4. 呪詛切り
明けて翌朝、又之丞は神主の怒声に叩き起され、朝から平謝りして心が重い。
年老いた神主は、次に巫女をみて苦り切った面をする。
「
藤尾と呼ばれた巫女は聞かぬふりして、老人にぞんざいな口調。
「その子供には礼を尽くしたほうがいいぞ」
「我が社の御柱以外に礼を尽くすいわれはござらぬ」
「松河城の柱の話だ」
藤尾の一言に、神主ますます渋い顔。
「…如何なる次第じゃ?」
地神が又之丞を見るので、皆の視線がそこへ集まり、居心地はなは甚だ悪しけれども、又之丞は事の次第を説明した。
「そんなものを、わしらにどうしろというのだ、どうにもならぬわ!」
「はあ、すみません」
又之丞、再び怒鳴られ、なんとも割に合わぬ思い。地神、涼しい声で曰く。
「では、逃げるしかないであろう。東風丸」
「はいよ」
「外の様子を見てこい」
東風丸は座ったままふいと浮き上がり、風を蹴って拝殿を飛び出していった。後ろのほうで、また神主の金切り声が聞こえたが、自分の知ったことではないと、城下の町へ飛んで行く。
姿は消して風となり、ざわめく通りをすり抜けると、辻の立て札に人だかりがある。
人々の頭上に止まって、その触れ書きをよく見ると、見知ったような人相書き。
貧相な侍一人、前髪そろえた子供一人、ざん切り頭の二才が一人。
文字を読めずとも、せいぜい悪そうな顔をしたその似顔絵に、東風丸は思わずからからと高笑い。
驚いたのはやじ馬どもで、晴天の高みから姿もなくて声が降るとは、すわ城の怪異のとばっちりかと、蜘蛛の子散らす勢いで逃げて走った。
東風丸、立て札から件の触れを破り取り、懐に突っ込んで神社に持ち帰る。
拝殿に飛んで入り、皆の前に降り立つと、懐から紙切れ一枚出して広げて見せる。
藤尾がおもしろそうに、にじりよってくると、又之丞の袖を引く。
「何て書いてあるのだ。読め」
又之丞は落胆も露わに眉と口とを八の字にした。
神主があごを上げて吐き捨てる。
「逆賊めら!」
「俺は、何にも悪いことしてない! やっとやっと士官が叶ったってのに、何でお国転覆なんか企むもんか! お、お、お尋ね者にされちまうなんて…」
又之丞、肩を落として床に手をつき、今朝だけでも何度目か知れぬため息をもう一つ。
触れ書きによると、松河の転覆を企む又之丞は、自宅にとりついた化け物を手なづけ、妖術師を雇い、城の鬼に殿をとり殺させんとした極悪人であるため、見つけ次第、捕らえるか殺すかするようにとある。
又之丞、床に着いた手を拳に握りしめ、奥歯噛み締めて顔を上げた。
「疑いを晴らして、俺はまっとうな人生を送るんだ!」
又之丞は、地神と神主と藤尾とを、三等分に見て、居住まい正して正座して。
「どうか、お助け下さい!」
深々と頭を下げた又之丞を、尻目にかけた東風丸。
「神頼みのどこが、まっとうだ」
藤尾が床を踏みしめて立ち上がる。
「城の姫をどうしろというのだ。城を正しく守っているだけではないか。城に魂を縛りつけて城を支えているのに、何を責めるか。今の城主のほうが悪い!」
地神が尋ねる。
「城の姫の由来を知っておるのか」
神主が重々しく口を開いた。
「初代秋信公が松河の城を建てようとしたとき、どうしても石垣が崩れるので、我が社の巫女が人柱として自ら立った。これが、件のものの由来であろう」
東風丸が舌打ち一つ。
「知ってんじゃねえか、爺さん、出し惜しみしやがって」
又之丞、慌てて東風丸の口を塞ぐ。
「ならば、こちらから言って頂ければ、お怒りも解けるのでは」
「いやだ」
藤尾が言下に拒否したが、地神が袖翻して立ち上がったので、又之丞は期待をつなぐ。
「よりて来よ、秋信」
地神は言うや、藤尾の額に剣指を突きつけ、つと突く。
藤尾は首をのけぞらせ、ぐらりと後ろに倒れるかと思いきや、またゆるりと前へ倒れかかる。天から糸一本で吊られた人形のように、瞬き一つせずにぐらりゆらり。
突然、がくりと体が止まり、ゆっくりと頭をもたげるその目には、まったき闇の深淵の色。椿の色した唇だけが震えて言葉を紡ぎ出す。
「我が名を呼ぶは、何ものぞ…」
地神答えて曰く。
「貴様の城を見よ」
藤尾の表情をなくした藤尾は、僅かに視線をさまよわせる。
「我自ら、川を越えず」
藤尾はその場にくずおれた。
「ならば、いざ」
地神は又之丞の手を掴み、藤尾の口へ反対の手を差し伸べ、如何なるべきか、その口の中へするりと吸い込まれていく。又之丞はともに引きずられながら、悲鳴を上げて東風丸の手を掴む。
「うわあああっ!」
「何でおれまで巻き込むんだっ」
三人の姿はすっかり藤尾の口の中に消え、藤尾は倒れたまま、神主は目玉も落ちよとばかりに藤尾を見、なす術もなく腰を抜かしてへたりこんだ。
さて、又之丞、恐ろしさに固く目をつむり、暖かな闇を通り抜けたと思えば、体の浮かぶような心地して、次には、背中からどこかへ叩きつけられて、何の事はない落下していたのだと知る。
「い、いたた・・・」
ようやく体を起こしてみると、丸石のひろがる石野原。青暗く、空は鉛の雲が流れ、風は茫茫と走り、それに紛れて水の流れが涛涛と聞こえる。
「ここは・・・?」
東風丸が、又之丞の腕を掴んで立ち上がらせる。
「月並みなことを聞きやがる。賽の河原に決まってんだろ?」
「何が、決まってるもんかっ! ・・・じゃあ、俺、死んじまったのか?」
又之丞の眉がまた八の字になる。
「一々うるせえ野郎だな。いつ、てめえが死んだよ?」
「死んでないのか?」
「ねえよ」
「良かった・・・」
又之丞、心底ほっとして、ここがどこだか忘れた気分。
「ぼけっとしてんじゃねえ。行くぞ」
見ると、地神はすでに川岸へと歩いている。又之丞、それを追って小走りにいくと、川面に小さな舟が滑って来るのが見える。
小舟は目の前の岸に着き、どうやら三人を待っている様子。目の色が濁った老人が一人舵を取っている。
地神は何も言わず当然のように舳先へ乗りこみ、東風丸と又之丞もそれに続く。舟は岸を離れて、広い川を渡って行く。聞こえるのは舳先が水をかきわける音と、櫓がぎい、ぎい、と鳴る音ばかり。
川幅の真ん中あたりで櫓の音が止まり、しかし舟は流されもせずに、流れる水の上にぴたりととどまっている。
又之丞、何事かと、身を固くして舵取りに、おいと声をかければ、老人は大きく裂けた口の端をにんまりと吊り上げて振り返り、手のひらを上にして又之丞の目の前に突き出す。
「な、何だ」
「肝だ」
老人の手が、顔に触れそうにぐんと突き出される。思わず身を引き、舟がぐらりとかしぐ。
東風丸が、又之丞の後ろで唸り声を上げる。
「ジジイ、つけあがるんじゃねえ」
「川ん中で三人とも食い尽くされてもいいのか?」
東風丸は立ち上がると、又之丞の襟を引っ掴んで地神の前へ引き倒すと、老人の前にだんと足をつく。
「その減らず口に、てめえのハラワタ詰め込んでやるぞ?」
東風丸は人のものではない大きな牙の間から、鬼気を吐いて老人に吹きつけた。形ばかりは人のなりした二匹の妖怪、しばし睨み合う。が、老人が櫓のほうへ振り返り嫌々ながら漕ぎ始めると、東風丸は老人の背中を睨んだまま乱暴に腰を下ろす。
そのまま川を渡りきり、地神が降り、又之丞が降り、東風丸が降りようとすると、舟がするりと岸を離れて、ぐんぐん川中へ出て行く。
「東風丸!」
又之丞の叫びを合図に老人は、けたけた笑って、舟の底を踏み抜いた。
吹き上げるように水が上がり、舟はじりじりと沈んでいく。
東風丸は、水をよけて船べりに上がると、軽く足を蹴って宙に浮いた。
老人が笑いを引っ込め、悪鬼の形相で東風丸の足に飛びつくが、東風丸はそれをすいとよけ、さらに風を駆って水上を飛び、地神と又之丞の前に降り立った。
地神が、踵を返して歩き出す。
「行くぞ」
又之丞は地神を追いながら尋ねる。
「あの、どちらへ」
「分からぬ」
又之丞、聞くのではなかったと後悔しつつ、しかし、こんなところで頼りになるのはこの地神きりと、粛々と後を歩く。
辺りは相変わらず殺風景な石原で、物音も、時折、草鞋に踏まれた石が転んで冷たくがちりと言うきりだ。
東風丸は、何もないのに、あっちへふらふら行っては石をひっくり返して見、こっちへふらふら来ては地面の匂いを嗅ぎと、一人で忙しい。
「何してるんだ?東風丸」
東風丸はしゃがんで何やら鼻を鳴らしていたが、顔をあげて歩きはじめる。
「匂い嗅いでる」
又之丞は先ほどと同じ後悔を味わいかけたが、気を取り直しさらに尋ねる。
「何の?」
「今のは、人の寝た跡だった」
「誰が、こんなとこで」
「さあ? 死んだ奴だろ? 生きた人間は滅多に来ないからな。おまえ、ここじゃ美味そうなんだから気をつけろよ」
東風丸は牙を剥いて、にやにや笑い。
「・・・からかうなよ」
「ご忠告さしあげてんだよ」
又之丞、あまりありがたい気持ちにもなれずに、話を変える。
「なあ、ところで地神様はどこに行こうってんだろうな?」
「場所は分からねえな。あの藤尾とかいう巫女の気配を辿ってるだけだから」
「そうだったのか。どこまで行くのかなあ・・・」
曇天を望む又之丞に、東風丸が尻目をくれる。
「ばか。秋信んとこ!」
「ああっ。そうか」
「鈍いんだよ又公は。まったく、藤尾の匂いだってこんなに残ってるのに、全然わかってねえ」
凡夫の身には、匂いを追うのは無理な話だ。
しばらく三人無言で歩くと、彼方にあった森が立ちはだかるように近づいてくる。その山のふもとに見えるは、まごうことなき松河城。
見覚えのある門を見上げ、又之丞はぽかんと口を開け、東風丸に背中をどやされて我にかえる。
地神が無造作にそのまま歩いて門をくぐろうとすると、警護の兵らが押しとどめる。
地神、眉一つ動かさずに、これらにいかづちをくれた。すぐ傍らに轟き落ちた光の矢に、又之丞と東風丸まで身が竦む。
いよいよ多くの大丈夫どもが城から出て来て、三人に推誰する。
「何者!」
少年の形した地神は、白刃のきらめきを仰ぎ見る。
「藤尾たる巫女、何処にある」
その言葉が終わるや、到底届くはずもない城の奥から、男の声が三人に届く。
「目通り許す。入れ」
並み居る臣下ども、その声にひれ伏して三人に道を開けた。
城内に入っても、やはり松河の城に相違ない。秋信公の御前にても、やはり同じ広間の有り様。
脇息から肘を離して体を起こした男は、どこか今の城主に似た面影がある。
その側に立っていた藤尾が、ずかずかと部屋の真ん中に出て仁王立ち。
「さっさと話をつけて、帰せ!」
大きな目と濃い眉を吊り上げて、地神を睨んだ。
秋信が、姿勢を正して地神に質す。
「この者、この部屋から出られぬと申す。貴様の仕業か」
地神、秋信の正面に座して曰く。
「現の松河の城の柱、鬼と化しておる。任を解きやれ」
「なんと。我が城の守りを頼んだものが、我が城に害するか」
藤尾が、横から怒鳴る。
「城を害したのは、おまえの子孫だ! 柱に何の咎もないわ」
秋信は藤尾と地神を交互に見て、眉根をよせて脇息を打つ。
「如何なる子細じゃ」
藤尾が首を振り向けて又之丞を見るので、皆の視線がそちらへ向く。仕方なく、松河が豊海に下らんとする次第を述べた。
秋信、顔を曇らせ嘆息し、ようよう気を取り直すと側の者に硯を持ってくるよう言いつけた。
巻紙に短く記すと、小刀を添えて、地神に差し出す。
地神はそれを又之丞に持たせ、すくと立ち上がる。
地神が足を踏み出すと、広間の襖、障子が、全てひとりでに開いて風が流れた。地神、藤尾に向いて曰く。
「苦労であった」
藤尾の姿は、ゆらりと揺らめき、霧に包まれるようにぼやけていく。地神は、消えるのを終いまで見ずに、庭のほうへと歩を進める。
又之丞、地神を追い、庭に下りたところで振り向いたが、藤尾の姿はまったく消え失せていた。
地神は、まっすぐに庭の一隅に向かう。
松の枝の下に掘られた井戸端で足を止め、又之丞の腕を掴んで軽くその中へ身を躍らせた。又之丞は叫び声をあげ、支えを求めて東風丸の袖を引っ掴むが、東風丸は自ら地を蹴って井戸へ身を投げ入れたので、三人は諸共に暗い水面に打ち落ちる。
ざんぶりと冷たい水に飲みこまれ、もがけども手掛かりもないままに沈んでいく。又之丞は闇雲に手足を動かし、なんとか水を掻いて、水面を探す。
急に体と息が軽くなり、又之丞、空気の中におどり出た。
「し、死ぬかと思った…」
「あの世から帰って来たのに、何言ってんだ」
暗い中で東風丸の声が聞こえ、帯をぐいと引っ張られる。水の匂いのする澱んだ空気が、疾風にかき乱され、東風丸は風を蹴り、風は又之丞の体を巻き、地神の体を支えて、水を飛沫に舞い上がった。
びゅうと空中に飛び出して、ふわりと地上に降り立つと、目眩ましのように明るい昼間の陽光が、じりじりと肩を焼いた。
三人とも、ずぶずぶの濡れ鼠。衣は重たく垂れ下がり、髪は顔や首に張りついて、滴が絶え間なくしたたっている。
又之丞があたりを見回すと、まさしくそこは松河城の庭の一隅。松の枝を透かして見れば、障子が吹き飛んだままの大広間が見える。
そして、そこにうち揃った異形の者共も、もちろん良く見える。
こちらから良く見えるということは、あちらからも見通せるところにいるということでもある。
又之丞、金目の一つと目が合った。
ところで、あちらの松河城から霞の如くに消え去った藤尾である。
藤尾から見れば、松河城の広間の景色が、色を失い形を失い、それに重なって拝殿の天井が形をとり色を増し、ぴたりと現の景色となった。
神主に禰宣に、巫女の一人二人が、目を開いた藤尾の顔を覗き込んでいる。
「藤尾さま、ご無事か」
藤尾は、弾かれたように身を起こす。
「あいつらは?」
「消えたまま…」
藤尾、神主の言葉聞き終わらぬうちに、打掛けはねのけて立ち上がり、禰宣を押し退けて足音荒く拝殿を出る。
引き止める声も知らぬげに、鳥居のほうへ歩いて行くと、その前に神主が走り出て立ちはだかった。
「この社の外へお出でになること、なりませぬ!」
後ろから、他の者たちの手が、藤尾を捕らえる。
「離せ!」
藤尾がいかに暴れても、女子の力では振り払うことができぬ。
しばらく揉み合ううちに、藤尾が悲鳴をあげて硬直した。がくがくと背を反らし、白目を剥いて、きしるような声をあげる。
「我が道を阻む者ども、我が呪詛にて血花の咲くと覚えよ!」
藤尾を捕らえていた者は皆、恐れをなして手を離した。その隙に、藤尾は鳥居をくぐって走り出す。
「ふん、憶病者!」
転がるように参道を駆け下り、城を目指す。
城に近づくにつれて、警護の兵が目につくようになる。目につくどころか、戦のために城を包囲するかのような人数で、藤尾には分からなかったが、豊海の兵が半分である。
城門の前で、藤尾は息を切らしてひざに手をついた。まだ、肩で息をしながら、まっすぐ門に向かう。
兵らに小突きかえされても、ひるむ藤尾ではない。
「わしは、植松大社の巫女だ。通せ」
武人と言えど、夏の昼間の小具足姿で暑さに耐えるのも飽きたころ、いい憂さ晴らしと藤尾に近づく。
「供も連れぬ小娘が、偉そうな口をきくじゃないか」
大きな男に見下ろされ、藤尾は目を光らせてその男を見上げる。黒々とした眉をまっすぐにして、閉ざされた門を見据えると、声高に言い放つ。
「植松の巫女が、植松の巫女神、柱神、名をば橋姫というものに申し上げる! 開かれよ!」
内から閉ざされた門を、守るとも言えず、ただ見張っていたばかりのつわものどもの後ろで、重い扉のきしみが聞こえ、振り返れば、城門がぎりぎりと開いていく。
その隙間から、鬼どもがとりどりに牙を剥き、えものを振り上げ兵らに打ちかかる。
藤尾は、騒然と戦うものたちの間を足早に通りすぎ、あちらで見た城の中を思い出しながら、大広間を目ざす。
異類異形のものども、藤尾の姿に目を止めても、なにやら人の匂いとも思えず、知らぬふり。
広間のほうで、閃光と轟音。藤尾は走り出した。
又之丞、鬼と目が合ったと思った途端、その鬼は縁を蹴って飛びかかってきたので、あわてて鞘をはらう。
「喧嘩しに来たんじゃないんだ! 話しに来たんだ! 書状をお届けに参っただけなんだっ!」
逃げ腰の又之丞の袖を、東風丸がぐいと引く。地神が軽く前へ出ると、三人を囲む檻を作って稲妻の柱が突き立った。
東風丸が又之丞の袖を離して、叫ぶ。
「刀、危ねえぞ! 雷獣は金気に降りるんだからっ」
又之丞は太刀を放りだし、秋信から預かった書状を納めた懐を押さえて、裏返った声でわめく。
「秋信様より、書状をお持ちいたし候!」
途端にあたりがしんと静まり返り、鬼どもがえものを下ろす。奥から、静かな女の声が又之丞たちを呼んだ。
「近うよれ」
上座の畳の上に、かの女臈、白い小袖に緋の袴、菖蒲の襲ねに垂らした髪の鬢、耳にはさんで座している。
又之丞、恐る恐るその前に座って頭を下げ、怖々懐から書状と小刀を取り出した。
自分の手の上の巻紙に、息を飲んで絶句する。
下を向いた又之丞の鬢のあたりから、井戸水がぽたりと滴る。
書状の紙はぼったりと濡れそぼり、墨が溶けた証拠の灰色で、又之丞はどうしていいか分からない。
分からないので、そのまま差し出した。
女臈はじかに受け取ると、共に結ばれた小刀で封を切り、水で張りついた紙を虚空に投げるように開く。
墨に汚れた濡れ紙はべたりと、畳にうなだれた。
女臈、それを、伏目に見下ろす。
そこへ、藤尾が足音高く駆け込んだ。荒く息をつき、拳をきつく握りしめて女臈を見つめる。
女臈は、ゆっくりと顔を上げ、藤尾を見た。
藤尾が尋ねる。
「聞きたい。何故、柱になどなった?」
女臈は石南花よりも赤い唇を開く。
「さだめゆえに、我が名は橋姫である」
藤尾の目から涙が溢れる。
橋姫は読めぬ手紙から手を離し、絹の音をたてて立ち上がる、さらに藤尾を見て言う。
「されど、さだめも尽きたる由、その方にすそ切り申しつける」
又之丞がふとまわりを見ると、鬼や妖怪どもはいつの間にやら姿が見えぬ。
門のほうから、戦いの雄叫びが遠く響くばかりだ。
橋姫は五衣を肩から落とし、長袴を掴んで進み出ると、藤尾に例の小刀を渡す。
ついで、するすると城内を進み、裏庭へ出た。藤尾がそれに続き、又之丞たち三人も黙ってついて歩く。
城内のどこかで、兵らが床を鳴らして走るのが聞こえるが、まだ近づいてはこない。
堀のすぐ裏、石壁土塁の根元まで来て足を止めると、橋姫は四人を振り返る。
底光りする切れ長の目が、藤尾の瞳をとらえる。
橋姫はまた、遠くをまっすぐに見て、まっすぐに通る声で告げる。
「秋信。今こそ解かれむ」
後ろ手に苔蒸した石に指をかけると、石は抗わずがらりと崩れ落ち、まわりの土や石もなだれて、人一人ほどの穴が開く。
泥の中にあってもなお、白く、玉の色した骨と、色の抜けた絹のかけらに、幾重にもかけられた縄の残り。
笑ったように顎を開いた舎利頭、闇と空いた両の目と、頭蓋から八方へ伸びる緑のかんざしは、生きたままの艶に光る。
藤尾は、左手で橋姫の頬骨を掴み、右手の小刀で、土に食いこんだ黒髪を断つ。
一房、また一房と、されこうべは土塁から離されていく。
とうとう、最後の一房も断ち切られると、小刀は錆と変じて崩れさった。
橋姫の椿の唇が、舞い散る花弁の笑みを漏らせば、白骨の顎も共にかたかたと鳴り、頭蓋に短くまとわりついた髪も震える。
高笑いする橋姫の、姿は骨に重なって、かたかたと笑うされこうべの音に、城の柱が揺さぶられる。
「揺れてる!」
又之丞は叫んで、逃げ道を探す。
東風丸が、手に持ったされこうべと見合っている藤尾の背中をどやしつける。
「ぼけてる暇ねえぞ!」
されこうべはまだ笑っているが、藤尾は脇に抱えて走りだす。地神を先頭に、揺らぐ地面によろめきながら。
石垣の崩れる音が絶え間なく響き、頭上からは滑り落ちた瓦が砕けながら降りそそぐ。
どうやら、東風丸の操るらしい狂風が、倒れかかる木々や柱を、すれすれによけてくれる。
城門の近くでは武具に身を固めた兵たちが、慌てふためいて逃げ出そうとしている。もはや、地神を頭の四人のことも、藤尾が抱いたされこうべも目に入らぬ様子。
「どけ!」
東風丸、門まで一直線に風を通して道を作る。兵たちは、揺れる地面とときならぬ狂風に、きりきり舞ってすっ転がる。
四人が門を駆け抜けて、やっと安心かと振り返ると、城は真ん中からひしゃげて、土煙をあげ、つぶれていく。
居合わせた誰もが、ただ唖然とその様を眺めた。
異変の報を受けて、門前の陣につめていた城主も城の見える場所に走り出したが、為す術もなく見入るだけだ。
地響きをたてて瓦礫の山になってゆく城を前に、又之丞はその場にへたりこんだ。
「俺は…、何のために、何を、やって…」
されこうべは、笑いを止めて、死んでいた。
これ以上、地面の揺れが続かぬようなので、兵たちも我にかえり、殿の言葉を待っている。しかし、誰かが、又之丞らに目を止めた。
「おい、人相書きの男じゃないか」
「あの娘はなんだ、何を持ってる」
じゃらじゃらと刀の鞘をはらう音がして、鋼の林に囲まれる。
地神が又之丞の腕を掴んで立ち上がらせ、東風丸が藤尾の帯を引っつかみ、それぞれ雲を蹴り、風を駆って空へ舞い上がった。
兵たちは、口々に怪しき事よとののしり、石を投げつけ矢を射掛けるが、いずれも四人の身には届かない。
騒ぐうちに、空の四人は雲の彼方へ恐ろしい早さで飛び失せた。
ひとまずは、と、植松社の境内に降り立つ。
腰が抜けた藤尾を、東風丸が笑う。
「むこうっ気はどこいった?」
藤尾はうらめしげに、東風丸を見上げて答える。
「空を飛んだのは、初めてなのだ!」
神主が禰宣を伴ってまろび出てくると、藤尾が胸に抱いたものを見て息を飲み、わなわなと手を震わせて指差した。
「藤尾さま、それはいったい、何をお持ちか!」
藤尾は、老人の声にすっくと立ち上がり、冴えた目を振り向け、抱えたされこうべを右手に取って、えいとばかりに投げつけた。
神主も若い禰宣も、頓狂な声をあげて飛び退いたので、されこうべは、とんころころと地面を転がる。
「せいぜい祭ってやるがいいわ!」
藤尾の一喝に、神主は矜持を取り戻し、地神と又之丞を半々に睨む。
「貴様ら、藤尾さまに何を吹き込んだ」
又之丞、慌てて弁解。
「いや、俺たちは何も知らないですよ。この巫女さんが、自分でやって来て、ええと、城が、崩れて」
老人の耳には、何を言っても火に油。
「謀反人めが!」
掴みかかる神主のほうへ、地神がすいと手を伸ばした。神主たちは途端に縛られたように、身動きもできぬ。
「又之丞」
「は」
「西への旅が吉兆と出ておる」
「は?」
「貴様の行く処、何処までも共に行き、守護してしんぜようぞ」
東風丸が、又之丞の肩を軽い調子でぽんと叩く。
「良かったなあ、又公。まだ日暮れには間があるぜ。思い立ったが吉日って言うじゃねえか?」
それを聞いた藤尾、必死の面持ちで、又之丞の袖を引く。
「わしも一緒に連れてってくれ! 頼む!」
東風丸が、藤尾の頭をぐりぐりと押さえつけた。
「お前さんは、ここにいれば安泰だろが」
暗闇を飲んだような目で東風丸を振り返り、藤尾は首を横に振る。
「だって、怖い…」
東風丸は神主と足もとのされこうべを見やった。
「明日は我が身だってのか? 新しい城を作れるほど、甲斐性のある殿さんだとは思えねえけどな」
又之丞がひざをついて藤尾の顔を覗き、諭すように言う。
「俺たちだって、あてがあるわけじゃないし、止したほうがいいよ」
自分だって、御免被りたいのだ。
だが、藤尾は懇願する。
「迷惑かけたら、捨ててくれていい!」
東風丸がにやにやする。
「後悔するぜえ」
藤尾は顔をあげ、立ち上がって膝をはらいながら言う。
「その時は、また逃げる」
「追っかけられたら、どうするよ?」
藤尾は頭を振り立て、自信ありげにふんと笑う。
「貴様なぞ、祓ってくれる」
東風丸、言い返そうと思ったが、藤尾の自信に偽りのないことに思い至り、開きかけた口をぱくりと閉じた。
又之丞、力なく首を落とす。くっきりと影の刻まれた土の上、泥だらけの自分の足。まだ湿り気の抜けない袴の裾。
ため息一つつき、顔一面の汗を拭って、しぶしぶ立ち上がる。
「じゃあ、…行くか…」
「よし」
返事をしたのは藤尾だけだったが、四人は揃って歩き始めた。
陽炎立つ道、夏の風。
この陽気ならば、明日の朝も明るく明けるに違いない。
極東奇事 狸穴かざみ @mamiana
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