2.
クレプスクルムの刃となる。
その契約のもと、ぼくは拷問部屋から連れ出され、まずは血やら嘔吐物やらで汚い服を問答無用で脱がされ、かわりにワンピースのようなものを着せられて、怪我の手当てをされた。
あちこち酷いことになっていると自覚はしていたけど、具体的な状態は分からないまま、僕はカプセルの中に押し込まれた。SF映画とかでよく出てくるようなやつだ。寝台に寝た人がすっぽり収まるサイズで、スライド式の扉がついている。
病院という空間に行ったことがないぼくでも分かる。クレプスクルムが世間よりも高度な医療技術を持っている、ということが。
プシュッ、という音のあと、何か霧のようなものがカプセル内を満たしていくのが分かった。
甘い香りだ。花に似た香り。
カプセルの内側には小さな機械がたくさんあって、それぞれ独立して動き、僕の傷を治し始めた。白衣を来た人たちはカプセルの外でその小さな機械を操作しているのだ。
だんだんと目を開けているのが難しくなってきて、さっきのは催眠ガスとかそういうものだろうか、と思いつつ、ぼくは眠気に負けて目を閉じた。
次に気がついたとき、全身の痛みはほとんどよくなっていて、そして、天使さまが、カプセルのガラス窓の向こうからぼくのことを見ていた。相変わらず、全身が白くて、瞳だけが赤い。
「クリアです、姫様。問題ありません」
「後遺症などは」
「ほぼないかと思われますが、一部頭蓋骨に陥没が見られまして…ほんの小さなものなのですが。できる限りの治療を施しましたので、発作的な頭痛のみ、考えられます。薬は彼の体質に見合ったものを処方中です」
「そうですか。ありがとう」
くぐもった会話のあと、カプセルの扉が静かに開いた。
姫さま。そう呼ばれていた天使さまが口を開いて、今気付いた、という顔で首を傾げる。
「そういえば、お名前を聞いてませんでしたね」
「ひ、すい。です」
とぎれとぎれにどうにか返すと、姫さま、は微笑んだ。そうすると本当に天使のようだった。非の打ち所のない笑顔というのは本当に存在するんだな、とこんなときにぼんやり見惚れてしまう。
姫さまはぼくに手を差し伸べ、言うのだ。
「よく頑張りましたね、ヒスイ。クレプスクルムへようこそ。私はあなたを歓迎します」
ぼくが問題なく動けることを白衣を着た人たちが確認してから、病院、のような空間から出ることが許された。
姫さまはぼくを連れて、まずは着替えなければいけませんね、とぼくを違う場所へ連れて行った。
お風呂とシャワーの完備されている一室に案内されて、ぼくは自分を見下ろした。
確かに、ぺろんとしたワンピース一枚ではいられないけど、ぼくには着替えがない。
ぼくが困っていることに気がついた姫さまは、着替えは用意させておきますから、と言う。ぼくは曖昧に頷いて、シャワーとお風呂を借りることにした。
血とか汗とか、その他もろもろで汚かったぼく。
こんなぼくに、姫さまはよく触れようと思ったなぁ。あの人はきっと優しい人なんだろう。
(クレプスクルム。こんな場所でも、優しい人はいるんだ)
まずはシャワーで軽く全身を洗い流して、丁寧に髪を洗う。その間に白いバスタブにお湯を溜めた。さっぱりしたあとはゆっくりとバスタブのお湯に浸かり、からだを解して、リラックスする。
……久しぶりに人間らしいことをした気がする。どのくらい久しぶりか、思い出せないくらい久しぶりに。
気がすむまで湯煎に浸かって、バスタオルで全身の水気を拭いつつバスルームから顔を出すと、椅子の上に着替えが用意されているのが見えた。部屋の中に姫さまの姿はない。
ドライヤーで髪を乾かして、鏡に映っている自分を眺める。痩せて、生傷の多い自分は、まるで自分じゃないみたいに見える。
シャワーとか、お風呂とか、このドライヤーも。ぼくがぼくだけだった頃、使い方なんて知らなかった。教えてくれたのは、ぼくを見つけてくれたあの人だ。
傷跡の残る頬をべちっと掌で叩く。
(ミセリアは咲いたんだ。ぼくは、覚悟を決めなくちゃ)
ミセリアは、咲いたけど。自分の中に力はまだ感じない。以前の、動物と話せる力は、気付いたら使っていたし、自然とそのやり方も分かっていたけどな。
髪を乾かし終えて、用意されたものを着てみる。下着と靴下、薄いチェック模様の入ったシャツ、ベスト、無地のズボン。シンプルだけど、手触りのいい、ぼくが今まで着てきたものの中で一番上品なものをそろそろと身につけ、最後に黒い靴を履いてみた。どれもサイズがぴったりだ。
部屋の中に誰もいないことを確認して、扉を開けてみると、外で姫さまが待っていた。ぼくを見ると淡い笑顔を浮かべて頷く。「よく似合っていますよ」と言われて、どう反応すればいいのか、僕は曖昧に俯くことしかできない。
次に、姫さまはぼくを連れて違う場所へ向かった。エレベーターに乗り込んで、階の表示のないボタンを押す。下、に引っぱられている感じがするから、上に向かっているんだろうか。
頭が痛い。ツキツキと爪楊枝でつつかれているような小さな、確かな痛みがある。
後遺症、って言っていたっけ。これがそうか。地味に痛い。
「ヒスイ」
痛みを意識するあまり、現実の僕の動きが止まっていたらしい。いつの間にかエレベーターの箱の扉は開いていた。
透明な声に呼ばれてエレベーターから一歩踏み出し、姫さまのあとに続いて灰色の廊下を歩いていく。
姫さまは廊下をどん詰まりまで歩いていった。そして、行き止まりで立ち止まる。
何もない場所だ。こんなところに用事があるのだろうか。
見守っていると、ポーン、とどこからともなく音がして、白い扉が現れた。驚くぼくを置いて、扉は一人で静かに開き、姫さまを迎え入れる。ぼくは慌ててあとについていった。
中は、白かった。
白い机。白い椅子。そして、白い姫さま。
姫さまが白い手を伸ばし、白い椅子を指す。ここに座りなさい、と。ぼくはそのとおりにして白い椅子に腰かけ、なんとなく、白い部屋を見回す。
何もない部屋だ。白い机と、白い椅子。それ以外のものが見当たらない。窓もない。
「この部屋は…?」
「特別な部屋です。能力を授けるときにだけ訪れる場所」
能力。
その言葉に一つ、心臓が大きく脈打つ。
頭の痛みなんて、気持ちの高揚が勝って、消えてしまった。
(そうだ。ぼくはようやく手に入れることができるんだ。力を。そのためにクレプスクルムまできて、たくさんの痛みに耐えたんだ。それをこの人が認めてくれた)
「ミセリアが、咲いた感覚は、あったんですけど。まだ力が使えなくて」
「咲いたばかりですからね。少し、訓練が必要でしょう」
「訓練…」
「それはあなたの力です。今から私が与えるのは、それとは違う能力」
違う、能力。「能力を、二つ、持てるんですか?」ぼくの疑問に姫さまは微笑んだ。「フォークとナイフを使い分けるようなものです。慣れはいりますが、大丈夫」大丈夫。姫さまにそう言われると、そんな気がしてきた。
スープをスプーンですくって食べて、お肉をナイフとフォークで切り分ける。そんな感じに使えばいいのなら、ぼくにもできそうだ。
ぼくはまた、力を使うことができるようになるんだ。
姫さまが白い指で机に何かを描いていく。目で追うものの、何を描いているのかは分からない。文字なのか、絵なのか、紋様なのか。もっと別の何かなのか。
さらさらと指でなぞられた何かが完成し、ぽわん、と青白く光った。次にカコンと軽い音がして、机の中央に円形のくぼみができる。
そのくぼみを覗き込みたくなったけれど、じっと我慢して、ぼくはくぼみを眺め続けた。
音もなくくぼみからすっと浮かび出てきたのは、クリスタルのような容器に入った小さな白い実だった。
クリスタルは当然のように姫さまが掲げた掌の上で落ち着き、ガラスのように見えた容器は静かにゆっくりと瓦解して、空気中にとけて消えた。姫さまの手には白い実しか残っていない。
まるで魔法のようだ。
魔法なんて、この科学の時代に、馬鹿みたいな言葉だけど。それでもクレプスクルムは確かに魔法のような力を完成させたんだ。最低な方法で、だけど。
姫さまが白い実を僕へと差し出す。さくらんぼにも似た小さな実を。
「お食べなさい」
ごくり、と唾を飲み下す。
震えそうになる手でぐっと拳を握り、痛みを再認識して、ゆっくりと解く。その手を伸ばして姫さまの手から白い実を受け取る。
これを食べたらぼくは能力を得られるのか。
そんな簡単なものなのか。そんな簡単に、誰かが幸福と引き換えに得た力を、剥奪された力を、得られてしまうのか。
口を開けて、震えてしまう手で、白い実を、放り込む。覚悟を決めて噛むと、じわり、と甘い果実の味が口いっぱいに広がった。
甘い。おいしい。
おいしい。
人の不幸は。その味は。甘くて、おいしいんだ。
ああ、人の不幸は蜜の味、なんて、本当によく言ったものだ。
ぼくは知らず涙を流していた。人の不幸がこんなにもおいしいという現実が悲しくて、寂しくて。
姫さまはそんなぼくの頭をやんわりと撫でてくれた。「あなたは優しい子ですね」「…いいえ。ぼくは」ぐい、とシャツの袖で涙を拭う。
ぼくは、人の不幸を食った。その味をおいしいと思った。最低な人間だ。その不幸がどんなものか、身をもって知っているのに、この味を否定できなかった、最低なやつだ。優しくなんかない。
そうだ。ぼくは最低なやつなんだ。ああ、そうだとも。
ぼくを助けてくれたかつての恩人を怨み、呪い、立ち上がったぼくは。もう以前のぼくじゃない。そんなぼくは、もういないんだ。
動物に心を寄せていたぼくはもういないんだ。
弱いぼくとは、これで、さよならだ。
ぼくは生まれ変わる。新しい能力とともに、クレプスクルムの刃にふさわしいぼくとして、生まれ変わるんだ。
「姫さま」
「はい」
「今までのぼくは、ここで死にました。そういうことにしてください。
この部屋を出たら、ぼくは、もうヒスイじゃありません。弱いぼくはこの場所で死にました。これから生きるぼくは、クレプスクルムの刃としてのぼくです。だから、ぼくに新しい名前をください」
「…そうですか。分かりました、あなたに似合う名前を考えておきます」
「ありがとうございます」
姫さまに深々と頭を下げ、ぼくは目を閉じた。
これからぼくは、奪われる側ではなく、奪う側の人間になる。
これからぼくは、追われる側ではなく、追う側の人間になる。
ぼくは、自分のために生きることを選んだ。そのために恩人を恨んで呪ってミセリアを咲かせた。
ぼくは最低なやつだ。
それでも、迷わない。
人は誰かのためになんて生きられない。自分のために生きるんだ。それは、ぼくも、同じだ。
君を救ういくつかの方法 アリス・アザレア @aliceazalea
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