野生のことば
柊らし
Nora love words
ある真夜中、ぼくのパパは、飼い主の手で捨てられた。飼い主(高校生の女の子だったらしい)は自分の胸の奥からパパを取り出すと、路地裏の隅にそっと置いた。
ごめんね、と言った女の子の声はふるえていた。
ほんとうにごめんね。
涙の雫がぽたぽた地面に染みをつくった。駆け足で遠ざかる靴音をパパは一生忘れないという。彼女は何度もふり返ったが、戻ってきてはくれなかった。
(ぼくは捨てられたのか)
だれもいない闇の中、置き去りにされたパパ――すなわち「あいしてる」は、信じられない思いでひとりごちた。
「あいしてる」は女の子のため息の中から生まれた。彼女は毎晩「あいしてる」を抱きしめて、その日学校でどんな出来事があったか、どんなに胸がドキドキしたかをうっとりとした声でささやいた。
(あんなに可愛がってくれたのに)
こんな風に捨てられた「あいしてる」はパパだけではなかった。
環境省がおこなった調査によると、町中に不法投棄される「あいしてる」の数は年々増加の一途をたどっている。投棄の理由ナンバーワンは「恋が成就しなかったから捨てた」で、次いで「育ちすぎて重荷になった」が多い。未成年者の飼い主による投棄が増えているのも最近の傾向である。
人間の庇護をうしなった「あいしてる」の余命は短い。通常は数分から数十分で朝露のように跡形もなく消えてしまう。彼らのような存在は、飼い主なしで長い時間生きていけるようにはできていないのだ。
夜風に削られどんどん小さくなる体。
ぼくのパパも、
(ここで命運が尽きるのか――)
と覚悟した。
ところが、そのときパパの耳にかすかな鳴き声が届いた。とてもか細く、今にも途切れてしまいそうな声。けれどパパにははっきりとわかった。
同じ「あいしてる」の鳴き声だ。
消えかかっていた命の炎がゆらめき強く燃えあがった。
声のするほうに向けてパパは移動を開始した。
声は路地の向かい側にあるビルとビルの隙間から聞こえた。いや、聞こえていたというべきか。今はもう何の物音もしない。
ほんの数メートルの距離。
けれど、衰弱した「あいしてる」にとっては永遠にも思える道のりをパパは必死ではい進んだ。
じりじりと、1センチずつ。
最後の力をふりしぼって。
たどりついた先に横たわっていたもうひとりの「あいしてる」を、パパはしっかり抱きしめた。
この夜、路地の一角が、ほんの一瞬真昼のようにまぶしい光で包まれたことを知っている人間はだれもいない。
厚生労働省の調査によると、町を歩いていて突然わけもなく悲しくなる人の割合が、最近急激に増えている。原因は解明されていないが、それはたぶんぼくたちのせいだ。
「あいしてる」同士がお互いを愛する、という奇跡によってパパとママの消えかかっていた命は輝きを取り戻し、ふたりは人間から自立した新しい生活をはじめた。
そうして生まれた彼らの子どもは、言うなれば「あいしてる」の次世代だ。ぼくやぼくの兄弟(たくさんいる)には、生まれ持った役割がない。
たとえるなら、ぼくたちはまっしろな封筒に入ったラブレターだ。
手紙には、はっきり大きく切実な字で「あなたがすき」と書いてある。だけど封筒をどんなにためつすがめつ眺めてみても、宛先も差出人の名前も、そこには何一つ書かれていない。
何のために生まれて、これから何をすればいいのか、自分自身にもわからない。それがぼくたち野生の「あいしてる」。
そんな迷える子どもたちを、パパとママは無責任ともいえるおおらかさで町に放つ。
「さあ、見つけにいきなさい。あなたたちだけの目的を。それぞれてんでばらばらで、はたから見れば意味不明でも、たしかに『あいしてる』らしいといえる生き方を」
だからそれってどんな生き方?
わからないまま、ぼくらは今日も町の隙間をうろうろしている。ぼくたちがそばを横切ると、通りすがりの人間たちはふと立ち止まって涙をこぼす。やり場のない切ない思いに、ふいに胸締めつけられた顔をして。
ああ、おんなじだな、とぼくは思う。
みんな手紙は持っているけど、だれに出すのかまだ決まっていないのだろう。
だから形のない「あいしてる」に触れると悲しくなるのだ。
いつか、探しているものが見つかったら。
ぼくの命はどんな色に燃えるのだろうか。
あんなきれいな色だったらいいな、と思いながら夕日を眺める。
今日はなにも見つからなかった。
明日はなにか見つかるだろうか。
そんなことを考えながらゆっくり沈む茜色の光を見つめていると、なんだか胸が切なくなるので、もしかしたらあの太陽というやつも「あいしてる」の一種なんじゃないかと、ぼくは最近思っている。
野生のことば 柊らし @rashi_ototoiasatte
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