終章

「――それじゃ、動かしてみよう」

 守弘が修理していた原付が完成したのは、揚羽と祐光すけみつが姫木の町を発ってから数日後の週末だった。

 れんげは昼頃に、厚手のニットとジーンズで、守弘の家を訪れていた。

 細かな傷は残るものの、新車のようにピカピカに磨かれた原付はどこか誇らしげに輝いていた。

 濃い赤のボディに、初心者マークが斜めに貼られている。

「はい――っ」

 れんげは緊張の面持ちで守弘から原付のキーを受け取り、シリンダーに差し込んだ。

 キーをひねり、左のレバーをしっかりと握る。

 右手の親指で、右レバーの付け根近くにあるスイッチをぐっと押し込んだ。

 きゅきゅっ、と軽快な音を立て、エンジンがかかる。

「試運転してみる?」

「ええ」

 れんげはヘルメットを被った。

 小さな鞄をシートの中に入れる。

「駅前辺りまで行ってみてもいいですか?」

「OK。後ろ付いていくよ。

 スロットルもブレーキも、急な操作はしないこと」

「はい」

 れんげは原付を押し出してスタンドを戻し、シートに座った。

「行きます――」

 慎重にゆっくりと右手のスロットルを回し、れんげの乗った原付が動き出した。

「――っ!」

「大丈夫っ!」

 守弘はれんげに聞こえるように大声で言い、自分のバイクのエンジンをかけた。



 駅前まで、ゆっくり進んだ原付でも十分とかからなかった。

 頑ななくらいに法定速度を守ってれんげは走り、商店街の入り口で原付のエンジンを切る。

 すぐに守弘が追いついた。

「――どう?」

「ちょっと怖いけど、気持ちいいですね」

「それならよかった。

 ――何か予定があった?」

「ええ、ちょっと」

 れんげは原付を押して歩き、商店街の中程で止まる。

 携帯電話ショップの前だった。

 れんげはヘルメットを脱いでシートの中に収めてスタンドを立てた。

 守弘もそのすぐ横にバイクを停める。

「――ケータイ?」

「ええ」

 れんげは少し笑っていた。

「あった方が何かと便利かな、と思いました。

 今回倉崎さんを探していたときに思ったんです」

「なるほどな」

 れんげは小さな鞄を手に、携帯電話ショップに入った。


 ――手続きは多少ごたついたものの、一時間後にはれんげは自分の携帯電話を、初めて手に入れていた。

 小振りで白く、それほど色々な機能で彩られていない、シンプルなものだ。

 れんげは店を出てからも、電話をしげしげと眺め回している。その肘に、説明書などの入ったパッケージと、「記入して送ってください」と渡された書類と封筒が入った紙袋をかけている。

「――どうする、それ」

 守弘が言ったのはその書類。れんげが戸籍上未成年だったため、保護者あるいは後見人が必要となり、その同意書だ。

「どうしましょう。

 ――茂林に書いてもらいましょうか。茂林も便宜上、戸籍を作って、、、いますし」

「それが無難だな」

 れんげは頷き、鞄から出した小さなメモに記してあった番号をさっそく携帯電話に打ち込み、『通話』ボタンを押した。

 数回のコールで、相手が出る。

『――はい、もしもし?』

 誰からか判らずに不審感のある声だった。

「翠穂さん――高野です」

『おおっ、れんげ!?

 ケータイ買ったんだぁ』

 れんげが名乗ると、途端に声は明るくなった。

「ええ、それで、真っ先に翠穂さんに」

『あれ、三原クンじゃなくて?』

「守弘さん――と今一緒にいます」

 れんげは、自分の携帯電話にれんげの番号を登録している守弘を見ながら言った。

『あぁ』

 翠穂が笑う。

『そりゃ、デートの邪魔しちゃ悪いや。

 夜にかけるね』

 そう言って、翠穂は通話を切った。

 れんげは微笑んで、続けてもう一枚別のメモを見て、その番号にかける。

『――はい、倉崎です』

 祐光だった。

「倉崎さん、高野です。

 あの――揚羽姉さま、いらっしゃいますか?」

『あぁ』

 祐光の声もれんげが名乗ると綻んだ。

『ちょっと待ってください――』

 電話の向こうが少々バタバタして――相手が代わった。

『なんじゃ?』

「揚羽姉さま、れんげです」

『おぉ、どうした?』

「今――携帯電話を買ったところなんです。姉さまには知らせておこうと思って」

 電話の向こうで揚羽が笑った。

『彼氏、にはええんか』

 翠穂と同じようなことを言う。

「一緒におりますので」

 それが何だか可笑おかしくて、れんげも笑って言った。

『そうか』

 揚羽は短く言う。

『ちょっと今、取り込んでおる。

 悪いがまた、でええか?』

「あ――お忙しいところすみません。またかけますね。

 姉さまも、何かあったら――」

『ああ、わかった』

「それでは失礼します――また」

 れんげは通話を切った。

 守弘を見上げる。

「すみません。お待たせしてしまって――」

「いいよ」

 守弘は笑って言った。

「どうする? もうちょっと運転するか――ちょっと何か、食べるか……」

「そうですね」

 れんげはすぐ隣の喫茶店を指した。

「ちょっと、一息いれませんか」



「――そうだ」

 ホットコーヒーをスプーンでかき混ぜながら、守弘は思い出したように切り出した。

 携帯電話の説明書をパラパラと読んでいたれんげは顔を上げる。

 れんげの前にはホットオレンジ。

「はい?」

真名まな、って何だったんだ?」

 れんげはくすっと笑う。

「そんなに気になってたんですか?

 ――モノの、真の名前です」

「そんなこと言ってたよな。

 どういうこと?」

「その存在の本質を示す名称、と云われるものです。

 真名を知るということはその者を支配するのと同義の力があります。術か何か、そういう素養のある者が使うとそれこそ――」

「ふぅん……」

 守弘はコーヒーを一口すする。

「じゃあ、れんげの真名、って――」

「知って、どうなさるのですか?」

 冗談めかしてれんげは言う。守弘は焦ったように手を振って否定する。

「あ、いや、そんなつもりは――」

 れんげはくすくすと笑う。

「そ、そうだ――れんげ」

 守弘はコーヒーをもう一口飲んで、話題を変えた。

「この前、数珠みたいなの使ってたけど――あの呪文みたいなのは何?」

 れんげが、きょとんとした瞳を守弘に向ける。

「――『発菩提心真言』ですか?

 あれは毎朝のお勤めの一つ、です」

 れんげはあっさりと言って、笑う。

「特別な呪文とか、鎮諫ちんかん言霊ことだまだとか、そんな想像をされたのですか?

 ――私にはそんな力はありませんよ」

 喫茶店の窓から見える風景は、いつもの商店街のものだ。

 その人の流れをぼんやりと追いながら、れんげは呟く。

「発心を導いた、ただそれだけです」

「そっか――」

 守弘は苦笑う。

「何か凄い術でもあるのかと思ってた。

 ――ていうか俺、何も知らないんだな」

「そんな、気にされなくても」

 れんげはホットオレンジを両手で抱えて、ゆっくりと飲んだ。

「私も知らないことばかりです。

 けど、知識を得てゆくことは楽しいですよ」

「なるほどな。

 れんげって前向きだな」

 れんげは笑って、守弘のコーヒーが空になっているのを確認して、席を立った。

「行きましょう。

 運転の練習、お付き合いください」



 喫茶店を出て原付に戻り、ヘルメットと鞄を入れ替えたれんげに守弘がふと声をかけた。

「そういや、れんげ――」

「はい?」

「肩とか頬とか、怪我――大丈夫か?」

 れんげは守弘を見上げて、軽く言う。

「ええ。問題ありません」


 それからヘルメットのベルトを広げていた手を片方、後ろに回し――

 短くなったお下げ髪をそっとなぞって微笑んだ。

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付喪神蓮華草子 / 鋼揚羽 あきらつかさ @aqua_hare

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