追跡少女

沙魚川 出海

追跡少女

 寮の自室。

 パジャマ姿で机に向かう朱子あけこは、一枚のメモをあたしに渡した。

『しけんべんきょー、いっしょにやろ』

 メモには可愛らしい字でそう書いてある。あたしは二つ返事で「あいよ」と言い、メモを朱子に返した。

 いそいそと『はんい教えて!』と書き加える朱子に、数日前から気になっていたことを話した。

「朱子、そろそろ髪切ったら? 目、悪くなるよ?」

 朱子は前髪が長い。瞳を見せるのが――表情を出すのが恥ずかしいのか、なかなか前髪を切ろうとはせず、ちゃんと視界を確保できているのかと心配になってしまう。

 朱子はぶんぶんと首を振って、『まだいいの!』とメモに書き殴った。

 そこへ同室のたいらさんが帰ってきた。ここはあたしと朱子、平さんの三人住まいだ。自習室兼寝室とリビングの二部屋しかなく、トイレとシャワーは共用なので部屋にはない。この宿舎は古いのだ。女子寮を出て行く人の大半の理由は、この環境の悪さだろう。

 ま、慣れてしまえばどうということはない。

「ただいま、あや

「おかえり、平さん」

 平さんはちらと朱子を一瞥すると、リビングに引っ込んでいった。その際、手招きであたしを呼んだ。

「朱子、また人魚姫になってんの?」

「うん、まあ、そうだけど」

 平さんは心底面倒臭そうな顔をした。

「ああそう。じゃ、世話はあんたに任せたからね。わたしは我関せず焉、ということで」

 彼女はそう告げて、無関心モードに入ってしまった。

 あたしは隣の部屋に戻り、朱子からメモをひったくる。普通に口で伝えればいいのだが、なんだか文字に書き起こしたくなったのだ。

『しけんべんきょう、始めるぞ!』

 前髪の下で、朱子の瞳が輝いたのがわかる。

 朱子は喋らない。

 人魚姫は、魔女に言葉を奪われてしまったからだ。



「どういうことだ綾!」

 顔を上げると朱子が立っていた。バン、と机を叩くその顔は怒り心頭といった感じだ。

「昨日勉強したところと出題範囲が全然違ったではないか!」

「ドキッ。いや、ははは、ごめんごめん」

 休み時間の喧騒。講義室にいるほかの生徒が、あたしに迫る朱子の姿を見て一斉に溜め息を吐いた。中には笑っている者もいるけれど。

「貴様、さては儂を陥れる腹積もりか!?」

「そんなつもりはありませんって。現にあたしも散々だったし……。ところで、えーっと、あなたはどちら様?」

「むっ!? 儂の素性を探る気か――さては貴様が近江屋事件の犯人だな! 貴様が儂を殺したのか!」

「ちげえよ!」

「問答無用! 我が北辰一刀流、とくと見よ!」

 どこからともなく取り出した自在箒を、薙刀を扱うように構える朱子。

「く……ッ! 坂本龍馬か!」

「いざ尋常に勝負!」

 朱子が気勢と共に箒を振り回し始めた。あたしは椅子や机を薙ぎ払うように講義室の中を逃げ回った。

 一人の生徒が投げた箒を受け取って、あたしも箒を構え朱子と対峙する。相手は北辰一刀流――剣術・薙刀術の達人、坂本龍馬。おでこを出し、後ろで一つに纏めている髪型は、まるでどこぞの剣豪だ。

「ちぇええいッ!」

「くっ!」

 凄まじい剣捌き。否、箒捌き。カンカンカン、と箒同士が小気味よい音を立ててぶつかり合う。尋常ではない速度で放たれる刺突を、あたしはこれまた同等の迅さで繰り出した箒で防ぐ。

 相手は江戸時代末期の志士、坂本龍馬。否、見ての通りあたしの友・朱子が暴走した姿である。

 自己催眠法。

 朱子は強烈な自己暗示により、読んだ本の登場人物になりきれる能力を持っている。キャラクターの容姿や台詞を真似するだけならただの痛い女で済むのだが、朱子は言葉通りその人物になりきれるのだ。

 マイケル・シェンカーのバンドスコアを読めば、すぐさまフライングVを弾きこなし。

 王貞治の伝記を読めば、すぐさま一本足打法で本塁打を量産し。

 セーラームーンの漫画を読めば、すぐさま月に代わってお仕置きを始める。

 未知の力を引き出す超感覚的知覚能力の変則的な使用法とも言えるが、自分が使ったこともない道具さえ扱えるようになったり、知らないはずの技術や知識を操ったりと、意識の海――つまり〈溟海〉に存在する全知全能の『何か』にアクセスが可能な、脅威の異能力なのだ。ただ、それを制御できないためにたびたびこのような事態になってしまう。

 そういえば最近、幕末とか新撰組とか、そんな本が部屋に置いてあった気がする……。

 そんな歴史上の偉人と渡り合えるわけもないのだが――今の朱子が坂本龍馬なら、あたしもまた坂本龍馬なのであった。

 トレース能力。

 あたしは他人の特殊な技能を、一時的に自分のものとして扱える。まだまだ発展途上、錬成が必要な能力だが――対象が朱子ならば巧く力を行使できるのだ。

 つまり今あたしは、自分を坂本龍馬だと思い込みパワーアップしている朱子の力をトレースしパワーアップしている、ということになる。

「この――目ぇ覚ませバカ朱子!」

「むうっ!?」

 カン、と朱子が持つ箒が宙を舞い、天井に突き刺さった。あたしと朱子がバトルになった場合、自意識を保ち冷静でいられる分有利だからか、いつもあたしが勝つ。

 あたしが朱子を止めるのだ。

「悪かったよ、試験範囲間違えちゃって……。ほら、部屋片づけよ」

「その強さ――貴様、新撰組副長・土方歳三か!」

「ちげえよ!」



「おはよ、綾」

「おはよう、平さん……ってあれ? 朱子は?」

「さあ? あ、でも朝方ゴソゴソしてたから、トイレにでも行ってるんじゃない?」

 起床後、ベッドに朱子の姿がなかったので不審に思った。いつも朝起きれない朱子に限って、早起きなんて信じられないけれど……。

 共用トイレにも姿がなかったので、外に出てみようと玄関へ向かうことにした。あたしたちの部屋は一階なので、外にはすぐ出られる。

「朱子、どこ行ったんだろ――って、ええっ!?」

 信じられない光景に、眠気が一気に吹き飛んだ。

 玄関に。

 朱子が。

 いた。

 ――上半身裸で。

「んなっ、んなっ、何してんの!?」

 駈け寄るや否や、あたしは最大限大きな小声で朱子の肩を揺すぶった。露わになった細い両肩を掴み、ガクガクと。

「む、何者だお主。今から朝稽古なのだ。邪魔をせんでもらいたい」

「朝稽古って何!? 服はどうしたんだよ!」

「何を言う。着物で四股を踏む力士がどこにいる」

「はー!?」

 下だけのパジャマ姿。当然、小さな二つの膨らみは露出している。毎晩風呂で見慣れているとはいえ、浴場以外で見ると恥ずかしさが半端ない。一方、威風堂々たる朱子はあたしの気持ちなどお構いなしだ。

 いくら女子寮だからって、この状況はまずい。早く部屋に連れ帰らなければ。間違っても外になんて行かせてたまるか。変人・奇人のレッテルを貼られている朱子だけれど、これ以上彼女の名誉を傷つけたくない。傷つけさせたくない。

「朱子……あんたを外へは行かせん!」

「あけこ? 誰だそれは。儂は雷電為右衛門。儂に指図する貴様は……はっ!? まさか我が師匠・谷風梶之助か!」

「ちげえよ!」

 トレース、実行。

「くらえ殺人張り手!」

 先手必勝で放った電光石火の張り手を顎に受け、雷電為右衛門、否、朱子は土俵下まで転げ落ちた。目を回す彼女を抱え、あたしは一目散に自室へと戻った。



 金曜の夜。

 平さんは早々に外出したので、部屋には二人きり。

 あたしと。

 可愛い朱子だけ。

『ごめんね。今日もめいわくかけちゃって』

「あん? いいってことよ、そのくらい」

 朱子は前髪に隠れた瞳に涙を溜め、必死にペンを走らせている。あたしはそんな彼女の頭を優しく撫でてやった。

 朱子が問題を起こせば、その後始末はいつもあたしが担ってきた。同室だから、中等部からの付き合いだから、彼女を止められる便利な能力を持っているから、エトセトラ。

 朱子はどう思っているだろう。周りのみんなが考えているような理由で、あたしがあんたの面倒を看ていると――まだ、そう思っているのかな。

『今朝、わたし絶対何かしたでしょ……。平さん、いつにもまして冷たかった!』

 おずおずと差し出したメモには、震えた文字でそう書かれていた。

 自己催眠にかかっている時の記憶が残っているかいないかは、投影先への没入度合いによる。今朝の件は記憶に残っていないらしい。

 あのあと――平さんに何か言われたのかもしれない。なんとか隠し通そうと試みたけれど、部屋の入口が一つしかない以上、無理があったか。

「あー、まあ、ちょっとしたこと。あたしはいいものが見られたから、むしろ嬉しかったけどねー」

 それを聞いた朱子が、勢いよくペンを疾走させる。

『なになに? 何見たの?』

「秘密だよ」

『なんでー』

 朱子の隣に腰を下ろし、じっと彼女を見つめる。

 人魚姫の女の子。

 今も無口で、こうしてメモで意思を伝えている。

 でも、目の前の人魚姫は――言葉を失ったから口を開かないのではない。

「朱子」

 彼女がこちらを向いた一瞬を逃さず――

 あたしは、彼女の唇にキスをした。

 ほんのわずかに、んっ、と朱子の喉から声が漏れた。

「好き」

 見れば朱子は――頬をすごい早さで朱く染めたかと思えば、わ、わ、わ、と声になっていないひょろひょろの糸みたいな音を発したあと、神速のペン捌きで書いたメモを突き出してきた。

『わたしも綾ちゃんが好きです///』

 彼女が人魚姫なら。

 たとえ泡になろうとも、王子様以外の人に好きなんて言わない。

 あたしは笑った。

 朱子は今にも茹で上がりそうなくらい真っ赤になっている。

 ――いつか。

 いつかその声で、ちゃんと言ってほしいな。

 恥ずかしがり屋の、可愛い可愛い朱子の口から。

「どこにいたって、あたしがあんたをトレースするからさ」



〈了〉

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追跡少女 沙魚川 出海 @IzumiHazekawa

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