて》くれたのである。


 マグレブ・ボードは文字通り宙を滑り、高速で奴を追いかける。さすがのヒューマノイド・ロボットも二足歩行の機能上、移動速度には限界があった。

 あともう少しで手が届く。そんな距離にまで近づいた俺は、奴の乳白色のボディに向けてぐっと腕を伸ばした。だが、その背に指が掠めかけた次の瞬間、奴は思いがけない行動に出た。

 “アンドリュー”は真っ直ぐだった進行方向を、僅かに斜めに逸らせる。向かう先にあるのは、ビルの壁面だ。速度を落とさず走り続け、そのまま壁にぶち当たる——、そう思った俺の目の前で、機械の足が壁にかかった。

 一歩、二歩と壁面を駆け上ったアンドロイドは、重力に引かれて崩れるバランスに合わせて壁を蹴り、宙返りする。そして体を捻り百八十度向きを変えて着地すると、そのまま逆方向に再度走り出したのだ。

「——てめえは、ニンジャかよっ!」

 俺は背後を振り返りざま叫ぶが、奴の姿は再び遠ざかっていく。さすがにあのアクロバティックな動きには、即座に対応できない。そんなことができるのは、それこそコミック誌に載っている架空の英雄だけだ。だが、このまま悠長に速度を落とし方向転換をしていては、またもや奴を見失ってしまうだろう。

 だから俺はそのまま路地を飛び出て、車の通りのない四車線道路に突っ込む。目の前にそそり立つのは、接地部分から滑らかな円弧を描いた中央分離帯の壁だ。

 顔見知りの悪がきの中でも特に腕の立つ奴らが、自慢げに何度かやって見せてきただけで、俺自身が試してみたことは一度もない。だが、ここまで来れば腹を括るしかなかった。

 俺は覚悟を決めて、足の裏をボードの両端に乗せ真っ直ぐ突っ込む。ボードはそのまま中央分離帯の壁を駆け上がり、発射台のように空中に飛び出した。ボードの先端ノーズを軸に、後ろ足を置いた尾端テールを振るように体を捻って、空中で百八十度回転する。天に向かって飛び出したボードは、今度は重力に従って鼻先から地面に落下していく。

 俺は体勢を崩さないよう後ろ足を折り、重心をやや背後に傾けた。ボードは火花を散らしながら底を壁面に擦らせ、円弧を滑り降りて無事に地面までたどり着く。

 速度を落とすことなく、そのまま真っ直ぐ来た道を駆け戻りつつ、俺は内心では歓喜の咆哮を上げていた。だが、俺は難易度の高いトリックに成功しただけで満足するガキじゃない。これによって発生した損失は十数秒。まだ、十分に取り戻せる。再び俺の眼前に、ヒューマノイド・ロボットの姿が現れる。

「アンドリュ————ッ!!」

 俺は奴の名前を叫ぶ。アンドロイドはまるで驚きでもしたかのように、こちらを振り返った。

 そして今度こそ、俺の手は乳白色の光沢のあるボディを捉えたのだった。



「はあっ!? 磁気浮上車マグレブ・カーが使えない?」

「そうさ。だって、ルート59を使いたいんだろう?」

 驚きに声を上げる俺の前で、平然とそう言い返したのは七色に染め上げたカーリーパーマの、白塗りお化け——もとい、厚化粧の老女だった。


 逃亡劇を繰り広げたロボットを無事とっ捕まえた後、まず俺がしたのは何故逃げ出したのかをそいつ自身に問い詰めることだった。だが、アンドリューから返ってきた答えは完璧なまでの『黙秘』だった。

「……あのなぁ、お前がいくら口を閉ざしたって、本部にある電子調査機関に行けば記録なかみは全部暴かれることになるんだぞ」

「分かっております。ですが、それでも私からお答えすることはできません」

 頑として理由を言おうとしないアンドロイドに、俺は頭を抱えた。

「なら、せめてこれだけは答えるんだ。お前は通信によるリアルタイムの命令を受けているのか」

「いいえ」

 アンドロイドは首を振る。

「じゃあ、……お前はぶっ壊れた機械で、そのせいで暴走をしていたのか?」

「いいえ、私の機能はすべて正常です」

 表情をちらりとも変えず、生真面目な口調で答える。どうだかな、とその答えに疑いの目を向けつつも、俺は諦めた。どちらにせよ、俺にできるのはこいつを本部まで運ぶことだけだ。

 最悪のパターンを想定し、俺はこいつの片腕に手錠を掛け、もう一端を自分の腕に掛けた。ロボットは直接人体に危害を与えるような行動を取れないため、これで突然走り出すなどの突発的事態は防ぐことができるだろう。問題があるとすれば、ロボットに手錠を繋いだ俺の姿は恐ろしいまでに異様に映るということ。そして、トチ狂ったこいつが人間の安全を無視して走り出した時には、俺の腕が引き千切れるということだけだ。


 高速鉄道のターミナルに戻ると、駅はダイヤの乱れによってかなりの混雑を見せていた。残念ながら今日はもう、座席のキャンセルも出そうにない。仕方なしに俺が向かったのは、レンタカー会社だった。


「だからさ、言ってるだろう? 中央エリア都市までの最短距離を選ぶならルート59。ただしこの国道は磁気発生装置が整備がされていないから、マグレブ・カーを使いたいならこっちのルート182を選ぶんだね」

 ふんぞり返ってそう言ったのは、七色の髪がやたらとケバケバしい、年老いた女店主だ。彼女の手元にある地図には確かに、渦を描くように大回りをしながら中央エリアに向かうルート182と、直線を描いて中央まで真っ直ぐに向かうルート59がある。

 前者は新しく作られた国道で周辺の市を経由しながら進み、後者は昔からある国道で最短距離を突っ切るため他の市には一切掠らない。道の周辺は荒野や廃墟ばかりだという。

「あー、どっちがいいかな?」

「さてね。好きにすれば」

 タブレット端末で雑誌を捲りつつ、興味もなさそうに答える素っ気のなさに、俺はこの老婆には商売気と言うものがないのかと呆れかえった。

 マグレブ・カーではないのだとすれば、今ではすっかり人気のなくなったオートモービル(四輪以上の車輪ついた自動車)を使うことになるのだろう。磁気浮上式の方が平均速度は圧倒的に早いが、幾度も通過する市街地ではじれったくなるほどの走行制限が敷かれていることは疑いようがない。

 一方、四輪自動車オートモービルは速度こそマグレブ・カーに劣るが、荒野を走るなら制限を気にせにすることなく、最初から最後まで最高速度を保ち続けることが可能だ。地図の前で、どちらの道が合理的かについて頭を悩ませていると、ふいに横から指が伸びてきた。

「どちらのルートでも夜21時から翌朝7時まで休憩を取ることを前提にすれば、ルート59の方が三時間ほど到着時間が早まるという計算結果が出ます。しかし、途中の宿泊施設等の有無による疲労度合、安全性などを鑑みると、ルート182の方が妥当であると考えられます」

 紙面を乳白色の指先で辿りながら、理路整然と説明する“そいつ”を俺は仏頂面で睨みつける。

「誰もてめえの意見なんか聞いてねえよ」

「申し訳ありません。出過ぎた真似をいたしました」

 剣呑な俺の声に、奴はすっと頭を下げて身を引く。一見しおらしいが、その実こいつが何を企んでいるのか分かったものではない。俺は牽制するようにもう一度、アンドロイドをきつく睨みつけたのだった。



 カー・ラジオから流れてくる音楽が、エンジンの振動音と一緒に軽快に耳に飛び込む。マグレブ・カーは駆動音がほとんどしないので、鼓動やいななきのようにも聞こえるエンジン音は、俺にとっては新鮮な感覚だった。

 結局俺が選んだのは最短距離を走る、ルート59だった。不可解な行動を取るアンドリューの提案に乗るのが癪だという気持ちと、ただでさえ明日の朝一になるはずだった到着が遅れたことで、少しでも早く着きたいという思いが俺にはあった。また、下手に市街地の人ごみの中で逃げ出されると、探し出すのが骨だと言う理由もある。もっともそれに関しては、手錠以外の保険もかけたので何とかなって欲しいと思っているが。

 しかしよもや、電気自動車どころか骨董品のようなガソリン自動車をレンタルされるとは思わなかった、と俺は内心でもう何度目かになるボヤキを零した。「あんた、まさかUGV限定免許じゃないだろうね?」

 車を借り受けた時、派手な老女店主に念を押すようにそう言われて、俺は思わず苦笑を漏らした。昨今は人間が運転する必要のないUGV(全自動走行車“Unmanned Ground Vehicle”の略語)のみに使える自動車免許しか取得していない若者も増えているらしい。俺は仕事の関係上、普通免許を持っているがこの分ではますますルート59のような古い道路は見向きもされなくなるだろう。


 ルート59は確かに、見捨てられた街道であるらしかった。ちらほら見える建物も、人が立ち入らなくなって久しいようだ。午後の強い日差しに照らされ、どこか張りぼてじみた空虚な印象を与えていた。

 張りぼてと言えば、隣に座っているアンドロイドもそれに近いものがある。背筋を伸ばしてお行儀よく助手席に収まっているアンドリューは、まさにマネキンそのもので運転に集中しているとついその存在を失念してしまうこともしばしばあった。もっとも、地面の隆起によってガタガタと揺れ動く車内で姿勢を保ち続けているということは、常にバランスを取るよう細かな調整をしているのだろう。そう言う時はだいたい、煙草を吸おうと無意識に懐に伸ばした手が手錠で繋がったアンドリューの腕に引っかかることで、禁煙と相手の存在をいっぺんに思い出すことになる訳だが。

 午後の日差しはどこか黄みがかって、一枚のフィルターを重ねているようだった。単調な景色と単調な運転は、どうしたって眠気を誘発する。ラジオの音楽にも飽きだした俺は、隣に座る張りぼてに声を掛けた。

「なあ、お前のご主人様であるエリザベス嬢はどんな女性だったんだ?」

 俺の言葉で、ようやくマネキンはからくり仕掛けの人形になる。しかしこちらを振り向いたロボットは、まるでためらっているかのように黙りこくっていた。俺はああと気が付き、言い添える。

「取調べじゃないんだ。守秘義務に反するようなことまで言わなくていいぞ」

 人を傷つけないなどの三原則の取り決めとはまた別に、通常の一般販売されているロボットには利用者のプライバシー保護のため、一種のプロテクトが掛けられている。特に富裕層が主な購入先となっている高級アンドロイドなら、取り分け仕組みは厳重だろう。それをクリアするのが電子情報管理法であり開示キーであるのだが、それ以前はこいつのようにプロテクトを解除しなければ、情報一つ入手できないのが普通だった。

「——お嬢様は、使用人などに対してもとてもお優しい方です」

 アンドリューは言葉を選ぶように、ゆっくりと話を始める。

「また、自分の意見をしっかり持っていらっしゃり、それを口に出し、実行することにためらいがありません」

「へえ、そいつは意外だな」

 俺はその言葉にいささか驚きを覚える。深窓の令嬢というイメージから、控えめで大人しい女性を想像していたが予想外に芯の通った性格をしていたらしい。もっともあの我の強いチャドウィック氏を思い出すだに、その性格が遺伝したのだと言えなくもない。

「だとすれば、件の婚約者も苦労してたんだろうな」

 俺は、本来なら明後日の今頃、婚約発表を行っていたはずの婚約者の苦労に思いをはせる。そんな気の強い女性だったら、結婚前からさぞや尻に敷かれていたことだろう。しかしアンドロイドは、予想外のことを口にする。

「婚約者の方が、お嬢様とお会いしたことはございません」

「そうなのか?」

 俺はびっくりして聞き返した。

「お嬢様の婚約者になられた方は、旦那様の仕事のお取引相手でいらっしゃいますが、お嬢様ご自身とは面識はなかったと存じます」

 それは随分と不可解な話だが、金持ちの結婚と言うのは概してそういうものなのかもしれない。庶民の俺には理解できない世界だ。

「お嬢様は——、」

 アンドリューは、そこで唐突に言葉を切る。俺は思わず奴に視線を向けるが、アンドロイドは何事もなかったかのように話を続けた。

「お嬢様は、私をアンディと呼んで下さっています。お嬢様にお仕えすることができて、私は、とても幸せです」

「お前みたいなロボットが、幸せを感じたりするのかよ」

 一瞬話が飛んだような気がしたが、それを失念するほど俺は本気で吹き出していた。昨今のアンドロイドは一人前に冗談も言うらしい。ロボットにしては随分と気の利いた冗句を、俺は手放しで笑い飛ばす。だが、アンドリューはいつものように生真面目な表情で、まっすぐ前を向いていた。

「機械は主を選べませんので」

 さり気なく放たれたその言葉に、俺は一転しかめっ面を作る。例えどんな主人でも、どんな仕事でも喜んで従事するのがロボットだ。機械がしぶしぶ仕事をするなんて、それはひどく不遜で傲慢な事に思えた。

「だがお前はロボットだろう」

「ええ、私はロボットです」

 俺は冷たく吐き捨てる。血の通わないヒューマノイド・ロボットは、それを肯定した。

「プログラムされた通りに、命じられたままに動く。それに不満を抱く事もなければ、喜びを感じる事もない。それがロボットって奴だろう」

「……はい、その通りです」

 アンドロイドは、それもまた肯定する。俺はその答えに満足する。満足しているはずだった。だがどういう訳か、俺の中の苛立ちは秒刻みで増していく。

「貴方は——、」

 ふいにロボットが口を開いた。

「人間は自ら主を、仕事を選ぶ事ができます。それでも時には不満を、時には喜びを抱き、そこに幸せを感じるものなのですか?」

 アンドリューが、無機質な眼差しで俺を見ている。そこには何の色も感情も浮かんでないにも関わらず、追いつめられ責め立てられているかのような錯覚を俺は覚えた。

「それは……」

 俺は口ごもる。これはただの雑談で、適当に答えたって何の問題もない。だがどうした訳か、俺はそれに答える事ができなかった。

「——うっせえな。別にどうだっていいだろっ」

 突如会話を叩き切るような俺の言葉に、アンドリューは口を閉ざす。

 そもそもロボットと言うのは、人に使われる道具である以上、勝手に動いたり話しかけてきたりすべきではないのだ。もちろん所有者によっては生きているかのように振る舞い、自発的に人間に関ってくるようカスタマイズされている場合もあるだろう。だが、少なくとも俺はそれを望んでいなかった。

 このアンドリューは、予想外な動きで逃げ出したことはさて置くとしても、勝手にぺらぺらと喋りかけてくる俺にとっては欠陥品同然のロボットだ。同時に、人に決して逆らわず反論もできないロボットに当たり散らしている自分だって、非常に情けない最悪な部類の人間であると自覚せざるをえない。

 車はガタガタと揺れながら、代わり映えのない荒野の一本道を走り続けている。雑音混じりのカー・ラジオの音楽と徐々に伸びゆく影だけが、のんきに過ぎた時間があることを知らしめていた。

「悪かったな……」

 どれだけの時間がたってからだろう。俺はぼそりと隣のアンドロイドに呟いた。太陽は地平線にだいぶ接近し、向かいの空は夜の藍色に浸食され砂粒のような星が散っている。街灯は道しるべ程度の役にしか立たないほど遠間隔で、日が完全に落ち切る前にヘッドライトを点けなければならなかった。

「さっきのは俺の八つ当たりだ」

「いいえ、どうぞお気になさらず」

 アンドリューは平素と何も変わらぬ、淡々とした調子でそれを受け入れる。

 どちらにせよ、俺の謝罪になど本当は意味はない。例え俺がどれだけ理不尽に当たり散らした所で、ロボットはそれを不快に感じる事もないし、何かを思うこともないのだ。所詮、すべては俺の滑稽な独り相撲であり、端から見れば良い年をして人形遊びに興じているようなものだ。

 だが落ち着き払った声音が謝罪を受け入れたことで、俺は自分の中の乱れた感情が幾分か収まるのを自覚した。

(実に勝手だな……)

 俺は自身の身勝手さに苦笑する。一人で苛立ち、八つ当たりし、謝って、それで気を済ます。そうした感情の昂りに左右されず、冷静に仕事をこなせるロボットが、俺は実に羨ましかった。

「お前のお嬢様は、お前になんて命令をしたんだ?」

 俺はアンドリューに尋ねる。奴は、考えるかのように少し間を置いて、おもむろに答えた。

「最後まで、お嬢様の味方であるようにと、言われました」

「そうか、そいつは……いいな」

 それは無邪気にロボットに信頼を寄せられる主人に対する賞賛か、それともどんな主であろうと変わらぬ忠誠心を持ち続けられる機械に対する羨望なのか。

 アンドロイドは何も言わず、黄昏の中で人形のように姿勢正しくただ真っ直ぐ前を向いて座っていた。



 親父が死んだという連絡が入った時俺が抱いたのは、もう仕事に追われずに済むのだろうという同情心だった。

 父母を早くに亡くした親父は、最低限の教育を受けた後、早々に働きに出た。就いた職種は、当時人材が足りず働き手の増員が強く求められていた介護職だ。人口に比して老年層の占める割合がピークだった時代である。体力・精神力が共に求められるきつい仕事だった介護職は、若者のなり手が少なく、その分国から受けられる保証は手厚かったと聞く。だが、それも親父が働きに出てから十年足らずまでの間の話だ。

 年々逼迫するする労働力問題は、まったく想定外の方向から解決策を提示された。それがロボット介護士の導入だ。当初は反感も多く、ロボットによる介助への不安も大きかったのだが、人手不足には代えられず強行するかのように実行に移された。

 そして事前の懸念に反し、それは存外スムーズに人々に受け入れられた。すでに様々な分野で、アンドロイドの社会導入が進んでいたという背景もあるだろう。それにより、介護現場における人手不足という問題は一気に解決したが、一方でまったく真逆の問題が新たに発生していた。あまりにも急速に、ロボット介護士へと需要が移り変わったため、今度は人間の介護士が職にあぶれるようになったのだ。

 別の業種に移れた者はまだ良かった。しかし、他に仕事を見つけられなかった者は、過酷で条件の悪い同職種に働く場所を求めるしかなかった。

 俺の親父は、そうして同じ仕事に固執し、条件の悪い職場を選んだ間抜けの一人だった。学もなく、若くして働き出したため他の働き方を知らなかった、という事もあるだろう。昼も夜も追い立てられるように働き続け、帰って来れば強い酒を飲んで短い睡眠を取り、また仕事に駆り出される。

『なあ、マーク。よおく覚えておけよ。仕事をしている奴は労働者だが、仕事をさせられている奴はただの奴隷だ。お前は——、』

 そうして酒を飲むたびに聞かされる愚痴に、俺は辟易していた。また仕事にくたびれ果てた情けない父親の姿を見るのも嫌で、家にも帰らず街で仲間とたむろす日々が続いていた。

 そんな俺を気にかけてくれていたのは、まだ制度が変わる前に職に就いた定年間際の老刑事だった。俺が今の仕事を選んだのも、少なからず彼の影響があっただろう。彼は俺を叱咤し、仕事以外のことを気に掛ける余裕のなかった親父に代わり何かと俺の面倒を見てくれた。

 親父が死んだ時、俺は親父に同情するとともに同じ道は歩みたくないと思っていた。だが結局はその影を追うように、似たような運命を辿りつつある。もし天国と言う場所があるのなら、果たしてそんな俺を見て親父は何を思うだろうか。



 目が覚めると同時に感じたのは、肩やら背中やらの強張りだった。筋肉が軋み、痛みを覚える。狭い車内で無理やり眠りについたのだから当然だろうと、俺はあくびを噛み殺す。荒野の一端が濃い橙色に染まり、そこからじわじわと空が白み始めている。どうやらちょうど明け前の時間らしい。

 昨晩、月が昇る頃合いまで走り続けた俺は、適当なところで一晩明かすことにした。宿も何もない荒野のど真ん中だから野営以外の選択肢はない訳だが、一晩くらいの車中泊で体を壊すはずもなく、俺は市内であらかじめ買っておいた栄養バーを夕飯代わりにかじると、さっさと毛布を被って寝ることにした。

 隣でともに夜を明かすのは、色っぽい美女なんかではなく逃亡防止用の手錠でつながったままのヒューマノイド・ロボットだ。嬉しくもないシチュエーションではあったが、俺はつまらない夢の一つも見てしまうほどぐっすりと寝入ってしまったようだった。

 俺は寝起きの一服を求めて、無意識に懐に手を伸ばす。手錠ががちゃりと音を立てたことで、俺はげんなりしながらまた禁煙のことを思い出した。だがその一方で、あまりにも抵抗なく手を動かせたことにぎくりとする。

 隣には気が散らないように被せた毛布が膨らんで、その隙間から機械の腕が飛び出している。だが、俺がさらに腕を引くと、それは抵抗なく引き出され座席の間に前腕部だけが無造作に転がった。俺は乱暴に毛布を引き落とす。そこには積み重ねられた荷物がうまい具合に一人分の体積を演出していた。

「……ふっざけんなああぁっ!!」

 俺はハンドルを怒りに任せに殴りつけ、腹の底から猛り吼えた。



 俺は片手でタブレット端末を操りながら、エンジンが焼け付く限界ギリギリの速度で四輪自動車オートモービルを走らせる。画面には簡素ではあるがこの近辺の地図が表示され、ある一カ所に赤い点が明滅している。それはアンドリューの現在地だった。

 昨日、アンドリューに撒かれかけ肝を冷やした俺は、毛布や食べ物を仕入れるついでに購入したシールタイプの発信機を、こっそり奴の機体に張り付けておいた。試す暇もなかったから無事に作動するかは五分五分だと思っていたが、無事に発信機は逃亡するアンドロイドの居場所を指し示していた。

 しかし取り付けた自分が言うことではないが、正直なところアンドリューが発信機に気付いていないとは到底思えなかった。

 また、もし奴が本気で逃亡しようとしていたのなら四輪自動車を壊すなりタイヤをパンクさせるなり、足止めする手段はいくらでもある。ロボットは人に危害を加えることはできないが、街に連絡する手段はある訳だから、荒野で立ち往生したとしてもその日のうちに救助は来る。アンドリューはむしろ、追いかけられることを望んでいるかのように俺には感じられた。


 発信機により、アンドリューが潜伏していると発覚した場所は無人のショッピングモール跡地だった。かつてはこの近辺は中規模都市として栄えていたが、中心であった産業の衰退や市の財政破綻により徐々に人が離散し、今ではすっかりとゴーストタウンになっている。

 新しい概念が生まれ、革新的な技術が生活を一変させる一方で、古いものは衰え、淘汰される。時代の移り変わりを止めることができない以上、そうした変化は受け入れるしかない自然の流れなのだろう。

 俺はショッピングモール廃墟の前で四輪自動車を止める。アンドリューがそこから動く様子はなかった。もちろんそれが発信機から得た情報である以上、逆手に取られた罠である可能性も考慮する必要はある。

 俺は十分に警戒をしながら、放置された長い間に壊され、ぽっかりと開かれた入り口から屋内に足を踏み入れる。かつては流行の最先端を担い、多くの店舗が華やかに賑わっていたそこは、今や瓦礫や廃棄された什器などが散乱し見るも無残な有様になっていた。

 入ってすぐのそこは、小さな家なら一軒丸ごと入ってしまうほど大きなホールとなっており、実際、何かのイベントも行われていたのだろう。吹き抜け状になったその一帯を、上の階から桟敷席のように見下ろせるようになっていた。

 また正面にはエスカレーターが設置され、そこから二階に直接上がれる構造になっていたが、今はそのエスカレーター自体が途中から折れ、崩れている。そんな入り口正面の二階部分に、まるで待ち構えていたかのように奴はいた。

「おい、てめえ! そんな所で何をやっている!」

 俺は廃墟にたたずむアンドロイドを怒鳴りつける。奴は感情を伴わない平然とした表情で、俺を見下ろしていた。

「マーク。あなたには、本当に申し訳ないことをしていると分かっております」

「じゃあなんで、懲りもせず逃げてるんだよ!」

 怒りにまかせた俺の質問に、やはりアンドリューは答えない。

「それを申し上げる訳にはいきません。ただ、マーク。次にあなたに捕まったその時は、逃げることなく同行することをお約束します」

「じゃあ、今すぐここまで降りてきて捕まれよっ」

「それはできかねます」

 奴は慇懃無礼なウェイターのように、頭を下げると踵を返そうとする。その後ろ姿に向かって俺は叫んだ。

「お前は誰の命令でこんな事をしているんだ!」

「……私が、お嬢様の御為以外の理由で動く事はありません」

 振り返ったアンドロイドはそれだけを答えると、ショッピングモールの奥へと消えていく。

「くそぉぉぉっ」

 俺は腹立ちに唸りながら、上の階へと繋がる道を求めて走り出す。このショッピングモールの見取り図は、ネット・アーカイブから引っ張り出して頭に叩き込んできた。廃材で埋もれている場所や崩落している場所もあるだろうが、作り自体は昔と変わることはないだろう。

 敵は入り口から追いかける俺から逃げようとしている。地下は雨水が溜まったか地下水が浸水したかで、水没していた。ならば、向かう先は上しかない。

 俺は奴を探しながら、ショッピングモールを駆け回る。こういった場合、一番危惧しなければならないのは探し回っている間にすれ違い、奴がショッピングモールから出ていってしまうことだ。一応、折々に発信機の信号を確認しているが、それがいつまで信用できるかは分からない。

 塵と埃だらけのその場所で、汗だくになりながらロボットを追い掛け続ける。目に入った汗に顔をしかめながら、正直俺は、なぜ自分がこれほどまで必死になっているのか、だんだん分からなくなってきた。

 どれだけ骨を折り、苦労をしても、結局上の判断一つで自分の首はあっさり切られる。ならば大きな失敗だけはしないようにして、要領良く適当に手を抜いて仕事をこなしたとしても、得られる結果は同じじゃないか。

 走り抜ける通路の左右では、いくつもの店舗が軒を連ねている。だが現在はショーウィンドウが割れ、空になった棚が横倒しになり、文字の剥げた看板が辛うじて壁に引っかかっているばかりだ。かつては客で賑わい、沢山の人間が入れ代わり立ち代わり働いていただろう。しかし、その名残りはいまや荒れ果てた廃墟に微かに感じ取れるだけ。それ以外何一つ残ってはいない。

 つまりどれだけ一生懸命働いたとしても、何かを残せる訳でもないのだ。後で形が残るような仕事ができるのはごく一部の業種限り。それだって百年後、二百年後まであり続けるかは分からない。それが時代の流れなのだ。ならばどうして、人は働くのか。金を稼ぎ、生活を成り立たせる以上のものを、仕事に求めるのか。


 ひと一人いない通路に、自分以外の足音が響いている。これほどまでに広大なショッピングモールだというのに、俺はアンドリューの姿を見失ってはいなかった。足音や、逃げる後ろ姿が俺の追跡の助けとなっている。

 だが、マグレブ・ボードに乗って追いかけていた時とは違い、人間の足で本気で逃亡するアンドロイドに追いつける訳がない。俺はますます、アンドリューには何らかの意図があり、俺はそれに巻き込まれているのだということを確信した。

 果たしてわざと追いかけさせているのか、それともどこかに誘導しようとしているのか。階段をのぼったアンドリューが、その階層の通路をまっすぐ走っていくのを確認する。俺は頭の中の見取り図を広げ、その先にあるはずのものを思い浮かべた。

「どちらにしろ俺は、お前の追いかけっこに付き合ってやれるほど暇じゃねえんだよっ!」

 俺はそのまま階段を一つ上の階層まで一気に駆け上った。あえて足音を立てながら、奴が向かったのと同じ方向に通路をひた走る。

 下の階とこの階は同じ作りになっているが、小売店ごとに壁で区切られていた下層フロアと違い、こちらは少数の大店舗がオープンスペースで店を出していたので一区画分斜めにショートカットができるはずだ。俺はそれに賭けて、全力でフロアを走り抜ける。相手よりも早く、そこに着くために。

 薄暗い通路から、光の中に飛び込むように目的の場所へたどり着く。階層ごとに幾重にも角度を変えて伸びた空中回廊が、吹き抜けの空から差し込む陽の光に照らされている。それはまるで万華鏡の中にいるかのようで、同時にもうこんな高くまで日が昇る時間になっていたのかと場違いなことが脳裏を過った。

 そのうちに、足音が俺の耳に飛び込んできた。俺の期待通り、アンドリューもまた階下の通路を辿って、この場所までたどり着いたのだ。空中回廊を渡る奴に向かって、俺は叫ぶ。

「捕まえたぞッ——いかれマネキン野郎があぁぁっ!!」

 そして躊躇うことなく、空中回廊を飛び降りる。驚いたように上を向いたままの奴に俺はしがみ付く。が、崩れかけた廃墟で行うには、それは随分と無茶なスタントだった。衝撃によって連鎖的に瓦解する回廊と一緒に宙に放りだされながらも、俺はせめてもの意地でアンドリューから手を離さなかった。

(本当に何をやってんだかな……)

 真っ逆さまに落下しつつ、俺は衝撃を覚悟して固く目を閉じる。そしてあっさりと意識を手放した。



(ねえ、いいから今日は仕事おやすみしなよ……)

 そう言って縋りつく子供を困ったようにあやしているのは、どこか俺に似た顔つきの、痩せて顔色の悪い若い男だ。少し間をおいてやっと、それが自分の父親だという事に気が付く。これは過労で倒れ、まだ体調が戻っていないにも関わらず仕事に出ようとしている親父と、それを引き留めようとしている子供時代の俺だった。

「大丈夫だ。お前のためだと思えば、少しくらい大変だってお父さんは頑張れるんだ」

「ぼく、お菓子だっておもちゃだって我慢するよ。お腹が空いたってわがままも言わないから、もうお仕事しなくていいよ」

「そんな訳にもいかないだろう」

 今の俺よりも一回りも若い親父は苦笑しながら、幼子の俺の頭を撫でている。親父はひょいと自分の子供を抱き上げた。やつれて顔色も悪い親父だったが、日々の労働で鍛えた体は子供ひとりぐらいなら軽々と持ち上げる。子供の俺は確かそんな親父の逞しい腕が好きだったなと、ふいに思い出した。

「それにな、仕事だって何も苦しいことばかりじゃないさ。そりゃあ今は忙しくて目が回りそうだし、嫌なことだって多い。だけどな、誰かがおれを必要としてくれるというのは、それはそれで嬉しいもんなんだぞ」

 そう言って歯を見せて笑う顔を見て、俺は長らくの自分の勘違いに気が付いた。

「なあ、マーク。よおく覚えておけよ。仕事をしている奴は労働者だが、仕事をさせられている奴はただの奴隷だ。お前は——、」

 仕事に追われるようにして死んだ親父だったけれど、その姿は決して仕事に振り回される『奴隷』なんかではない。

 親父は、幼い俺を掲げるように高く抱き上げて何かを言い聞かせている。親父がこの時、俺に言った言葉は確か——、



 身体が濡れて冷たい。湿ったシャツが皮膚に張り付く感覚が不快で、俺は布地を引っ張りながら瓦礫の上で身体を起こす。下を見れば随分と深い所から溜まっている透明な水の中で、白い小魚が群れを作って泳いでいた。

 さらには遥か頭上に見える蒼天から降り注ぐ日光が、水に差し込み、また瓦礫の上にも小さな陽だまりを作っている。ちょうどそこに当たるよう、俺の着古したぼろジャケットがコンクリから飛び出た鉄筋に引っかけられて干されていた。俺はシャツの胸ポケットに入れていた煙草の箱に手を伸ばしたが、それがぐしょぐしょに水を吸っている事に気付いて、投げやりに放り捨てる。

「ご気分はいかがでしょうか?」

 ふいに掛けられた声に振り返ると、そこには全身埃だらけになり乳白色の外装のあちこちに細かな傷を作ったアンドロイドが、姿勢よく斜めに傾いだ空中回廊の残骸の上に腰かけている。その片腕が途中から消えていることに一瞬ぎょっとするが、そう言えば手錠を抜け出すのに自分で外していたことを思い出して嘆息した。

「史上最悪だよ。俺はいったいどうなったんだ?」

「回廊の崩落後、運良く破片にぶつかることなく水の中に落ちました。気を失っていらっしゃったようなので、水も飲まずに済まれたようです。差し出がましくも、水上に引き上げ、上着は干させて頂いてます」

「そいつは世話になったな」

 俺は立ち上がると、腕を大きく回す。体が冷え切っているくらいで、確かに大きな外傷はないようだ。

「マーク、本当に申し訳ございませんでした。まさか、このような大惨事になるとは想定外でした」

「こっちもかなり無茶をやらかしたからな。自業自得だ」

 俺は深々と頭を下げるアンドリューに首を振る。そしてちらりと、逃走経路になりそうな道を確かめながら尋ねた。

「もう逃げないのか?」

「はい、お約束いたしましたから」

 その言葉通り、こちらに近づいてくるアンドリューを見て俺はほっと肩の力を抜く。さすがにもうくたびれ切って、追いかけっこをする気力はない。もっとも、前言を翻してアンドロイドが再度逃げ出したなら、律儀に俺も追跡を開始せざるを得ないのだが。

「それで、逃げていた理由はやっぱりまだ言えないのか?」

「はい、その通りです」

 悪びれもなくうなずかれては、もう笑うしかない。俺は肩を震わせて、気が済むまで笑い飛ばした。


 ジャケットはまだ生乾きだったが、そろそろこの穴倉から脱出しようと動き出す。だが、崩落したショッピングモールの吹き抜け部分から抜け出すのは、存外骨が折れた。アンドリューと協力して外に脱出した時には、日もだいぶ西に傾いていた。

「ちくしょう、今から中央シティまで運転するのかよ」

 俺は顔を引きつらせ毒づきながら、車に乗り込む。助手席に腰を下ろしたアンドリューに、俺はそう言えばと思って足元に落ちていたものを投げる。

「ほらよ」

 投げつけられたそれをを受け取ったヒューマノイド・ロボットは、まるできょとんとしたように一瞬動きを止めた。

「なに呆けてるんだよ、お前の腕だろ。自分で取り外したんだから、まさか直せないとは言わないだろうな」

「はい、大丈夫ですが……」

「ですがなんだよ?」

 俺は証拠品のアンドロイドを、腕が損壊した状態で本部に引き渡さずに済みそうでほっとする。もっとも、この一日で随分とぼろっちくなってしまった事実は、覆しようがないが。

「本当によろしいのですか? 腕を預かったままの方が、マークは安心できるのではないでしょうか」

 その言葉に、俺はああと納得する。確かに腕がなければ、仮にまた逃げ出そうとしたところで、万全の時に比べれば支障が出るだろう。

「別にいいさ。もう逃げるつもりはないんだろう?」

「ええ、その通りですが……」

 それでも、いささか納得していない様子のアンドロイドに俺は言い添える。

「それに、嘘をついてお前が逃げたとしても、追いかけてまたとっ捕まえればいいだけの話だ」

 ぞっとしない話ではあるが、しかしそれならそれで対処してやると言う気持ちが俺の中にはあった。

「マーク、私はあなたを……人間を羨ましく思います」

 ふいにアンドリューが言う。

「ロボットがいくら仕事をしても、それは単なる作業でしかない。しかし人間はそこに意味を、感情を見出すことができる。私はそれが羨ましいのです」

 ロボットの口から出るのは、何の色も感情も伴わない淡々とした声音。しかし、そこには不思議と狂おしいまでの渇望が込められているかのように俺には感じられた。だからこそ俺は、にやりと笑う。

「ああ、存分に羨め。それこそが、人間様の特権だ」


(仕事をしている奴は労働者だが、仕事をさせられている奴はただの奴隷だ。お前は——誇り高い労働者になれ)

 長い間忘れていた親父の言葉を、俺は思い出していた。

 仕事は辛く、厳しく、理不尽なことも馬鹿みたいに多い。ただ生きるため、金のためだけなら、そんなこといくらも続けていられないだろう。それでも歯を食い縛って働くのは、そこに達成感や喜び、そして何より誇りがあるからだ。

 それはきっと、言われた仕事を言われた通りに熟すだけの機械には得られない、人間だけの特権だ。だからたとえクビが決まったとしても、きっと俺は最後まで胸を張って自分は刑事だと言い続けるだろう。そう思える自分自身が、俺は誇らしかった。



 途中、四輪自動車オートモービルがガソリン切れを起こしたりタイヤがパンクしたりと、くだらないトラブルに見舞われ続け、結局中央シティに俺たちがたどり着いたのは深夜を回ってからだった。その間、アンドリューは逃げる素振を一切見せなかったので、全ては純然たる俺の不運のせいだった。まったく厄日続きである。

 仕方なしに宿を取り(さすがに二日連続の車中泊は勘弁したかった)、朝一番に中央本部へ向かう。きっかり丸一日、到着が遅れたことになる。新人の時以来の大失態だが、これによってクビが確定しようと、俺は全力を尽くしたのだから仕方がないと腹を括った。

 しかし建物に足を踏み入れようとした時、俺のタブレット端末が着信を告げた。そこに表示された名前を見て、俺は顔を青ざめさせる。それでも、ここで着信を無視する訳にもいかないため、俺はしぶしぶと通話機能を起動させた。

「あー、おはようございます、パルマ警部補。ご連絡していました通り、今ちょうど中央本部に着いたところで——、」

「マーク、令嬢が発見された。戻って来い」

 俺はその言葉に唖然として、声を張り上げる。

「犯人が見つかったんですか!?」

「いいや、だが事件は終わりだ」

 理解できない俺に、警部補はどこかうんざりした様子で説明をする。だがそれは、俺の察しが悪いせいではないだろう。

「エリザベス・チャドウィックは死んでなかった。彼女は今日誕生日を迎えるのを待って、遠方の都市で婚姻届を提出、受理された」

「は? 相手はまさか婚約者で……」

「そんな訳ないだろう。令嬢の周囲をうろついた不審者だ。どうやら令嬢の恋人で、成人して親の許可がいらなくなるや否や強引に入籍したらしい。つまりは駆け落ちだな」

 つまり事件性がなくなったということらしい。あれだけ主張していた父親のチャドウィック氏の言葉は、得てして当たっていたようだ。もっともそれは、彼にとっては嬉しくもない方向にだが。

 中央本部にはいかなくていいから、そのまま引き返してこいと言う台詞を最期にパルマ警部補の通信が終わる。俺は呆然と、この二日間の苦労はいったい何だったのだという気持ちで、隣にたたずむアンドロイドを見た。

「……お前、さては全部知っていたな?」

 常に令嬢の側にいたヒューマノイド・ロボットは、彼女の秘密の恋人のことも、この駆け落ち計画のことも見聞きしていただろう。計画を成功させるには、結婚に親の許可が要らなくなる成人の誕生日まで、その秘密を隠し続ける必要がある。

「つまり、それまで逃げ続けて情報を漏らすなと言うのが、お前が令嬢から受けていた命令だったんだな」

 俺はアンドリューに確認するが、アンドロイドは何も答えず、いつもと変わらぬ澄ました無表情を浮かべている。もっともそこはかとなく、してやったりという満足げな気配があるように思うのは、俺の気のせいではないだろう。

(……なんだよ、ロボットだって誇りを持って仕事をすることがあるんじゃねえか)

 こいつは負けたな、と午前の澄んだ空を見上げながら俺は溜らず苦笑を漏らしたのだった。





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証拠品逃げるにげるにげる 楠瑞稀 @kusumizuki

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