第1話 ①
高校生になっても特に目立たず、静かな生活を送ろうと心に決めていた。別に今までも特別目立っていたわけではないけれど、静かで穏やかな生活は尊いものだと思う。どんな刺激もいらないし、できれば何のイベントもない平坦な日常を希望する。
ただ普通に平和に心穏やかに過ごせればそれでいい。それがいい。だけどそんなわたしのささやかで大きな希望は、高校に入学して一ヶ月が経った現在、一人の同級生によって打ち砕かれようとしていた。
「あ!
元気よく大きな声で名前を呼ばれ、びくっと肩が跳ねる。もう何度も経験したはずなのに未だに慣れない。教室まであと一歩のところで、わたしは錆びついた
本当にあと少しだったのに。いや、同じクラスだ。教室に入れていたとしても同じか。緊張と落胆と諦めを同時に味わいながら視線の先、廊下の向こうから満面の笑みで手を振っているクラスメイトに小さく手を振り返した。
あいにく大きな声で挨拶を返す勇気も明るさも持ち合わせてはいない。それでもそんなわたしの反応を受けて、彼——
周りからのチクチクとした視線を感じながら逃げることもできず、ただただ立ち尽くすわたしとの距離をあっという間に縮めた灯乃光くんは、先程よりも落ち着いた声音で再度「おはよう」と柔和な笑みを見せた。パァッと後光が差した気がする。眩しすぎて直視できない。
「お、おはよう」
視線を彷徨わせながら遠慮がちに挨拶を返せばニコーっと嬉しそうな顔をされて反応に困ってしまう。灯乃光くんに尻尾が付いていたらパタパタと忙しなく動いているに違いない。
灯乃光——容姿端麗で明るく優しい彼は、それはもうモテている。絶大な人気を誇っていると言っても過言ではない。そんな彼にどういうわけかわたし、
それが何故なのか理由はわからないけれど、とにかくわたしは彼に懐かれている。それ自体は別に嫌とかではなく、仲良くしてくれるのは嬉しいことだけど、現状困っていることがあるとすれば“朝、大声で名前を呼ばれる”というイベント発生の件について。気がつけば発生していたこのイベントはわたしの戸惑いを知ってから知らずか既に恒例となりつつあって、ほぼ毎朝わたしを見つけてはそれはもういい笑顔で駆け寄ってくるのだ。
この件に関しては早々になんとかしなければと思っている。ちらりと灯乃光くんを窺い見る。本当に発光しているのでは? と疑うほどに笑顔が眩しい。いつも朗らかに笑っていて、爽やかで柔らかい雰囲気を纏っている灯乃光くん。人見知りのわたしが戸惑いながらも普通に会話ができているのは、そんな灯乃光くんの性格ゆえなのだと思う。まだ出会って日は浅いけれど、わたしは灯乃光くんのことを尊敬している。
そんなことをぼんやりと考えていたわたしは「寧羽ちゃん?」と名前を呼ばれていることに気がつかなかった。にゅっと眼前に迫った灯乃光くんのご尊顔にびくりと肩が跳ねる。
「どうしたの? ぼーっとして」
「ひぇっ、な、なんでもないです。あと、近い……」
顔を覗き込むように屈んで、眉を下げる灯乃光くんから慌てて顔を逸らす。予想外の距離の近さに言葉が尻すぼみになってじりっと一歩後退した。「本当に? 具合悪いんじゃ」そう言ってより一層心配そうな顔をする灯乃光くんに「ち、違うよ。大丈夫」と手と首を精一杯横に振って訴える。灯乃光くんはいまいち納得のいっていない顔をしながらも「そう? 体調が悪かったら言ってね」と上体を起こした。ほっと息をつく。まだ朝だというのに疲れた。早く席に着きたい。
「……ええっと、それじゃあ」
「あ」
「え?」
やんわりと会話を終わろうとしていたわたしに、灯乃光くんが短くこぼした。それを反射的に拾って顔を見る。大きな双眸がわたしの頭に向けられていた。
「? どうかしましたか」
「寝癖ついてるよ」
小声で返ってきた言葉に自分の頭に手を伸ばす。本当に何かついてた。今朝は少し寝坊してしまって慌ただしく家を出てきてしまったけど、まさか寝癖をつけたまま登校してしまっていたなんて。恥ずかしい。
「あ、ありがとう。あとで直すね」
「そこじゃなくてここ」
「んん?」
「寧羽ちゃんが寝癖なんて珍しいね。かわいい」
にへらと屈託のない笑みと共に頭を撫でられてピシリッと身体が硬直した。脳が考えることを放棄してしまったのか頭が真っ白になる。数秒後、ハッと我に返ったときには灯乃光くんの手が頭を往復していて気を失いそうになった。
いっそ気を失った方が楽だったかもしれない。恥ずかしさとは違う意味で体が震える。居たたまれない。居たたまれなさすぎる。え? さっき悲鳴が聞こえなかった? 聞こえたよね? 気のせいじゃないよね? バクバクと早くなる心臓に、刺さる視線から逃げるように顔を俯けた。もはやこれは事案では?
「完璧とはいかないけど、少しは目立たなくなったー……と思う。やっぱり濡らして乾かした方がいいかな」
「えぁ、いえ! 充分です。ありがとうございます。大丈夫です」
なんだか一周回って冷静になってくる。とりあえず一刻も早くここから去ろうそうしよう。
灯乃光くんにとっては親切心からくる行動なんだろうけど、その気持ちはありがたいけど! ぜひ周りを見てほしい。ようやく手が離されたというのに安堵なんてできず、わたしの周りだけ気温が下がったんじゃないかと思うくらいに寒い。
「それじゃ、」
「ねぇ、やっぱり顔色悪いよ。具合悪いんじゃない?」
「いや、これは」
ぐっと押し黙る。大丈夫? 保健室行く? と眉を下げる灯乃光くんは優しい人だ。だからこそ、その優しさがわたしの顔色を悪くしているなんて言えない。四方からひんやりと冷たい視線を向けられて居心地が悪いし、全然全く本当に大丈夫じゃないけど「大丈夫だよ」と呟くしかない。
別に睨まれていることも、言えないことも灯乃光くんのせいではない。灯乃光くんはただ優しさを爆発させただけ。寝癖を爆発させてきたわたしが悪い。もう全方位に謝りたい。寝癖なんてつけてきてごめんなさいと謝りたい。
ただ、ただ! 寝癖を直そうとしてくれただけとはいえ、行為自体は頭を撫でているのとそう変わりはない。不用意に触れるものではないと誰か教えてあげてほしい。わたし? 無理無理。だって灯乃光くんは悪気もなければきっとこの冷えた空気に気づいてすらいない。自分がモテているという自覚があるのかすら怪しい。そんな人に指摘したら「え そんなつもりじゃなかったんだけど。まさか意識してるの? え?」とか思われそうで嫌だ。わたしの中で灯乃光くんは純粋でピュアッピュアなんだ。
「あの、本当にありがとう。わたしは大丈夫だからそろそろ教室に——うぐっ」
入ろう、そう続けようとした言葉は突然の横からの突進に遮られた。なんか今日最後まで言えないの多いな?
襲撃に備えていなかった無防備な身体は衝撃をもろに喰らってよろける。さっと伸ばされた灯乃光くんの手がわたしの腕を掴んでくれたことで転倒は免れた。
「ありがとう。転ぶところだった」
「いや、ほんとに間に合ってよかった。怪我ない?」
「うん、大丈夫」
「よかった。つか藤和さん、危ないだろ」
安心したように肩から力を抜いた灯乃光くんが、珍しく眉間にしわを寄せてわたしの腰に巻きついている女の子に視線を落とした。廊下に膝をつき、顔を上げる女の子の目は今にも泣き出しそうなほど潤んでいる。
「ねねぇぇ、ごめん、ごめんなさいぃ」
「だっ、大丈夫。怪我はないし、美鈴ちゃんが全力なのはいつものことだし」
「いつもごめんなさいぃ」
「あ、悪い意味じゃなくてね? ごめんね、本当に大丈夫だから落ち着いて、ね?」
こちらもまた珍しく取り乱している友人、
「寧羽」
「はい」
「勉強教えてください!」
「……え、勉強?」
美鈴ちゃんの顔がくしゃっと歪む。いつも堂々としている彼女からは想像もつかない姿にごくりと息を呑んだ。
「宿題、やるの忘れた」
そうして呟かれた言葉に目を瞬かせる。
「ん? 宿題?」
「配られた瞬間に理解不能で封印したの忘れてた」
「宿題ってもしかして、一週間くらい前に出された数学のプリント?」
「うん。答え合わせするから必ずやってこいって言われてたやつ。私今日絶対当たる」
「それは大変だ」
わたしたちのクラスの数学の先生は特別怖いわけじゃないけれど、特別優しいといいうわけでもない。その場で解かせるくらいのことはあるかもしれない。というか前に一度あった。解ればいいけれど、解けないまま流れる沈黙を想像して、自分だったら耐えられないなと震える。
「私の頭じゃ今からやっても間に合わない。頼む! 私に勉強教えてくれて!!」
両手を合わせて頭を下げる美鈴ちゃんにくすりと笑みがこぼれる。数学の授業は二時間目、正直間に合うかどうかはわからない。それでもまず写させてくれと言わずに、教えてくれと言った美鈴ちゃんにらしいなと微笑ましい気持ちになった。
「わたしでよければ。一緒に頑張ろう」
「ありがとう! ありがとう寧羽! それじゃあやろう! 今すぐやろう!」
ぎゅっと手を握られて教室へと引っ張られる。思い出したみたいに「ああ」と立ち止まった美鈴ちゃんは灯乃光くんを振り返ると「そういうわけだから、じゃ」と勝ち誇ったように鼻で笑った。ピリッとした空気が走る。さっきまで涙目だった美鈴ちゃんの瞳は挑発的に細められていて、対して灯乃光くんはにっこりと笑顔を崩さない。
「藤和さん、勉強なら俺も一緒に見てあげるよ」
「いやいらない」
間髪入れず、掌を突き出す美鈴ちゃん。
「二人で見たら早いよきっと」
「いや教わるのは私一人だし、書くのも私一人。早いもなにもないだろ? わざわざ灯乃光様の手を煩わせるわけにはいきませんよ」
どこか棘のある言い方に灯乃光くんの相好が崩れた。
「俺がいたら駄目?」
「必要ないって言ってんの」
「つーか藤和さんなんで寧羽ちゃんを背中に隠したの? 俺から見えないようにしてるのわざとだろ」
「いや? 別に」
飄々と素知らぬ顔でどこまでも挑発的な態度に、灯乃光くんは腰に手を当てて小さく息を吐いた。
「藤和さんって俺に当たり強くない?」
「そう思うならそうだろうな」
「なんで?」
一触即発の雰囲気にハラハラする。入学以来わたしが灯乃光くんに懐かれたのと同時に、美鈴ちゃんは灯乃光くんとバチバチな関係を築いていた。正確に言えば美鈴ちゃんの方が灯乃光くんに突っかかるような物言いをしている。
いつでも止めに入れるように心構えをしていると、美鈴ちゃんは心底面倒くさそうにため息を吐いて緩く首を振った。
「灯乃さ、周りを見ろよ」
「周り?」
「おまえはあいつらの相手でもしてろ」
目を眇め、冷たく言い放つと美鈴ちゃんはわたしの腰に手を回し、そのまま教室へと連れて入った。ちら、と振り返って見た灯乃光くんは既に誰かに話しかけられていて、いつもの柔らかい笑みを浮かべている。そのことにどこかほっとした。
◇◇◇
白紙のプリントに名前を記入して、美鈴ちゃんシャーペンを置いてしまった。げんなりとした顔がわたしを見る。
「この数字の羅列、見てるだけでやる気を削がれるな」
わかる。
このプリントは一週間前に授業で習ったところの応用問題だ。本当なら既に答え合わせが終わっているはずなんだけど、先生の都合で自習になった為に今日まで延期になっていた。……ん? 予定通りに敢行されていたら美鈴ちゃんどうしてたんだろう。
渋々シャーペンを握りしめ、眉間にしわを寄せて問題と格闘する美鈴ちゃんに解き方を説明していく。唸りながら数式を書いていく姿を見守って、わたしも自分のプリントを見直した。美鈴ちゃんに間違った答えを教えるわけにはいかない。
正直数学が得意というわけではないし、どちらかというと苦手だ。美鈴ちゃんは嫌がるかもしれないけど、灯乃光くんが一緒に見てくれたら心強かったかもしれない。他の心配はあるけれど。
刹那、開け放たれた教室の窓からぶわっと吹き上げるような風が入ってきて、二枚のプリントが宙を舞った。
「あっ」
「おお、風強いなー」
ひらひらと宙を泳いだプリントは教室の隅に集まって談笑していた女の子たちの足元にふわりと着地した。追いかけていた足を止める。
「…………」
どうしよう。あの人たち、灯乃光くんと一緒にいるといつも鋭い眼光で睨みつけてくる筆頭グループだ。わたしからしても非常に関わりたくない相手だし、逆も然りだろう。風の悪戯に頭を抱えたくなる。しかしこのままというわけにもいかない。わたしはごくりと息を呑んでぎゅっと拳を強く握った。
「ごっ、ごめんなさい。失礼します」
話が盛り上がっているのか、はたまたわたしの声が小さすぎたのか、特に何の反応もなくプリントの回収に成功した。ほっと胸を撫で下ろす。
「うざ」
「マジで目障りなんだけど」
ドキッと心臓が嫌な音をたてた。ショックで根を張りそうになっている足を無理矢理動かして彼女たちに背を向ける。わたしに言ったのかどうかはわからない。わからないけど、でも、きっとわたしだ。雰囲気や態度、視線で伝わるものがある。
「大丈夫かー? 寧羽」
「うん、大丈夫」
もう一枚のプリントを拾っていた美鈴ちゃんにへらりと笑顔を作った。言葉は救いにも凶器にもなる。気にしなければいいと思いながらも人から敵意を向けられるのはやっぱり苦しい。
「——寧羽ちゃん」
ふわっと、また風が吹いた。さっきの突風とは違う爽やかな風が頬を掠める。わたしを呼ぶ優しい声が、暗い場所から引っ張り上げてくれたように強張っていた体から力が抜けた。いつの間にか傍まで来ていた灯乃光くんの笑顔に安心してしまう。
「大丈夫? すごい風だったね」
「あ、うん。すごかったね、大丈夫だよ」
「本当に?」
「? うん」
じっと目を見つめられて瞳が揺れる。堪えられなくなって逸らすと灯乃光くんはにこっとお手本のような笑みを浮かべた。それから彼女たちの方を一瞥する。いつも優しい笑顔が冷えたものに見えるのは気のせいだろうか。
「煩いし行こうか」
「え?」
なにが、と問う暇もなく肩を押される。
「やっぱり俺も勉強まぜて」
「え?! それは」
「ダメかな?」としゅんと落ち込む姿にうっと言葉に詰まる。そんな顔をされてはダメなんて言えない。でも美鈴ちゃんが……なんて悩んでいる間に自分の席に戻ってきてしまった。美鈴ちゃんの眉間に深いしわが刻まれる。
「おい。なんでこいつがいる?」
「な 成り行きで」
「大変だろ? 俺も力になるよ」
「おまえの力はいらない頼んでない。だいたい寧羽が教えてくれるだけで充分だ」
「まあまあそう言わずに」
「まあまあ、じゃねぇ!」
案の定というべきか、想像通りの展開に苦笑する。まだプリントは三分の一も埋まっていない。結局、美鈴ちゃんが灯乃光くんを追い払おうとして問答している間に予鈴が鳴り、その後も同じ展開が続き全ての問題を解くことはできなかった。
「藤和、課題追加」
不運にも当てられた問題ができていなかった箇所で、課題をしてこなかったことがバレてしまうのは約一時間後のお話。
ただ、君が好き 姫野 藍 @himenoai
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