4章 鞘

 昼休みになってすぐ、守弘はれんげを呼んだ。

「れんげ――行こう」

「はいっ」

 れんげも頷き、二人の様子を窺っていた翠穂に言う。

「ちょっと出てきます。

 ――五限までには戻ってくるようにしますけど、お昼ご一緒できなくてすみません」

「そんなこといいって。

 二人でいったい、どうしたの?」

「昼の内にやっておきたいことがあるんだ」

「ふぅん、ラヴラヴだね♪

 行ってらっしゃ~い」

 翠穂は笑って手を振り、れんげは丸い袋だけを持って、ふたりとも通学鞄を置いたままで教室を出る。

 そろって急ぎ足で下足ホールに向かいながら守弘が言う。

「朝はサインした通り、何もなかった。

 夕方くらいに来る、って言ってたんなら、もうそろそろこっちに向かってるとは思うけど、まだ着いてないかもな」

「ええ。無事ならいいんですけど……」

 昨夜の電話で、れんげは守弘に刀が付喪神化していたこと、それと昨夕に遭遇し戦ったこと、祐光から電話があり、今日やってくることを話していた。

 それに加えて、頼みごとも。

 二人で校内の駐車場に走る。教員用の駐車場だが、その隅にこっそりと、守弘のバイクが停めてあった。

 学校までそれほど遠くないこともあって、守弘は普段歩いて登下校している。バイク通学に関しては学校は禁止してはいないが通学距離などの許可申請理由が要ることもあって、守弘は申請していなかった。

 守弘は朝に一度町の中を走って、胸の開いた和服の女――揚羽がいないか、万が一祐光が襲われていないかを見て回ってからそのままバイクで登校していた。

 守弘がバイクのエンジンをかけている間にれんげが丸い包みから出した自分のヘルメットを被る。守弘もすぐにヘルメットを着けて、れんげが座るのを確認してからバイクを発進させた。


 バイクは学校を出て駅前を回り、大きな公園へ向かった。

「――!? 待ってください」

 れんげが守弘の背を叩いて守弘がバイクを停める。

 公園の外周だった。芝生が敷かれているのと、ベンチが見える。半月ほど前に騒動のあった博物館とは少し離れている。

「――何か、感じるのですが……」

 ヘルメットを脱いでれんげは頭を振る。

 それに合わせてお下げ髪が左右に揺れる。昨日の傷が痛むのか、少し眉を寄せた。

「この間の――メルとかじゃなくて?」

「ええ。でも――漠然としか」

 茂林ならば、もう多少はっきりと知覚できたかも知れない。また、そこから移動した何者か――揚羽の気配をたどることも。

「昼休み、あと二十分くらい――あと一カ所行けるかどうかだな。

 どうする?」

 守弘はバイクのエンジンを切らずに言う。

「そうですね……。

 ――こちらに向かっているかも知れない倉崎さんと会える確率の高いのはどこでしょう」

「車だよな。

 だとしたら姫山越えの国道かな」

「展望台のある道ですね。行ってみましょう」

 れんげがヘルメットをかぶり直すのを確認してから、守弘は公園を後にした。


「――あっ!!!」

 展望台の駐車場。

 そこに、一台の車が停まっていた。

 シルバーのリッターカー。他県のナンバーに微かな見覚えをれんげは感じた。

 守弘のほうが、そちらの記憶が確かだった。

「倉崎さんのだな」

 同時にれんげは、公園で感じたものより強い、気配の残滓を覚える。

 すぐ近くに守弘がバイクを停め、エンジンも切らずに二人で急いで駆け寄った。

 運転席のドアにもたれて、細く背の高い青年がぐったりとしていた。眼鏡をしたまま、目を閉じている。

 車の後タイヤの傍に、未開封の飲み物が転がっていた。

「――倉崎さんっ!」

 れんげがヘルメットを脱ぐのももどかしく、くもぐった声で呼ぶ。

「おい、倉崎さんッ!!」

 守弘が祐光の肩を揺らすと、それでようやく祐光は動いた。

「ん……っ」

「大丈夫――ですか!? 何が?」

 祐光が目を開ける。守弘と、れんげの姿を確認して数度の瞬きののち、意識が覚醒したようだ。

「あ――あなた達は……」

 祐光は腰を起こして、二人を見回す。

 守弘がヘルメットを外した。

「ここで何があったんです?」

 れんげは警戒するように車の周囲を窺う。

 車には目立った外傷はない。祐光にも特に怪我も見えないが――れんげは感じた。

「――柄を、奪われましたね」

 祐光が驚いたようにれんげを見る。

「どうしてそれを?」

「勘、です。

 ――何があったのですか?」

 その時、守弘の携帯電話が鳴った。守弘はディスプレイを確認してボタンを押し、そのままれんげに渡す。

「?

 ――はい?」

『あれ、れんげ?』

 翠穂だった。

『五限始まっちゃうよ』

「あ……」

 れんげが守弘を見る。守弘も察したようで腕時計を確認した。

 もう一度れんげを見て、首を振る。

「――すみません、戻れそうにありません」

『おっけー。

 六限には間に合うようにね』

 電話の向こうからチャイムの音が聞こえた。翠穂が慌てた様子で通話を切る。

 ――さすがに、授業時間の携帯電話の使用は禁止されている。見つかると没収のペナルティ付きだ。

「そういや、茂林は?」

「海の方から探しに行ってますが――遭ったことがないので難しいかも知れません」

 守弘は頷き、祐光を助け起こした。

 祐光は車を支えにしながらも自力で立ち、眼鏡をかけ直してからジーンズの砂埃を払う。

「怪我は?」

「体が痛みますけど――大丈夫みたいです」

「倉崎さん。

 ――柄を奪ったのは、どんな人でした?」

「女の人、でしたね。

 着物だったように思います。

 あ、あと胸のところに龍みたいな模様があったのを覚えてます」

 れんげはやはり、と唇を噛む。

「その女性はどちらへ行きました!?」

「さあ……殴り倒されて、今まで気絶してましたし」

「そうですか……。

 彼女は何か言っていました?」

「そうですね――。『自分のものだ』とか。

 それで『返せッ』って襲われて……」

 祐光は眼鏡に触れ、もう一度二人を見る。

 二人を訝しんでいる雰囲気があった。

「――何か、知っているんですか?」

「! それは……」

「れんげ。

 やっぱり言うべきじゃないか」

 守弘が言う。

 れんげは神妙に頷く。

「倉崎さん――。

 こちらの事情をお話しします」

 れんげが持ったままの、守弘の携帯が震えて短い着信音を鳴らした。

 見ると、翠穂からのメールだった。『大丈夫?』とだけある。

 それを守弘に見せてから、れんげは祐光に言った。

「すみません。授業抜け出してきてますので、待っていていただいていいでしょうか……」

「それは構いませんが……」

「お店――<九十九堂>にいていただいていいので。

 あの中なら多少は安全ですし」

 祐光はまだ疑問符の溢れる表情のまま、車のキーを確認した。

「先導しよう」

 と、守弘がバイクの向きを変えた。ヘルメットをかぶって祐光を促す。

 れんげもヘルメットを用意しながら、祐光に深めに頭を下げた。

「信じられないかも知れないですけど――事実をお話しますので」

 れんげが守弘の後ろに座った。

 祐光は車に乗ってエンジンをかけ、短いクラクションで準備OKの合図を送った。

 二人の乗ったバイクが先に駐車場から出て、それに車が続いた。


□■□■□■


 揚羽は柄を取り戻したあと、山を下りていた。

 住宅地を通って、軽快な足取りで歩いていた。

 口元が笑っている。

 手には柄。

 祐光がれんげに見せたデジカメ画像そのままの、渋い緋色の柄巻がされたものだ。

 下端の鵐目金具と目貫に蝶が彫られている。

 住宅地の中の小さな公園で揚羽は足を止めた。

 人もなく、木が日陰を作り、静かな空間になっている。

「ぁっはっは!

 こねぇ簡単にいくたぁな」

 そこで揚羽は哄笑に近い笑い声を上げた。独り言を続ける。

「見つかりだすと一気に出るな。

 あとは鞘か。

 こうなると、れんげが持っとるはずじゃ」

 揚羽はぐっ、と柄を握った。

「向こうから来るたぁなんちゅう幸運。

 しかし――」

 手を開いて見直す。

「あいつの『気』――何か引っかかる。

 あの男は何者じゃ? ただの人間なのに……」

 揚羽は形の良い眉を歪ませた。


――本当に捨てられたの……ですか?――


「れんげ――ッ」

 不意に、昨日の言葉を思い出す。

 ぎりっと奥歯を噛んで、揚羽は柄を両手で胸元に抱き寄せて目を閉じた。

「下らんことを――見とれッ」

 周囲の『気』が柄に集まる。

 柄の像が揺らいだ。

 揚羽は一度味わった感覚だ。二度目は早かった。

 柄が消える。

 木々がざわめく。地面に落ちていた、色づいた葉が気の流れに乗って渦巻く。

 揚羽を中心に様々な色の葉が集まり――揚羽が一歩踏み込んで、交差させていた手を下段から後ろへ勢いよく開くと、ばっ、と放射状に広がって散った。

 静けさが戻る。

「ふ……ン」

 揚羽は数度地面を踏みしめ、足下を確かめた。

「やはりな。踏ん張りが効く」

 揚羽の顔に笑みが浮かぶ。

 少し乱れた着物の前を直すが、胸元の龍を誇示するように開き気味にする。

「れんげッ。

 大人しゅう鞘を差し出すならええわ。

 けど、立ち向かうなら――覚悟せぇッ」



 放課後。

 れんげと守弘が急いで<九十九堂>に帰ると、茂林も帰宅していた。

「れんげちゃん、このガキ何者や?」

 あまり話はしていなかったらしい。

 二人が帰るなり茂林が言った。

「刀の持ち主の、お孫さんです」

 居間には先程よりは回復した様子の祐光、メル、茂林がいた。

「メル、もう少し離れなさい」

 テレビに近いメルを注意しながられんげは鞄を居間の隅に置いて、台所へ向かう。昨日斬られたコートは着ていない。急繕いで制服は直したものの、コートはまだ裂けたままだった。

 守弘も荷物を置いて座り、メルがそこに寄っていって守弘の膝の上に座った。

「ふぅん――なるほどなぁ」

 茂林が眼鏡の青年をジロジロとねめまわす、、、、、

「茂林、失礼ですよ。

 ――メルっ」

 れんげは人数分の湯飲みと急須を盆に乗せて、片手でポットを持って台所から戻り、茂林とメルにそれぞれ注意する。

 茂林は座り直し、メルは守弘の膝から下りたもののすぐそばに寄り添ったままだ。

 れんげは祐光にまずお茶を淹れて渡す。

 お茶を配り終えてから、れんげは座らずに「もう少々お待ち下さい」と二階に向かった。

 すぐにれんげは、鞘を持って戻る。

「あぁ、これが――」

 炬燵に置かれた鞘を、祐光が身を乗り出して見る。

「触っても?」

「ええ、もちろんです」

 頷いてれんげは守弘の隣に座った。

 祐光は鞘を取り、仔細に観はじめた。

「――残りはおそらく、この鞘だけです。

 彼女――揚羽の言葉を信じるなら、彼女は全て取り戻したのちに彼女を捨てた人間への復讐を企てています」

「れんげちゃん!?」

「茂林――いいのです。彼にも話します」

 れんげは茂林を制した。

「あの女性のこと、知っているんですか」

 顔を上げて眼鏡を両手で上げて、祐光が言った。

 れんげはすまなさそうに頷く。

「昨日はじめて遭いました。

 倉崎さん――笑わずに聞いて下さい。これは事実です」

「……はい?」

 祐光は鞘を置き、姿勢と眼鏡を直した。

「あの女性――あの鐔と倉崎さんの持ってらっしゃった柄を奪ったのは、人間ではありません」

「――は?」

「彼女は、刀――倶利伽藍揚羽の本体が化けたものです。

 付喪神、という存在を倉崎さんはご存じありませんか」

 れんげは真剣に言っていた。

 そのまっすぐな視線に、祐光も不審がった表情を少し改める。

「いや――知らない、ですね……」

「長い年月を過ぎた道具に魂が宿り、それが変化したもの――それを付喪神、と云います」

 無言で祐光は湯飲みを取り、程よく冷めてきたお茶をすする。

「――じゃあ、柄とかは……」

「彼女が自分のもとに取り返したのでしょう」

 祐光は考え込むように湯飲みに目を落とした。

 しばらく、テレビの音だけが居間に響く。

「妖怪、ってことですか?

 それを信じろって?」

 祐光は信じきれないのか、まだ面持ちは晴れない。

「何か人ではありえないようなことは、ありませんでしたか?

 たとえば斬られたり――」

「それは……」

 心当たりでもあるのか、祐光は眼鏡に手をやって考え込む。

「どうすれば、元の刀に戻るのです?」

 質問で返す。

「戻りません」

 れんげはきっぱりと言った。

「元の姿を捨てています。縁のある能力を有することはあっても、元来の道具に戻ることは叶いません」

「何故――彼女はそんな、妖怪に?」

「捨てられた、と思っています。それを恨みに思って姿を変じたのでしょう」

「それは……」

「お前の祖父じいさんのせい、ということや」

「茂林――言い過ぎです」

 れんげは茂林を叱り、祐光を見た。

「倉崎さん。教えて下さい。

 先日あなたは『小さい時に破損させてしまった』とおっしゃいました。

 故意に傷つけたとか、あなたのお祖父さまがそれで刀をバラバラにして捨てたとか、そういうことはないのですね?」

「それはないですね」

 祐光は即答した。

「やってしまったのは単に僕が遊んで振り回しただけですし、刀身の修理は分解して白鞘で出すのが普通です。

 この前やっと見つけられた祖父の日記でも、祖父は刀の心配をしていました。

 それが捨てたことになるんですか?」

「いえ。安心しました」

 れんげはそこで、微笑んだ。

「もう一つ訊きます。

 先程も言った通り、もうあの刀は刀の形として戻ることはありません。

 それでも倉崎さんはこの鞘を欲しますか?」

「――それは……」

 またそう言い、祐光は眼鏡を触る。

「わかりません。

 けど――こうなってしまった責任の一端は僕、なのかも知れません。

 それなら謝罪をすべきだとは思います」

 れんげがわずかに微笑んで頷く。

「それなら――」

 言いかけた瞬間、れんげはふわっ、と背から倒れた。

「れんげちゃん!?」「お姉ちゃん!?」「れんげっ!!」

 慌てて守弘がれんげの肩を支えた。

「わっ、熱っ――れんげ、どうしたッ!?」

「すみません――たぶん、昨日の傷が……」

 守弘が触れているれんげの背が、高温になっていた。

「ちょっと休んどいで、れんげちゃん。

 守弘、運んだって」

 れんげの息が少し乱れていた。

 茂林の言に守弘が頷く。

「わかった。

 ――行こう」

 守弘が炬燵から出て腰を浮かせ、支えていたれんげの肩と膝を支えて抱きかかえて立ち上がった。

「――守弘さん……。

 早ければ今日中に揚羽……はここに来るかも知れません。

 休んでいられません……」

「こんな状態じゃ起きてても動けない。

 少し忘れて寝た方がいい。

 それか――救急車でも呼ぶか?」

 抱き上げられたれんげは守弘を見上げて、目を伏せた。

「いえ――そこまでは。

 ……すみません」

「いいって。

 ――倉崎さんの言い様に安心して、緊張が解けたんだろ」

 守弘はれんげにだけ聞こえるくらい小声で言って、二階へ向かった。


 居間の柱時計が五時を告げた。


□■□■□■


 れんげの意識は朦朧としていた。

(――確かに、守弘さんの指摘は正しいかも。

 安心したのは間違いないし――――?)

 背の傷が痛むはずが、それがない。

 なのに視界がはっきりしない。

(これは――)

 やがて周囲が明らかになる。

(えっ!?)

 れんげは土間のような工房を天井付近から見下ろしていた。

(これはまた――夢?

 今度は何?)

 キン、キン、と小気味よい音がテンポ良く鳴っている。

 燃えさかる炉の火と、そこから出された高熱の塊。それを二人の男がタイミング良く鎚で打ち叩いている。

(刀――)

 それは、玉鋼を打って伸ばし、折り重ねて鍛えてゆく、伝統の日本刀づくりの光景だった。

 鋼を持った刀工も、鎚を打つ弟子の男たちも、黙々と続けている。

 甲高い金属音のみが響いている。


 場面は変わって、今度はその男たち三人が喋っていた。

「――せぇにしても、景雲けいうん師ほどの人が、鉈だなんて」

(あっ!)

 言われた、景雲らしい男が笑った。

 細身だが筋肉質の、よく灼けた上半身を晒した男だ。面倒見の良さそうな雰囲気が表情からにじみ出ている。

「俺なりの恩義の返し方だ。

 それに――刀に貴賤はない。どんなものも俺が打ったものは俺の作だ」

「放浪なんてするからですよ」

 もう一人が言う。

 喋る調子が、揚羽の訛りと似ている。

「挙げ句に行き倒れだなんて――その寺に助けられなかったら、どうなっとったことやら……」

「それが縁、っちゅうモンじゃ」

「一昨年に藩主に献上したあの揚羽紋、、、のも評判ですよ。

 そのほまれをもっと喧伝すりゃあ、本家の方の評価も――」

「尚吾」

「――すみません」

「でもお師さん、鞘や鐔の造りもさることながら、刀身のあの剣巻龍、、、は絶妙だともっぱらの噂になって、いっとき凄かったんですよ」

 剣巻龍、とは倶利伽藍のことを指す。

(――その刀……刀身の倶利伽藍の彫り物と蝶の紋、というと――)

 景雲が言い放った。

「そういう煩わしさが俺は好かん」

 れんげは、これは願望を含む類の夢ではないのではないか、と思い当たった。

(もしかして、私自身の……)


 ふたたび、場面は工房に変わる。

 工程は進み、塊だった鋼は今や完成形の想像できる姿に伸び整えられている。

 綺麗に成形されたそれを、景雲は一人じっくりと加熱している。

「さぁ、て――」

 景雲の瞳は生き生きと楽しそうに輝いていた。

「お前ェは俺の、命の恩人に対する感謝の心じゃ。

 俺に代わってあの人の役に立ってやってほしい。

 刀を打つしか能のねェ俺のできる、けぇが恩返しじゃけん――」

(この人は――刀を打っている時がしあわせなのかな)

 景雲は火の中から出した刀身を真剣に、嬉しそうに見つめ――ひと息に傍の水槽に投じた。

 じゅぁっ、と水が一気に灼ける。

 熱されていた刀身が急速に冷え、わずかに反るのをれんげは自身に感じた。

(あぁ――これは……やはり、っ)

 ぎゅうっ、と身が引き締められるような感覚がれんげを包む。

 天井からそれを見ていたはずのれんげの意識は、いつしか鉈と一体になっていた。

 景雲が水中から刀身を引き上げる。

 それを鎚で整えてゆく。

 整え終えると景雲は、それを荒く研ぐ。

「よし――よしっ」

 掛け声のようにリズミカルに研ぐ。

「ええぞ――。お前は佳い出来じゃ。よく斬れ、よく保ち、使い手に応えることのできる――

 いらんことにならんよう、銘も飾りもせんが、お前ェは紛れもなく俺の作じゃ。二年前の揚羽も出色の出来を確信したが、お前ェはそれに勝るとも劣らない。

 仏心の蓮華を持つあの人の助けになるよう、よろしゅう頼む――」


 そこでれんげの意識は途切れた。



 ――守弘が居間に戻ると、入れ替わりにメルが出てきた。

「ん? 上行くのか?」

「うん。

 あんなお姉ちゃん、初めて見たから……」

 守弘は笑って、メルの頭をくしゅっと撫でた。

「メルは優しいな。

 じゃあ、何か様子が変わったら呼んでくれるか?」

「うんっ!」

 メルは嬉しそうに頷いて、二階へ駆け上がっていった。

「――どや」

 居間に入った守弘に茂林が声をかける。

「寝たようだけど――大丈夫か?

 病院、行こうか?」

「どうやろな……」

 曖昧に茂林が言う。人間の負う怪我と同じなのか計りかねている様子で、お茶をすする。

 守弘も座り、自分の湯飲みに残っていたお茶を一気に空けた。

「あなた方は――その」

 祐光が言う。

「その、付喪神というのを――信じてるのですか?」

「まだ信じられへんか?」

 茂林が笑う。

「無理もないかも知れへんけどな、事実や。

 おおかた、作り話やとでも思っとったやろうがな」

「ええ、まあ……」

「妖怪も幽霊も存在するで」

 茂林はそこでにっ、と笑う。

「化け狸もな」

「――俺もちょっと前まで信じてなかったけど」

 守弘が口を挟む。

「れんげと知り合って、そういう出来事と遭遇して――やっと解った。

 この世に確かに、こういう奴らがいてるって」

「はぁ……」

 祐光は無言で、手の中の湯飲みを弄ぶ。

「まぁ、関わることのないまま人生過ごすんがほとんどや。

 そんな気にせんでもええ」

「いえ――」

 祐光は顔を上げた。ずれた眼鏡を直す。

「こんな面白くて素敵なこと、今まで知らなかったなんて勿体ないな、と思って」

 祐光は晴れやかな顔をしていた。

「じぃちゃんの所で遊んでた時に何かに会ったような気もしてたんだ。

 なのに親父は『そんなのは幻覚だ』って取り合ってくれないし」

 祐光の顔から、険が消えていた。

 同時に硬かった口調も。

「それにあの刀があんな素敵な女性になっただなんて――」

 守弘と茂林は顔を見合わせた。

 どちらも、今まで揚羽に遭遇していないため、揚羽の詳しい容貌を知らない。

「そ――そんなに?」

「そりゃもう。手刀一発であっさり気絶してしまったけど、あのキリッとした目――いいなぁ」

 守弘と茂林は明るい目で語る祐光を呆気にとられたように見つける。

「どこに住んでるのかなぁ。

 また会いたい――あ、この鞘狙って来るのかな」

 弛み気味の表情で祐光は鞘を取って、茂林に言う。

「これ、彼女に返すんですか?」

「それは――その女が人に迷惑をかけへん、てなったらな」

 半ば呆れ気味に茂林が答える。

「それと――町中には住んでへんのとちゃうか?

 住むとしたら山の中とか森の中とか、人里離れた所やろうな」

「なるほど。

 今どこにいるのかな――」

「倉崎さん、あんた……惚れた?」

 守弘がおずおずと訊く。

「かも」

 短く嬉しそうに祐光が頷く。

「変わってるなぁ、倉崎さんって……」

「守弘も人んコト言われへんけどな」

 茂林がぼそっと言い、守弘に睨まれる。

 茂林は目線を逸らしてお茶のお代わりを淹れた。


□■□■□■


 揚羽は、駅前に来ていた。

 JR姫木は数年前まで無人駅だったが、周囲の開発に伴って駅員が配されるようになった。

 夕刻過ぎで、駅から出てくる人の数もそれなりにある。

 揚羽はロータリーにあるベンチに座って、人の流れをぼんやりと見ていた。

 と、その前に立つ人影がいた。

「こんにちはっ。

 えっと――れんげのお姉さん、ですよね?」

 セーラー服にスクールコートの上からでもわかる胸、レイヤー気味のボブショート――翠穂だった。

 揚羽は翠穂を見上げ、首を傾げた。

 翠穂から微かにれんげの『匂い』を揚羽は感じ取っていた。

「あ、えっと――あたし、れんげのクラスメイトで国安翠穂っていいます」

 ぺこりと翠穂は頭を下げた。

「あぁ――なるほど」

 揚羽の様子に、翠穂は人違いじゃないと確信したようで揚羽の隣に座る。

「どうしたんですか? こんなトコで。

 れんげ今日はなんだか急いで、三原クンと帰っちゃいまいしたよ」

「三原クン?」

「あぁ、れんげの彼氏ですよ」

 翠穂は揚羽の顔と胸を交互に見ていた。

「格好いいタトゥーですねっ。

 でも、あんまりれんげと似てないんですね」

「そうか? は間違いなく同じじゃ。

 ――そうじゃ、おェ、れんげの家を知らんか?」

「!?

 あぁ、なるほどぉ」

 翠穂は笑って頷いた。

「目印ないから、わからなくなっちゃいますよね。こんな田舎町だし」

 やはり翠穂は現実的で好意的な解釈をして立ち上がった。

「ここからだったら――そこの三番のバス乗り場から『東雲町』ってバス停降りて、ちょっと歩いたトコです。

 そこまで行ったら判ると思いますよ」

 揚羽もベンチを立って、翠穂の指さした乗り場を見る。

 揚羽の方が翠穂よりも背が高い。

 翠穂は揚羽を見上げて言った。

「バイトじゃなかったら一緒に行きたいんですけど、ごめんなさいっ。

 あたしこれからバイト行くんで……」

「そうか」

 揚羽は頷いてから、去ろうとした翠穂を呼び止めた。

「そのバス――料金かねはかかるのか?」

 翠穂は一瞬きょとんとして、それからまた笑った。

「いつもは定期か、無料巡回バスですか?

 ――あ、もしかしてお姉さん……」

 翠穂は揚羽をじっ、と上目使いで見る。

 揚羽の髪がすぅ、と揚がりかけ――

「飛び出してれんげのトコに来ちゃって、ケータイとかお財布とか持ってきてないんですね?

 わっかりましたっ♪」

 揚羽の髪が降りる。

 それに気付かず、翠穂は揚羽の態度をかなり深読みして、鞄からピンクの財布を取り出した。そこから百円玉を三枚、揚羽に渡す。

「これで足りますから。

 ホントご一緒できなくてごめんなさいっ。れんげによろしく言っといてくださいねっ」

 時間が相当ギリギリだったのか、翠穂は勢いよく頭を下げてから走り去った。

 それを見送ってから、揚羽は手の中に残された小銭を見つめる。


――人はそんなに悪い者ばかりではありません――


 れんげの言葉が蘇る。

「――ふン」

 鼻を鳴らして、揚羽は翠穂が示したバス乗り場に向かった。

 タイミング良く、バスがロータリーを回って入ってきた。

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