第1話 ①
高校生になっても特に目立たず静かな生活を送りたいと心に決めていた。別に今までも特別目立ったことはないけど、静かで穏やかな生活は尊いものだと思う。どんな刺激もいらないし、できれば何のイベントもない平坦な日常を希望する。ただ普通に平和に過ごせればそれでいい。だけどそんなわたしのささやかで大きな希望は高校に入学して一ヶ月が経った現在、一人の同級生によって打ち砕かれようとしていた。
「あ、
元気良く大きな声で名前を呼ばれてびくっと肩を揺らす。教室に足を踏み入れようとしていたわたしは錆びついた玩具のようにぎこちなく振り返ると、視線の先、廊下の向こうから満面の笑みで手を振っているクラスメートに小さく手を振り返した。あいにく大きな声で挨拶を返す勇気も明るさも持ち合わせてはいない。けれどもわたしの反応を受けて、彼は一層笑みを輝かせると笑顔を携えたまま駆け寄ってきた。
今度は柔らかく優しい声音で「おはよう」と微笑む姿は眩しくて、そして眩しすぎる。直視できずに目を逸らした。
「お、おはよう、ございます」
挨拶を交わしただけで至極嬉しそうな顔をするから反応に困ってしまう。目の前でニコニコと笑みを絶やさない彼——
高校に入学して約一ヶ月、既に恒例となりつつある“朝、大声で名前を呼ばれる”というイベントに戸惑いを隠せない。ちらりと窺うように彼を見れば、本当に発光しているのでは? と疑う程に笑顔が眩しくてこれまた思わず目を瞑った。灯乃光くんは今日も元気だ。
そういえば高校に入学して彼と出会ってから、わたしは彼の笑顔以外の表情をまだ見たことがない。知り合って一ヶ月という短い期間ではあるけど、もしや灯乃光くんは笑顔以外の表情をどこかに落っことしてしまったのではないだろうか? と思うほどにはいつもニコニコ笑っている。もとからそういう性格なのか、意図しているのか、どちらにしても笑顔でいるのも楽ではない。そんなことをぼんやり考えていたわたしは「寧羽ちゃん?」と名前を呼ばれていることに気がつかなかった。
「!!」
「どうしたの? ぼーっとしてたけど」
「な、なんでもないよ。あと、近い……です」
俯いていたわたしの顔を覗き込むように屈んで、眉を下げる灯乃光くんから顔を逸らす。予想外の距離の近さに言葉が尻すぼみになって一歩後退した。
「本当に? 具合悪いとかじゃ」
「ち、違います大丈夫です」
ぶんぶんと首を横に振って訴える。灯乃光くんは安心したように上体を起こして、それから何かに気がついたように「あ」と短く声を上げた。
「寝癖ついてるよ」
「え?」
指摘されて自分の頭に手を伸ばす。確かに今朝は少し寝坊してしまって、身支度する時間がいつもより慌ただしいものになってしまったけど、まさか寝癖がついてしまっていたなんて気がつかなかった。
恥ずかしい。羞恥心を誤魔化すように適当に。頭を撫でつける。そんなわたしに灯乃光くんはふっ、と笑みを漏らして「そこじゃないよ」とわたしの頭に手を伸ばしてきた。
「ここ。寧羽ちゃんが寝癖なんて珍しいね。可愛い」
ん?
「……」
ちょっと待って。なんでわたし頭撫でられてるの? にへらと純真無垢な笑顔を向けられて一瞬思考が停止する。しかもその手が何度も頭を滑るものだから、段々と恥ずかしさとは違う意味で身体が震えてきた。途端に居た堪れなくなって視線を床に固定する。これは大変な事案では?
「んー、完璧とはいかないけど少しは目立たなくなったー……と思う。やっぱり濡らして乾かした方がいいかな……」
「あ、ありがとう、ございます。大丈夫です」
目を見れない、顔を上げられない。ようやく離された手に安堵もできない。わたしの周りだけ気温が下がったんじゃないかと思うくらいに寒い。
「寧羽ちゃん? やっぱり具合悪いんじゃ……」
「だ、だだ大丈夫、です」
嘘です大丈夫なわけないです。
四方からひんやりと冷たい視線を向けられて居心地が悪い。灯乃光くんは持ち前の明るさと、整った顔立ちで女の子からすごく人気なのだ。悲鳴が聞こえたのも気のせいじゃないはず。そしてその悲鳴がこの状況に向けられているものだというのもわかっている。灯乃光くんに悪気は一切ないのだとしても、ただでさえ彼と一緒だと目立つのに更に目立つことしてくるし……
当の本人は全く気がついていないみたいだけど。正直本当に勘弁してほしいと思うこともある。だけど眼前でへら、と気の抜けた笑みを浮かべている灯乃光くんにそんなこと言えるわけもなくて、わたしはこっそりと、けれど重たい溜め息を吐いた。
「あ、あの、わたしそろそろ教室に——」
とりあえず一刻も早くこの状況から逃れようと口を開いた瞬間「ねえーねえーーーー!」と人が飛び込んできた。
「うぐっ!」
突然の背後からの突進に構えていなかった無防備な体は衝撃をもろに食らってよろける。なんとか体幹で堪えて転倒は免れた。突進してきた人物を顔だけで振り返る。
「み、美鈴ちゃん……おはよう」
「寧羽! おはよう! 勉強教えて!」
鬼気迫る表情でガシッと肩を掴む友人、
「……宿題、やるの忘れた」
「え? 宿題?」
「というか、見た瞬間に理解不能で鞄に封印したの忘れてた」
「宿題って、もしかして一週間くらい前に出された数学のプリント?」
「うん。答え合わせするから必ずやってこいって言われたやつ……私、今日たぶん当たる」
「それは大変だ」
わたしたちのクラスの数学の先生は特別怖いわけじゃないけれど、特別優しいといいうわけでもない。その場で解かせるくらいのことはあるかもしれない。分かればいいけれど分からずに流れる沈黙を想像して、自分だったら耐えられないなと
「頼む! 寧羽!」
「それはもちろんいいけど、数学って一時間目だよね? 急がないと」
猶予は残り僅か。早く始めないと間に合わない。
「まあ、間に合わなかったら間に合わなかったときだけど……よし、急ごう!」
「う、うん!」
「そういうわけだから。じゃ」
美鈴ちゃんは灯乃光くんを一瞥して片手を上げると、勝ち誇ったような笑みを浮かべてさあ行こう早く行こう、とわたしの背中を押した。
「待って」
「……あんだよ」
かけられた制止の声に一拍置いて振り返った美鈴ちゃんの表情は不機嫌そのもので、対して灯乃光くんは笑顔を崩さず美鈴ちゃんと向かい合った。
「藤和さんおはよう」
「おはよ。じゃ」
「待った」
話は済んだとばかりに再びわたしの背中を押して教室へ入ろうとする美鈴ちゃんを、すかさず灯乃光くんが止めに入る。心なしか笑顔がひくりと引き攣っているような気がする。
「なに。私たち今からお勉強するんだけど」
「勉強なら俺も一緒に見てあげるよ」
「いや、いらない」
掌を突き出すように向けて即座に断りを入れる美鈴ちゃんに、ついに灯乃光くんの相好が崩れた。
「なんで?! ていうか藤和さんさっきから俺の視界を遮るように立ってるのわざとだよね?」
「いや? 別に」
「いや絶対わざとだ。動いたら藤和さんも同じように動くし」
「いや? たまたまじゃない?」
飄々と素知らぬ顔で一向に認めない美鈴ちゃんに、灯乃光くんは腰に手を当てて小さく息を吐いた。二人のやりとりを黙って見ているわたしには灯乃光くんのその姿が新鮮で思わず凝視してしまう。視線に気づいた灯乃光くんが微笑みを浮かべた瞬間、スッと美鈴ちゃんの後頭部が視界に入って遮られた。
「……またやったな」
「は? 私は左に寄りたい気分だっただけだけど」
一触即発。ピリピリとした空気にハラハラする。この二人、どうしてこんなにバチバチなの。やがて美鈴ちゃんは心底面倒くさそうに溜め息を吐くと、やれやれと緩く首を振った。
「灯乃さ、周りを見ろよ」
「周り?」
「おまえはあいつらの相手をしてろってことだよ」
じゃあな、そう言って手をひらひらと振った美鈴ちゃんに今度こそ背中を押されて教室へ入る。
ちら、と振り返って見た灯乃光くんはすぐに誰かに話しかけられたようで、こちらに背を向けてしまっていて表情を窺い知ることはできなかった。だけどたぶん、いつものようなキラキラした笑顔を浮かべているに違いない。さっき美鈴ちゃんと話していたときのムッとしたような表情は新鮮だったな。灯乃光くんもあんな顔するんだ。何だか少し親近感のようなものを感じて頬が緩んだ。
「なーに笑ってんだ?」
「ん? なんでもないよ」
「思い出し笑いするやつは変態らしいぞ」
「え」
◇◇◇
白紙のプリントに名前を記入する。書き終えると美鈴ちゃんはペンを止めてしまった。名前を呼ぶとげんなりした顔がわたしを見る。
「この数字の羅列、見てるだけでやる気を削がれるな」
わかる。
このプリントは一週間前、授業で習ったところの応用問題だ。本当なら既に答え合わせが終わっているはずなんだけど、先生の都合で自習になった為に今日まで延期になっていた。……ん? 予定通りだったら美鈴ちゃんどうしてたんだろ。
嫌々シャーペンを握りしめ、眉間にしわを寄せてプリントと格闘する美鈴ちゃんに解き方を説明していく。唸りながら数式を書く姿を見守って、わたしも自分のプリントを見直した。美鈴ちゃんに間違った答えを教えるわけにはいかない。
正直数学が得意というわけではないし、どちらかというと苦手だ……灯乃光くんも教えてくれると言っていたし、もしかしたらその方が美鈴ちゃんの為だったりするのかも。
ほぼ無意識に廊下へ視線を向けたと同時——開けられていた教室の窓から突然ぶわっと吹き上げるような風が吹いて、二枚のプリント用紙が宙を舞った。
「あっ……」
「おお、風強いなー」
ひらりひらりと宙を泳いだプリントは教室の隅に集まって談笑していた女の子たちの足元にふわりと着地する。追いかけていた足を止めて思わず息を呑んだ。
「…………」
どうしよう、あの人たちいつも灯乃光くんと一緒にいると鋭い眼孔をぶつけてくる筆頭グループだ。わたしからしても非常に関わり合いたくない相手だけど逆も然りだろう。風のいたずらっ子め。
それでもこのままというわけにはいかない。困る。わたしはぎゅっと拳を握って深く息を吸って吐いた。
「ご、ごめんなさい。取りま、す」
話が盛り上がっているのか、はたまたわたしの声が小さすぎたのか、気づかれることなく落ちたプリントの回収に成功した。よかったー! と安堵から胸を撫で下ろす。
「大丈夫かー? 寧羽」
「う、うん」
今度は風で飛ばされてしまわないようにしっかりと手に持つ。それからもう一枚のプリントを拾っていた美鈴ちゃんの下に駆け寄ろうとして、ふと視線を感じて足を止めた。なんとなく振り返った先で冷たい視線とぶつかる。
さっきまで笑い声が聞こえていた空間は静まり返っていて、彼女たちの瞳はまるで敵を見るかのように鋭い。それが自分に向けられているのだと理解してチクッと胸をが痛んだ。
理由はわかっている。というか心当たりなんてそれしかない。冷たい眼差しに体が強張って動けない。あ、真ん中にいる子、さっき廊下にいた子かも。先程の灯乃光くんとの一連のやりとりを見られていたのかもしれない。思い出して頭を抱えたくなる。
やっぱり頭を撫でるのはよくないよね! いや決してよしよしと撫でられていたわけじゃない。そうじゃないのだけど……側から見たら勘違いされても仕方がないよね。ああ、憂鬱。
下に下にと落ちていた視線を恐々と上げる——と、既に彼女たちはわたしに興味を失くしたのか話に花を咲かせていた。あれ? 見間違いだったかな、と思うくらいの様子によかったとほっと息を吐いて今度こそ踵を返す。まだ胸は痛い。じくじくと気持ち悪い。理由に心当たりはあれど、人から敵意を向けられるのは苦しいし、平気なわけがない。
「——寧羽ちゃん」
「!」
さっきの突風とは違う、爽やかな風が頬を掠める。わたしを呼ぶ優しい声が耳に届いて、どうしてだろう、いつもならビクッとしてしまうのに何故だか今は暗い場所から引っ張り上げられたような、そんな気分。灯乃光くんの変わらない笑顔に肩の力が抜けた。
駆け寄ってくる灯乃光くんの表情が不安げに変わる。
「寧羽ちゃん、顔色が悪いけど大丈夫?」
「え、だ、大丈夫です」
「…………」
「大丈夫だよ?」
じっと見つめられて笑ってみせる。
「……寧羽ちゃん、やっぱり俺も勉強まぜて」
「え、それは、その」
ニコッとお手本のような笑顔。でもどこか纏う雰囲気が笑っていなくて戸惑う。それに灯乃光くんの所為じゃないにしても、睨まれる要因の一つであることには変わらなくて咄嗟に言葉を返せない。灯乃光くんと一緒にいることで向けられる感情が怖い。だけどやっぱり灯乃光くんが悪いわけじゃなくて、でも怖くて。それでも結局、ダメかな? と落ち込む姿に駄目とは言えなかった。
後ろを見るのが怖いから足早に席へと戻る。二人で戻ったわたしたちを見て、美鈴ちゃんは眉間に深くしわを寄せた。
「おい、なんでこいつがいる」
「な、成り行きで」
「大変だろ? 力貸すよ」
「おまえの力はいらない頼んでない」
「まあまあ、そう言わずに」
「まあまあ、じゃねぇ!」
結局、美鈴ちゃんが灯乃光くんを追い返そうとして問答している間に勉強する時間がなくなったのは言うまでもない。
◇◇◇
「藤和、写さず自力ででやろうとしたことは褒めるがそのプリントが終わるまで帰れないからな。あ、あと課題追加」
「は?」
一時間目の数学終わり、決定事項を言い渡され固まる美鈴ちゃんの背中に目を瞑る。ごめんなさい美鈴ちゃん、わたしが不甲斐ないばっかりに……!!
そうして放課後、唸りながらプリントを睨みつける美鈴ちゃんと朝と同じように机に向かい合った。美鈴ちゃんは指先に掛けたシャーペンをくるりと器用に回してプリントから顔を上げる。
「だから、なんでおまえがいるんだよ」
「課題が終わらなかったのは俺にも責任の一端があると思って」
「そうだな。つかおまえにしかない」
斜め横に座ってにこりと笑みを浮かべる灯乃光くんに美鈴ちゃんは半眼を向けて溜め息を吐く。
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