7. CONCLUSIONS AND FUTURE WORKS
子どもは半額だからね
夜が明け始めていた。今日も良い天気になりそうだ。
早朝の空港には風もなく、飛行機や飛行船達も目覚めの前の一番幸せな眠りを楽しんでいるように見えた。それでも何隻かの船はキャビン内に明かりを灯し、出発の準備をしている。この時間、まだ冷光灯なしでは外部点検作業もできない。
そんな薄暗い空港で、ターミナルから屋上の甲板に出たプリズマティカは、目指す船の姿をすぐに見つけることができた。というのも、船の前に置かれた大きな木箱の上に肘をついて、立ったまま書き物をしている青い服の若者の姿が、モダンな空港の風景の中で妙に目立ったからだ。三つのからっぽの離着床を横切って〝マビノギオン〟の白い船体の前にたどり着く。ハッチは開きっぱなしで、トルウが机代わりにしている箱以外にも、二つの木箱がハッチの側に置かれていた。プリズマティカがノック代わりに船体を二度叩くと、トルウがようやく気づいて振り向いた。
「おや、驚いた。おはよう」
トルウは少し目を細めて挨拶した。プリズマティカの背後で日が昇りはじめていた。
「いやあ、驚いた。見違えたよ」トルウは、もう一度言った。
プリズマティカは、かつての恋人に古着屋で買ってもらった若草色のスカートと、白いブラウス、スカートにあわせた色のボレロという出で立ちだった。トルウに見せたくて選んだわけではないが、彼らしい不器用な褒め言葉が嬉しくないわけではない。
「おはよう、トルウ。出発するの?」
「ああ。追い風だし、うまくいけば今日中にマリエンブルグまで帰り着ける。途中の充電をライプチヒにするか、ドレスデンにするか……」
両方とも聞いたことだけはある都市だった。「あたしはドレスデンがいいな」
「上から見る分にはね。壮麗だよ。でも最近はライプチヒの空港設備が充実していてね」
トルウはプリズマティカの『冗談』につきあう気はないようだった。そのかわり、少し真面目な表情で向き直る。「水道局に行ったら、もう辞めたっていうし。事象学組合に入るのかと思ったら、それも違うっていうし」
黙っているプリズマティカを見て、少し言いづらそうにトルウが訊く
「フォジフォス師には会ったの?」
「トルウは?」
「病院で挨拶はした。意外にふつうな感じだったよ。ただ、きみの話は出せなかったけど」
「そうなんだ」
プリズマティカもフォジフォスに会った。しかし話をすることはできなかった。
「あたしのこと、忘れているみたいだった」
「ああ」トルウは曖昧な感嘆詞を口にして、同情したような表情を見せた。
「なんかさあ、世の中変わっちゃったな、と思って。トルウがこの町に来て二週間しか経っていないのにね」
「なんだよ。僕が原因みたいな言い方するじゃないか」
「言い方もなにも、だってその通りじゃない」
別に悪い意味で言ってるわけじゃないんだからね、とは口に出さないで、すねたようなトルウの表情を眺めて楽しむことにする。
この都市に関して最も大きな変化といえば、トルウが見つけ出したロムステットの村の冷脈の吐出口だろう。さっそく最初のボーリングが行われ、フォジフォスらが計算で求めた冷脈の構造とそれに修正を加えたトルウのカンが正しかったことが確認された。ロムステットからアルジェンティナまでの送電をどうするかという問題はあるが、数年来の電力不足の解決に糸口が見えたということで、町は活気づいている。トルウは都市の救世主とまでまつりあげられそうな勢いだったが、残った一週間を、もはや誰も興味を示さなくなった空白地帯の地図作りに費やしたのか、それも一緒に食事をしてくれる『かわいこちゃん』を探していたのか、プリズマティカの知るところではない。
もっと大きなところ、しかし表には見えないところではどうだろう。世の中に行く末に警鐘を鳴らすため、パスカルを復活させようとした事象学組合の学寮長。パスカルを抹殺するために五十年間それを追い続けてきた異端審問官。そして、偽の手紙におびき出されてパスカルに会いたい一心でやってきた地理院の若きマイスタ。誰一人、その目的を果たすことができなかった。
だが、かつて欧州を破滅の危機から救った時間通信の技術がアルジェンティナに残っていることを、教皇庁も騎士修道会も帝国地理院も知るところとなった。アビニヨンで、マリエンブルグで、あの壮大な電気算盤の複製がすぐにでも作られるかもしれない。それが正しく使われ、誰もが知りたいと願う明日の世界のありようを果たして伝えてくれるのか、わからないところではあるけれど。
「フォジフォスは封印を破ることができるかしら」
つい、プリズマティカが呟くと、トルウは頭をふった。
「封印とか、そんな呪術めいた考えは今の時代に合わないよ」
それ、あんたが言い出したんだろ、とプリズマティカは発言者をにらみつける。
「天才の考えを真似るのは不可能だ。でも、天才のしたことを真似るのは意外に簡単なんだな。彼の弟子の学者達がフォジフォスの過去の論文やメモを辿れば、もっと合理的に同じ事ができるはず。それが科学的な
「そう思ってないでしょ」
「……なぜ?」
「フォジフォスが封印を破ってもパスカル・アルファは戻らない。パスカルの時間通信を再現することはできない。それが分かっているから、トルウ、あなたはこの都市をこんなにもあっさり去ろうとしている。あんな子供だましの偽手紙におびき出されてまで、パスカルに会いたいと言っていたあなたが」
「いやあ」トルウは頭を掻きながら苦笑いする。「まいったね」
プリズマティカは、今ならトルウは本当のことを言うのではないかと直感し、畳みかけた。
「あたしね、科学ってまだよくわかんない。でも魔法とか呪いとかと違うってのはなんとなくわかるんだ。そう考えるとね、パスカルが、っていうかフォジフォスなんだろうけど、電気算盤で未来を予想して、それで何十年も先に生まれるトルウの名前を当てたっていうのは、信じられないんだ」
トルウの表情から笑みが消えた。トルウは口を小さく開き、はぁっと、ゆっくり息を吐き出した。白い息がタバコの煙のように現れ、すぐに消えた。
「こんな水蒸気のうごきなんて、ささいな口の開き方やわずかな風で全然変わる。二度と同じ形なんかにならない。ねえ、プリズマティカ、ぼくが今吐き出した息の形まで、パスカルは予測できたんだろうか?」
「できないと思う」
「そうだ。そういうものだよ。ぼくらは誰かが決めたとおり寸分違わず動いたり考えたりするわけじゃない。そんなことは不可能だ。」
「時間通信、いえ、電気算盤を使った未来の予測は、インチキだっていうの?」
「きみがそう言ったんじゃないか。でも、僕は時間通信がインチキだとは思わない。インチキなのは、たぶん」
トルウは、まるで見透かせない自分自身の未来を見ようとしているような、寂しげな表情を見せた。
「この、世界の方だ」
「ごまかさないでよ」
もちろん、ごまかしているのはそう言ったプリズマティカの方だ。ありがたいことに、トルウの表情がゆるんだ。
「笑うだろうけど」トルウはプリズマティカから視線を逸らし、木箱の側面を蹴った。「僕は、パスカルと直接話したことがある」
「え?」
「夢の中だけどね」
「……ねえ、ちょっとまって」
「彼女は僕に質問して、僕は答えた。空白地帯のあの部屋にあったメモに残っていた通りだよ。僕は自分の名前を教えて……」
「パスカルも名前を教えてくれたのね」
「いいや。今度のことがあるまで、僕はあの夢の中の女の子がパスカルだとは思っていなかった。そうじゃなくて、僕が新しい名前をつけてあげたんだ。その……いつか会えたときにわかるようにって」
「え」
「夢の中でね」
「……でも、ちょっと、そんな! じゃあ、あたしは!」
「言ったろう。きみはなりたい者になればいいんだ。時間通信器が本当にあったかどうかなんて、それとは関係のないことだろう?」
そういうことじゃない。プリズマティカは必死に自分の考えを整理しようとした。そうすればそうするほど、頭の中は真っ白になる一方で、顔が火照ってくるのがわかった。トルウは、今度は白みかけた水平線に視線をやって目を細めた。
「五〇年前、パスカルか、フロリーヌか、フォジフォス師か、そのうちの誰かがこの世の中の自然の理を超越した誰かと言葉を交わし、未来を選びとった。僕は何かの加減で、混信に巻き込まれたんじゃないかと思う」
「それって……」
「聖職者達はそう思っているんだろうね。ニコロも言っていた。だからパスカルを異端の罪で滅ぼそうとした。だってそうだろう? 彼らに言わせれば、世界は審判の日に向かって滅亡への階段を転げ落ちてゆくべきなんだから、自然の理をねじ曲げてまで世界を救うなんてことが許されるわけがないもの。
でも、僕は違う、と思っている」
トルウはプリズマティカの方に向きなおる。
「ねえ、きみはどう思う? 等間隔に並んで地球を巡る人工の星。電力供給にお誂え向きな極低温の地脈。何千年もの間、地下で動き続ける自動人形(オートマトン)。科学者達や技術者達は、それをどう使うかは一所懸命考えるくせに、どうして、なぜあんなものがあるんだろうって、考えないんだろう。この惑星の成り立ちを研究する人達は、どうして冷脈が生まれた原理をわからないままにしておけるんだろう」
「うーん、どう、と言われても……」途方に暮れたプリズマティカだったが、お茶を濁したり、何を馬鹿なことを、と笑い飛ばす気にはなれなかった。自分なりに言葉を咀嚼し、考え、まんざらお追辞でもないことを言えたと思う。
「その原理って、どんなすごい科学者だって正気を保てなくなるようなものだったりするからじゃない?」
「ああ、僕も実はそう思うんだよ」トルウはうれしそうに頷いた。「ひょっとしたら、フォジフォス師は、いやパスカルはその深淵を覗いてしまったのかもしれないね」
プリズマティカの考えはまだそこまではとても及ばない。彼女は今、ようやく自分の腕を自分のために伸ばそうとしているところだ。その遙かな先に異形の世界が惛い口を開けて待っていたとしても、それに出会うのはずいぶん先のことになるだろう。
「荷物、運ぶの手伝おうか? まだ胸痛むんでしょ?」
話を強引に切り替えるように、プリズマティカがそう言うと、トルウはまた嬉しそうな顔を見せた。
「ああ、それはありがたい……いやいや、違うって。こいつを君に渡さなきゃと思って探してたんだよ」
そう言って、トルウはポケットから折りたたんだ紙片を出してプリズマティカに渡した。
プリズマティカは、紙片を広げて一瞥すると、そのままトルウに突き返した。
「いらないわ、お金なんて」
「誤解するなよ。それは正規の手続きによる協力者への謝金だ。ただ働きになっちゃうじゃないか」
「給料の残りはもらった。あなたに心配してもらう必要なんかない」
「これからどうするんだ」
「馬鹿にしないでよ。これまでだって一人でやってきたんだもの、これからだってやってけるわ」
「一人じゃないだろう」
「……」
プリズマティカは答えられなかった。
その通りだ。一人だったら駄目だった。二人分の夢があってこそこれまで生きてこられたのだ。心の底にはまだロジェのへの想いが残っているのが分かる。いつの日かどこかで再会することがあるとすれば、自分はとても冷静ではいられないだろう。でも、それまでずっと彼のことを考えて生き続けるつもりもない。それは、ロジェがまだ彼女の側にいてくれた時から考えていたことでもあるのだ。
「一人でもさ、これだけのお金があれば、どこにでも行けるし、当座の生活費にもなるだろう? ああ、もし、どこか学校に行きたいというなら、相談してくれれば……」
「どこでも?」
「……ああ、どこでも」
「
トルウは一瞬だけ沈黙し、すぐに表情をほころばせた。「もちろんだ。それが十分に考えた末の結論だというなら」
「じゃあ、はい」
プリズマティカはその小切手をトルウに差しだした。「マリエンブルグまで、大人一枚」
「え?」トルウは意表をつかれてその小切手とプリズマティカを交互に見やった。
「え、今? これから?」
「それから、学校に行くのもいいけど、できたら、あんたの弟子になりたい。マイスタなんでしょ? 弟子とれるんでしょう?」
「僕の弟子?」トルウはさらに素っ頓狂な声を上げた。「ありえないだろう。まだマイスタになったばかりで、人を教えるなんてそんな」
「そんなことないよ。トルウは教え方もうまいし、技術もすごいと思うよ」
「それに、ずっと一緒にいることになるんだよ。僕たち同年代で、その、男と女で……」
「何、楽しい想像してんのかしらないけど、観念化したんじゃなかったの?」
プリズマティカは皮肉っぽい表情を作ったつもりで言った。「あたしは自分の身は自分で守れますから。夜中にケダモノとか襲ってきても撃退できますからご心配なく」
「……まあ……それはよくわかってる」
「それに、約束したはず。あなたは、今、あたしからの借りを返すのよ」
トルウは、怪訝そうな顔になり、そして、ああ、それは違う、と顔をほころばせた。
「違う? どうして?」
「だって君は全然迷ってなんかいないじゃないか」
今度はプリズマティカが絶句し、そして大きく頷いた。
そう、迷うことなんかない。
いくつもの未来が見えるわけではないけど、今、一番輝いている道は、間違いなくこれだと信じることができる。
プリズマティカには時間通信機なんて必要ない。
「まあ、いいや。とりあえずマリエンブルグまでね」
そう言うトルウが少しだけ残念そうに見えたのは、何故だったのか、プリズマティカにはわからなかった。トルウは急に姿勢を正して言った。
「では装具を整えて来たまえ。出航は明日に延期する」
「持ってくものなんて無いもん」
「近所の人に挨拶くらいしてくればいいだろう」
「もう、済ませてきたもん、ほら」
と言って、服に不似合いなごつい背嚢から差しだしたのは袋一杯につまったドーナツである。
「餞別にって、おばさんがくれたの。船の中でお友達と一緒に食べなさいって」
「な……!」
トルウは舌打ちして、「じゃあ、君、最初っから……」
「いろいろ考えたんだよ。密航とか、乗っ取りとか。一番穏便な方法で済んでよかった」
「穏便とか言ったな。ふん、修行が始まったら、すぐに後悔するだろう」
「トルウ、あんた、そういうの全然似合わないから」
「よし、さっさとこの荷物を機内へ運ぶんだ!」
「だから、さっき運んであげようかって言ったじゃん!」
プリズマティカは堪えきれずに笑い出し、トルウも釣られたように笑った。ひとしきり笑ってから、トルウは、やはりまだ肋骨が痛むらしく、顔をしかめながら小さな箱を持つと、「一人増えたし、やっぱライプチヒかな」とつぶやきながら、キャビンの入り口に向かった。
プリズマティカはそれよりは少し大きな箱を抱え上げようとして、握っていた小切手に気づいた。
「そうだ、これ、やっぱり返しとくわ」
「なんだ、気にするな。半分は、お小遣いとして君にあげよう」
「何よ、もう親方のつもり?」プリズマティカは遠慮無くからかう。
「じゃあ、あとの半分は?」
「旅費のおつりさ。子どもは半額だからね」
やった、ありがとう、と言いかけて、やっとそれが侮辱であることに気づいた。文句を言おうとしたが、すでにトルウの姿は冷光灯の灯ったキャビンの中に消えていた。プリズマティカは舌打ちしながらも、箱を抱え上げ、微かに息づく光の中へ足を踏み入れる。
時間通信ノ実現可能性二ツイテ 谷樫陥穽 @aufdemmond
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