5章 揚羽
二階が気になる様子で何度も振り返りながら、守弘が言った。
「――茂林、この家の中って安全なのか?」
「ん?」
「れんげが昼間、そんなことを言ってたんだ」
夕食時になり、空腹に耐えかねた茂林が結局、弁当を取っていた。
炬燵の上に宅配の、温かい弁当が三つ広げられていて、開けられていない二つが積み置かれていた。
「あぁ、ここにはな――」
茂林は自分のミックスフライ弁当(超盛)の、唐揚げの最後の一個を口に放り込んだ。
「軽いモンやけど『妖気隠し』の結界張ってあるんや」
「『妖気隠し』――?」
茂林は頷き、ゆっくり食べていた祐光の海苔弁当を狙う。
が、祐光はそれを防いで食べている。
「そや」
祐光のを諦めて、茂林は箸を置いた。
「簡単に言うたら、ここに置いてある古い物の気は、外から探っても判りにくいようになってるんや」
かなり薄くなってきた、何杯めかのお茶を茂林は淹れる。
「へえ、凄いな」
「もっとも、探知の力の強いヤツやとちょっとは感じるやろうし、直接来られたら隠すもナンもあったもんやないけどな」
「そっか――」
守弘も豚の生姜焼き弁当を食べ終えて、茂林のと一緒にビニール袋に入れる。
「何かええ作戦でも思いついたか?」
「いや――考えてるんだけどな」
冷めたお茶を飲み、守弘は頭をかいた。
「鞘がここにある以上、来るのを迎え撃ったらいいんじゃないか、って思う」
守弘はちら、と祐光を見た。
祐光も弁当(海苔弁)を片付けていた。
「何の話――です?」
少しは落ち着いたのか、祐光は真面目な面持ちで話に参加してきた。
「刀の付喪神をどうやって倒そうか、って話」
「えっ!?」
祐光が落ちかけた眼鏡を支えた。
「あの
どうして!?」
「人に害なしとるからな。
まだ小事やし、今の内に片が付いたらええやろ」
「あなた達は――妖怪退治でもしてるのですか?」
祐光が身を乗り出した。
「退治――してるか? 茂林」
「退治はないなぁ。
れんげちゃんは優しいからなぁ。よォてせいぜい、懲らしめる程度やな」
祐光はすとん、と戻る。
「――倉崎さん?」
ほっとした様子の祐光を守弘が訝しむ。
「彼女と、話したいなぁ……」
「説得できる自信でもあるのか?」
「それは――判らないけど、もっと話してみたい」
「そ――そっか」
守弘は半ば呆気にとられた。
「……こいつ、もとの持ち主の孫やったな。
さっき『謝りたい』て言うたな」
茂林が祐光をじっ、と見る。
「お前――刀のにまず謝れ。
誠心誠意、心からな」
祐光は「わかりました」と頷いた。
「で、お前の爺さんは今どうしてんねん?」
「亡くなりました」
「――そぉか。
なら、最悪お前が斬られたら収まるかもな」
茂林は意地悪くにっ、と笑う。
「なっ!!??」
祐光が息を呑んだ。
「冗談や」
からりと茂林が笑い声を立てた。
――その頃、『東雲町』のバス停に一台のバスが停車した。
乗っていた数人が降りる最後尾に、胸の開いた和服の銀髪の美女――揚羽がいた。
前の人の真似で揚羽は料金箱に翠穂からもらった百円玉をすべて入れた。
バスを出ようとしたところで、運転手に呼び止められる。
「お客さん――お釣り忘れてますよ」
「ン?」
揚羽が運転手の示すのを見る。
下のトレイに十円玉が数枚出ていた。
「お釣り、忘れてますよ」
運転手がもう一度示し、揚羽はその小銭を取った。
「ありがとうございます」
そう運転手に送り出され、揚羽はバスを降りた。
ドアが閉まってバスは走り去る。
揚羽は手に残った数十円をしばらく眺め、それを左手に掴んだまま歩きはじめた。
「――っ!!」
れんげは強烈な気配を感じて目を開けた。
ばっ、と布団から身を起こすともたれかかって眠ってしまっていたメルが床に落ちてしまう。
「……ぁぅ」
メルがくもぐった悲鳴を呟いて、目を覚ました。
「――メル?
いてくれたのね……ありがとう。
痛かったでしょう? ごめんなさい」
れんげは寝惚け眼のメルの頭を撫でる。
「あ――お姉ちゃん。
大丈夫?」
「ええ。寝ていられないの。
揚羽――
れんげはまだ残っていた背の痛みに眉をひそめながら、布団を抜け出した。
制服のまま、髪も編んだままだった。
「メルはここにいなさい」
そう言って部屋を出ようとして、何か思いついたか机の引出しを開けて、入っていた桐の小箱を出して中身を皺のよってしまったスカートのポケットに突っ込んだ。
「お姉ちゃん?」
「もう大丈夫。
心配かけてごめんね」
軽く、笑って言ってれんげは部屋から一気に階下へ駆け下りた。
「れんげっ!?」「れんげちゃん!」「!?」
居間に飛び込んだれんげに三人とも驚いた様子だが、れんげは冷静に隅に置いたままだった鞄から独鈷杵を取った。
「れんげちゃん――気付いたんやな?
何か来よった、て」
茂林の言葉に頷く。
「ええ。翠穂さんに方便のつもりで言ったことが正解だったなんて――」
「? どういうことだ?」
守弘が炬燵から出てれんげに寄る。
「姉、です。
あの刀は、――私の」
「姉!?」
守弘が何か言いかけた時だった。
「来たっ!!!」
れんげが居間から飛び出した。
守弘が追う。
れんげは靴下のまま店内に降り、閉めていた出入口のガラス戸に向かう。
――が。
手をかける直前でれんげはガラス戸から飛び退いた。
戸の片方に、斜めに線が疾る。
上半分が内側にずれて、鈍い音を立てて落ちた。
ガラスは案外分厚く、割れない。
下半分もゆっくりと内側に倒れる。
店の外に――揚羽が立っていた。
□■□■□■
「――やはり、お前ェが持っとったか。
ウチの鞘、返してもらうッ」
その気配を感知したのだろう、揚羽がにっと笑った。
「揚羽――姉さま」
「何か思い出したか? れんげ」
揚羽は無造作に、倒れたガラス戸を踏み越えて<九十九堂>に入った。
ゆさり、と胸が揺れる。それに合わせて谷間にいる剣巻龍が生き物のように身をよじる。
「いえ、それほどには」
れんげは独鈷杵を顔の前に挙げた。
「揚羽姉さまと私が、どうやら同じ景雲さまの作のようで、揚羽姉さまの方が私より二年ほど先に作られたのではないか、ということが」
「
揚羽がずいっ、とれんげに顔を寄せる。
桐のような香りが漂う。
「地の素材、鍛えの癖、焼き入れの加減、どれをとっても同じじゃろうがッ」
揚羽の髪の、左半分が揚がる。
居間から茂林と祐光、居間と入り口の中間くらいから守弘が手を出しあぐね、れんげと揚羽の様子を窺っている。
しゅっ、と揚羽の髪が動いた。
れんげの首――直前で止まる。固まった髪の先端が鋭利にれんげの首を狙っている。
「
「それが今の――私の役目だからです」
れんげは独鈷杵を握った右手でその髪を払った。
「人の世の災いとなるものを
払われた揚羽の髪が一個の生き物のようにふわりと空中を泳いで揚羽の傍に戻る。
「下らんッ」
髪の右半分がれんげに斬りかかる。
れんげが独鈷杵でそれを弾く。
続いて左――また右。
れんげはかわしきれず、左肩に揚羽の髪を受けてしまう。
れんげの肩から血が薄くしぶく。
「れんげっ!」
守弘が近寄ろうとして、揚羽の髪に牽制される。
「昨日より弱くなっとるんじゃねぇか」
揚羽が笑う。
「だいたい、どうしてお前ェがそねぇな役目を負ってるんじゃ。
ウチと連れのぉて、人間どもに捨てられた恨みを晴らそうじゃねぇか」
今度は髪が一つの塊となってれんげの右に襲いかかる。
れんげは飛び退いて間合いをとった。そこは守弘のすぐ傍で、れんげは後ろの守弘に微笑みかける。
「大丈夫――ですから」
揚羽がちらりと奥の、茂林と祐光を見る。
茂林が居間から下りようとするが、それもれんげは制した。れんげがちらりと祐光の様子を見ると、祐光はぺたんと座り込んでいて、だが視線は揚羽から離れないでいる。
れんげは揚羽を見上げて言う。
「私は人に、恨みはありません。
――もし、姉さまが人に害を為すのであれば、止めねばなりませんっ」
れんげは地面を蹴った。揚羽の懐に飛び込み独鈷杵で突く。
――が。
昨日とは様子が異なった。
「つっ!?」
「なんじゃ――弱いな」
からりと、揚羽が笑い声を立てる。突きは帯に止められ、半歩も下がらず、わずかに胸を揺らすのみだった。
れんげは揚羽から再度距離を空けた。昨日との違いを推し量り、はっ、と自分の髪に手をやる。少し短くなったお下げ髪に触れ、揚羽を見上げる。
「姉さま――柄、どうされました?」
「? ここじゃ」
と、揚羽は自身を示す。
「あとはれんげ、お前ェの持っとる鞘だけじゃ。
早ぉ返せッ」
「――できませんっ」
揚羽が数歩店内を奥に進む。
髪は左右に分かれて揚羽の前で、ちょうど蛇が鎌首を擡げるようにしゅるりと先端を上げてれんげに狙いを定めている。
れんげの左腕がやや下がっていた。
れんげは痛みを堪えて言う。
「姉さま――
姉さまは、捨てられたのではありません」
「あン!?」
揚羽が踏み込む。
「持ち主も、修理をした者も、決して揚羽姉さまを見捨ててはいません。
ですから――人を恨むことはないのです」
「……何をッ」
揚羽はさらに一歩、れんげとの間合いを詰める。
れんげは右手も下ろし、持っていた独鈷杵を放した。
「れんげっ!!」
驚いて呼ぶ守弘に振り向いてもう一度微笑み、れんげは続ける。
「揚羽姉さま――不要な恨みはお捨てください」
もう一歩揚羽が進む。
左側の先端が揚羽の顔の高さまで上がり、まっすぐれんげに向かって降りる。
「っ!」
れんげの右頬から弾けるように血が舞う。
「下らんことを言うなッ。
れんげッ! 覚悟しぃッ!!」
揚羽の髪の右側がすうっ、と上がる。
「姉さま――っ!」
れんげが踏み込んだ。
揚羽の髪がまたもれんげの左肩を襲い、深く斬り削る。
れんげは、揚羽に体を預ける格好で抱きつき、ポケットから出したものを右手に、揚羽の背に腕を回した。
聞き慣れない響きの言葉を呟く。
「――オン/ボウチ/シッタ/ボダハダヤミ。
清らかな仏心の蓮華を胸中に。
――発心ください、揚羽姉さま、も……」
れんげの左腕がだらりと下がる。
「……く」
揚羽の髪が戻る。次の攻撃に移る気配は薄い。
揚羽の瞳に、敵意ではない感情が宿る。
れんげが唱えたのは『
それを、あと二度繰り返す。
揚羽の耳にもそれは届き、揚羽の中にもその言葉は渡る。
「れんげ――」
揚羽が何か言いかけた時、れんげの腰が落ちた。
「ッ!!」
咄嗟に揚羽は、左手でれんげを引っ張り上げていた。
まだ握っていた小銭が落ちて乾いた音を立てる。
「――揚羽姉さまが……人を恨みに思うことはありません……。
誤解なの……です。
どうか……わかって――」
荒い息でれんげが言う。
守弘が駆け寄ってれんげを後ろから支えた。
揚羽の髪がするりと、重力に従って流れ下りる。
れんげが右手に握っていたものを揚羽は見た。
――百八の珠を持つ『本連』と云われる念珠(数珠)だった。
□■□■□■
「結局――俺たちがどうしようとか考えてたことって無駄だったな」
「そんなことはありませんよ」
れんげが微笑む。
揚羽は守弘にれんげを渡し、守弘がれんげを居間に運んだ。
れんげは傷を受けながらも自力で一旦自室に戻った。
それから半時間ほどあと。
――居間に、少し回復したれんげと守弘、茂林、「もう大丈夫」と連れてきたメル、それに祐光と、憮然と座る揚羽がいた。
さすがに少々手狭になる。
れんげは制服を脱ぎ、応急処置をした上にTシャツと長めのスカート、その上に守弘のブレザーを借りて、肩にかけていた。
頬には貼ったばかりの大きな絆創膏。
揚羽と祐光が向かい合い、炬燵を囲んで片面に茂林、その反対側にれんげと守弘とメルが座る。
集まって茂林に促され、祐光が口を開く。
正面の、仏頂面の揚羽をまっすぐに見る。
「えっと――あなたがあの刀だ、ってのがまだ半信半疑なんですけど……」
「間違いありませんよ、倉崎さん」
れんげが言い、祐光は頷いて眼鏡を直す。
正座で座っていたのをさらに姿勢を正して、
「昔、小さかった頃に遊んで振り回して、傷つけてしまったのは僕です。
――本当にごめんなさい」
祐光は頭を炬燵にぶつける勢いで下げる。
「……ほお」
揚羽が祐光を睨む。
「なるほど、何か引っかかったのはそのせいか。
そうか――お前ェが、ッ!」
揚羽の髪がうねり、顔を上げた祐光の目の前で止まった。
祐光の顔が若干引きつり、数センチ下がる。
「ガキが下手にブン回すからそねぇなことになるんじゃッ。
――欄間斬らされたのなんて百年ぶりくらいじゃったわ」
「刀持ってる自分が格好良く思えたんです――それで調子に乗って。
すみませんでしたっ」
祐光はまた頭を下げようとして揚羽の髪に触れ、びくっと体ごと後ずさる。
「ふン――せぇは解った。
じゃあなんで、二十年も放ったらかしなんじゃ」
「修理に出したあと――あ、刀は保存や修理の時は柄とか鞘とか外して、
相続した父が骨董とかそういうのに興味がなく、その家ごと引き払ってしまったので、修理に預かった刀工も返すに返せず、困っていたそうです。倉に入れていたのは、倉という保存環境が良いから、です」
早口気味に祐光が言う。
「お前ェの父親、斬ってやる」
揚羽の髪の先端が
れんげがそれを制止する。
「揚羽姉さまっ」
「――
揚羽の髪が戻った。
「僕は何とか、柄だけを持ち出せました。
結果的にこんなバラバラにしてしまったのは僕です――ね。
したくて、放りっぱなしにしてたんじゃないんです」
祐光はお茶――れんげが葉も替え、お湯も補充して新しく淹れ直したものを人数分出していた――を一口すすり、続ける。
「祖父も亡くなるまで後悔していたことは日記でも明らかです。
こんなに時間がかかったのは、僕に集める力がなかったからです」
祐光はもう一度頭を下げた。
「本当に、ごめんなさいっ」
揚羽はお茶を飲み干してから、表情を少しだけ和らげた。
「ふン――許したワケじゃねぇが、もうええ。解った」
それで、と揚羽はれんげを見る。
「れんげはなんでこねぇな役目を負っとるんじゃ」
「私は――瑞さま、という護法童子に従っています」
れんげは簡単に自分のことを説明した。
「――それで、鬼に退治されてしまうよりも自分が改心を導き、この世で暮らせるように鎮めることをしているのです」
「れんげ――お前ェ」
揚羽は隣にいたれんげを覗き込む。
「その鬼に真名、奪われとるな」
れんげは微笑んで頷いた。
「けッ。情けん。
ウチの妹ともあろう者が、そねぇな――」
揚羽は座りなおして、れんげの淹れたお茶を一気に空けた。
「鬼くらい斬ってしまえ」
「そんな無茶な――」
れんげはつい、苦笑をこぼす。
「それに私は、けっこう自由にやらせてもらってますので」
「れんげ――真名、って何?」
守弘がれんげの肩をつつき、小声で訊く。
「モノの、真の名前です。詳しくはまた――」
「そんなん、自分で勉強せぇ」
耳敏く聞こえたらしい茂林が言う。
「――揚羽姉さま」
れんげが、揚羽にお茶のお代わりを出す。
「姉さまはこれから、どうされます?」
「どういうことじゃ?」
「もう、元の刀には戻れませんから。
まだ、人に害なすのであれば――」
「はン」
揚羽は鼻で笑った。
「れんげがウチを止められるんかッ」
「止めます」
れんげは真剣な眼差しで揚羽を見る。
「たとえこの身がどうなっても」
数秒、れんげと揚羽が見合って沈黙が訪れる。
「――わかった」
揚羽が先に口を開いた。
「
こいつがこねぇなだったのと、れんげ――お前ェ」
髪で祐光を指す。
「さっきの言葉――アレは何じゃ」
れんげは微笑みを浮かべる。
「あれ以来変な気分じゃ。れんげ、
「姉さまにも、菩提を求めようという心があったのですね。
私はその力添えをしただけです」
れんげは膝元に置いていた、鞘を取った。
「お返しします、姉さま」
「ええんか?」
れんげは頷いた。
揚羽は鞘を奪うように取り、その胸にかき抱いた。
揚羽が目を閉じる。
「んっ!」
茂林が『気』の流れに驚いて飲みかけていたお茶で
炬燵がカタカタと小刻みに揺れる。戸がビリビリと震え、売り物の道具たちにも波及する。
騒ぎは不意に消え、
「ぅわぁ――綺麗」
メルが目を丸くした。
その場にいた全員が目を奪われた。
揚羽の淡白かった着物にすうっ、と色が入ってゆく。
衿先が深い朱色に染まったかと思いと、そこから左右の袖口、前身頃から裾の先までその紅は浸み渡ってゆき、開いた胸元はそのままに、鮮やかで流麗な
鞘に入っていたものと同じ蝶の紋が三つ、白抜きで浮き出る。
「――ふむ」
全身を仔細に眺め回し、揚羽は満足げに頷いて立ち上がった。
「けぇで揃ったからな。
――妹に免じて、悪事はせん。
どけぇ行こうと
「ええ。
ここで暮らしてもらってもいいのですけど――」
守弘と茂林が驚きの表情でれんげを見る。メルはというと興味深げに揚羽を見上げていた。
揚羽はすっかり険の取れた苦笑をこぼす。
「ここは、ちぃと窮屈じゃ。
れんげといるんは悪くねぇが――たまに会うくらいが丁度ええ」
「そう、ですか……」
れんげも立ち上がり、揚羽にふわりと抱きついた。
「この広い世で、悠久の時の中で、縁の深い方と巡り会えたことに感謝します。
――揚羽姉さま、ありがとう」
ガタン、と炬燵を蹴る音がしてそれを見ていた皆が一斉に振り返る。
祐光が立っていた。
「――倉崎、さん?」
れんげが揚羽から離れる。
「あの――もしよかったら」
祐光はおずおずと言い始め、一歩揚羽に近付いてからはっきりと続けた。
「僕の所に来ませんか?
――いや、ここからどこかへ行くつもりで、どこにも行く当てがないのなら、来て下さい」
祐光は眼鏡を直し、右手を伸ばした。
揚羽の髪が半分揚がった。
「――何のつもりじゃ」
「僕に償いをさせて下さい。
ここからは少し離れますけど、僕と一緒に暮らしませんか」
「倉崎さん、本気だ――」
守弘が呟く。れんげが守弘の隣に戻って「というと?」と訊く。
「さっき言ってたんだけど、倉崎さん、れんげの姉さんに――惚れたらしい」
メルが揚羽と祐光を見比べる。
「へぇ、素敵~」
「どうでしょう。
――揚羽さん、僕の所に来て下さい」
揚羽はどこか呆気にとられた表情で、祐光を見ている。
祐光の頬がほんのりと赤く、上気していた。
揚羽の髪がまっすぐ祐光に向かって伸びた。刃の先のように祐光の眉間に狙いを定めて止まる。
今度は、祐光は退かなかった。
数瞬後――揚羽の髪が跳ねて戻る。
「!――あぅっ」
祐光の眼鏡が真中で斬られて、落ちた。
それを慌てて拾って、祐光は揚羽を上目遣いで伺う。
揚羽はにっ、と笑っていた。
「ええじゃろ。
ウチはまだこらえきるつもりもなかったことじゃしな。
けぇからお前ェの『償い』に付き合ぉてやろうじゃねぇか」
揚羽はつかつかと祐光に近付き、祐光の顎をぐいっと持ち上げた。
「お前ェ――名は」
「倉崎――祐光です」
頬を掴まれ、言いにくそうに、それでもどこか嬉しそうに祐光は言った。
「ふン――祐光か」
揚羽が手を放す。
「祐光、裏切るようなことがあったら――容赦なく斬るでッ」
脅し気味に揚羽は言うが、それでも祐光は笑顔で頷いた。
「まぁ、めでたしめでたし、やな」
茂林が落ち着いた調子でお茶をすすっていた。
「揚羽姉さま――お元気で」
祐光の運転する車の助手席に座った揚羽に顔を寄せて、れんげは言った。
瞬間接着剤で応急修理された眼鏡をかけた祐光が笑っている。
「倉崎さん、あんた本当に変わってるよ」
運転席側の窓には守弘がいて、祐光に笑いかけていた。片手は、笑顔のメルとつないでいる。
「人のこと言えない、とかお爺さんが言ってましたけど?」
祐光も笑う。
守弘ははっきり答えずにやりと笑って、祐光と握手を交わした。
茂林は何かぶつぶつ言いながら、別れにはさほど関心がないように、斬られたガラス戸を片付けていた。
シートベルトに慣れておらず窮屈そうにしている揚羽の豊かな胸は、しかしそのせいでいっそう強調されている。
「揚羽姉さま――」
れんげは別れを惜しむように、言葉を続ける。
「いつでも、本当にいつでも遊びにいらして下さいね。
いつ来ていただいても、歓迎しますから……」
「なんじゃ」
揚羽が笑う。
「れんげはそねぇな可愛えところがあったのか」
「――こんな縁、初めてですから」
れんげは顔を少し赤らめていた。
「そこの男はどうなんじゃ」
「守弘さん――?」
呼ばれたのかと、守弘が車越しにれんげと揚羽を見る。
「お前ェの知り合いが『彼氏』とか言うてたのはその男なんじゃろ?
意味はよく解らんが、頼ってみてもええんじゃねぇか」
「それは……」
あまり考えたことがなかった、という風に目を大きくするれんげに、揚羽は更に笑った。
れんげの頬の絆創膏を撫でて言う。
「まぁええ、れんげ。
困ったことがあったらウチも手伝うてやる。
呼んでええ」
「――ああっ!」
れんげの顔が驚きから、笑顔になった。
「はいっ」
揚羽は「せぇじゃ、れんげも達者でな」とシートに背を預けた。
祐光がもう一度れんげと守弘、それにメルと、戸を片付け終えて近寄っていた茂林に言う。
「えっと、どう言ったらいいのか……。
お世話になりました、みなさん。
それでは、また――――」
「まぁ、頑張ってな」
「じゃあね、揚羽お姉ちゃん、お兄ちゃん」
「斬られへんようにな」
「倉崎さん、揚羽姉さま――いずれ、また……」
四人それぞれが言い、祐光は短くクラクションを鳴らす。
車がゆっくりと、動き始めた。
「あぁ、終わったな。
――そや、もう冷めとるけど嬢ちゃんの分の弁当、あるで。
れんげちゃんのもな」
茂林がそう、れんげを呼ぶ。
「ホント? 茂林じいちゃん。
あたしおナカすいてたんだぁ」
メルが嬉しそうに言って、茂林と<九十九堂>に入っていった。
れんげと、いつの間にかその傍に寄っていた守弘はテールライトの赤い光が見えなくなるまで、車を見送っていた。
れんげはそっと、守弘のシャツの裾を握っていた。
守弘がくしゃみをしてしまい、れんげは驚いて手を離して、気付く。
「あっ――守弘さん、ごめんなさいっ。
寒かったですよね……」
上着はれんげが羽織ったままだった。
さすがに寒さが身に凍みる季節だ。
守弘は「大丈夫」と笑顔を見せる。
「――入りましょう。お茶も淹れなおします」
れんげはすまなさそうに言って、半分開いたままの<九十九堂>に先に向かった。
守弘は頭を少し掻いて、苦笑しながられんげを追った。
□■□■□■
「いらっしゃいませ~」
元気よく翠穂は入ってきた他県ナンバーの、シルバーの小さな車に向かった。
そろそろバイト上がりの時間だった。「あの車で今日は終わりっ」と呟きながら誘導する。
「こちらへどうぞ~っ」
ゆっくり入ってきた車の運転席に近寄り、開いた窓から中の人に挨拶する。
「いらっしゃいませっ。
ハイオク――あ、れんげのお姉さんっ♪」
助手席に憮然とした表情で座っていた女性に気付き、翠穂は嬉しそうに言った。
運転席の、眼鏡が印象に残る優しそうな青年から全国共通のガソリンスタンドの会員カードを受け取り、手際よく給油をはじめる。
窓を拭きながら翠穂は、助手席の揚羽に笑いかける。
程なく給油は終わった。
「ありがとうございました~
お姉さん、また来て下さいねっ♪」
眼鏡の青年の運転する車を送り出す。出際に少しだけ揚羽が笑ったのを翠穂は見逃さなかった。
「喧嘩した彼氏が迎えに来たのかな。
――明日れんげに聞~こう、っと」
楽しそうに翠穂は呟きながら振り返った。
店長が翠穂を呼んでいた。
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