悪魔と天使の物語
楠 薫
第1話
20人の生徒たちが黒板の前に立つゼロス先生をしんけんなまなざしで見つめています。
今日は先生から大切な話があるのです。
それがなにかは、みんな、お父さんやお母さん、お兄さんやお姉さんからきいて知っていましたし、だいぶ前から黒板のよこにはり出されていた予定表にもかいてあったので、みんなわかっていたのに、生徒たちはきんちょうした表情です。
先生は宙に指でふしぎな文字をかきました。
なにもない空中なのに、まるで紙の上に筆でかいたように黒く文字の形がのこってゆきます。その文字にフッと息を吹きかけると、生きているように文字が動き出して、先生のよこをぐるりと回って、黒板までとんでゆくとはり付き、だんだんとうき上がってきました。
どこかふつうの学校とはちがいます。
それもそのはず。ここは魔界の12才の子供たちがあつまって勉強する教室なのです。
手品のような先生のかいたふしぎな文字は魔界の文字で、「実習」という意味です。
ゼロス先生は教室をぐるりと見まわして言いました。
「明日から実習が始まります。課題は地球のニンゲンたちにとりついて、一年間に12人のニンゲンを不幸にすること。さらに、出会った天使、といってもまだみなさんと同じ見習いですが、その天使と戦い、少なくとも一人はたおすことです」
生徒たちの中で、一人だけ、うつむいている少年がいました。ハルです。
ハルは心の中でつぶやきました。
(どうしてニンゲンを不幸にしなくちゃならないんだろう。それに天使をたおすって、殺すってことなのかな)
ゼロス先生はハルに気づいて言いました。
「ハル、ちゃんと前を向きなさい。そして、いついかなるときも、サイコ・ガードをわすれないように。考えていることがつつぬけですよ。心の中を見られるなんて、悪魔としては、とてもはずかしいことですからね」
教室にクスクスと小さな笑い声が起こりましたが、ゼロス先生は背すじをのばしてしせいをただし、少し声を大きくして言いました。
「この実習は、数千年も前からつづく、りっぱな悪魔になるための修行です。天使をたおしてすべての課題をやりとげたら1級。天使をたおすことができず、さらにニンゲンを12人不幸にもできなければ3級。どちらか一方をやりとげることができたら2級となり、1年後の進むコースもちがってきます。これは天使も同じ。だから天使も命がけで戦いをいどんできます。ばあいによっては死ぬことになるのは、君たちのほうかもしれません」
教室がしずまりかえりました。
「でもしんぱいはいりません。いつもの力を出すことができれば、がんばってたくさん勉強して力をつけてきた君たちが天使みならいごときに負けるようなことはありません」
再び教室に声がもどってきました。でも、ハルの表情はくもったままです。
末っ子のハルにはたくさんのお兄さん、お姉さんがいました。でも、実習から帰ってくることができたのはお兄さんが二人だけ。
ハルをかわいがってくれた二人のお姉さんと、いちばん上のお兄さんは、天使と戦って死んだり、天使のせいで悪魔の力をなくし、ニンゲンに見つかって火あぶりにされたり、十字架にかけられ、銀の剣に体をつらぬかれてチリとなって消えてしまったのです。
兄弟姉妹のなかでいちばんおとなしくて、けんかもしたことがないハルには、天使と戦うどころか、天使にさわることもできないように思えたのでした。
*
その日の夜、ハルの家では兄弟三人とお父さん、お母さんが、いつもよりごちそうをかこんでお祝いをしました。
お父さんが言いました。
「お前も、もう12才。お兄ちゃんたちのように、りっぱな悪魔になって帰っておいで」
お母さんも何かを言おうとしましたが、なみだが出て口がふるえ、とても声をだしてお祝いのことばを口にすることができるようすではありませんでした。
4つ年上のホロ兄さんが言いました。
「おまえは頭がいいから、天使をうまくだましてわなにかければ、戦わずに勝つことができるだろう」
つづいて5つ上のセナ兄さんが言いました。
「ニンゲンを不幸にすることはかんたんだ。ニンゲンはぼくたちとちがって、体のぐあいがわるくなる病気というものにかかると、死んでしまう。だから死ななくても病気にかかると、死ぬかもしれないと思って、不幸な気もちになる。だからニンゲンを不幸にさせたいなら、病気になるようにすればいい」
ハルは、セナ兄さんが言う病気、というものがよくわかりませんでした。ぐあいがわるくなること、ということは知っていましたが、それがどうしてなのか、どうすればぐあいがわるくなるのかが、わからないのです。
悪魔は病気にかかりません。ケガをしてもすぐよくなってしまいます。そしていまも宇宙のどこかで続いている天界戦争で天使と戦って殺されるか、ニンゲンにつかまって十字架にかけられ、銀の剣でさされるか、銀のクギを胸にうちこまれないかぎり、悪魔は死なないのです。
ハルはかべにかけられた二人の姉と一人兄の絵を見ました。悪魔は写真にうつらないので、姿をのこすには絵にかくしかないのです。ハルは心の中でつぶやきました。
(ここにもう一枚、ぼくの絵がふえることになるのかな)
でも、ハルは笑顔で答えました。
「ありがとう、セナにいさん、ホロ兄さん、お父さん、そしてお母さん。がんばってくるから心配しないで」 *
次の日、まだ暗いうちから生徒たちが学校へあつまってきます。今日は実習のはじまりの日、なのです。
ハルたちは儀式をおこなうへやの前で順番をまっています。ハルがよばれたのは13番目でした。
へやのドアを開けたら、白いひげがおなかまでとどく長老が立っていました。
「ハル、おいで。きみの番だ」
うなづいたハルはへやに足をふみ入れました。もう、実習がおわるまではあとにはもどれないのです。それだけではありません。天使とたたかって負けてしまったら、二度ともどれないのです。お父さんやお母さん、お兄さんや友達と会えないばかりか、死んでしまうこともあるのです。
でも、悪魔のこどもたちは、だれも引き返したり、実習をやめる、ということは言いませんでした。それは6才になったら学校にみんな通うのと同じで、悪魔としてあたりまえのことだったからです。
儀式をおこなう長老がなぞった水晶球の中にハルの行き先がうつしだされ、それを見たハルはつぶやきました。
「なんてきれいなところなんだろう」
ハルは長老の前におかれたイスにゆっくりとすわります。長老がハルの手をとり、左うでにブレスレットをはめて言いました。
「ハル、これは地球で君の体を手のひらに乗るくらい小さい体にして、ニンゲンからはすがたが見えないようにするお守りだ。そしてこれは君とこの魔界をつなぐたった一つの通信手段でもある。だからいつも身につけておくように、いいね。真ん中の星の形をした宝石は天使をたおすと光り、まわりの12の石はニンゲンを不幸にする課題ができると光る。君はこの一年間にこれをぜんぶうめなければならない。わかったね」
水晶球の中を見つめたまま、ハルはうなづきました。
「力をぬきなさい、ハル」
長老は立てかけてあった杖を手にとり、宙に星の形を描くと、ハルの頭めがけてふりおろしました。すると、ハルのすがたがイスの上から消え、水晶球の中に小さな虫のようなすがたがあらわれました。
ハルの行き先は地球というニンゲンが住む星のコルシカ島でした。オリーブの木がつぼみをつけはじめたばかりで、まだちょっと風が冷たい季節です。ハルは島のバスティアという港の上空についたのですが、海におちそうになってからだに力をこめました。すると、ゆっくりからだが上がっていくようになりました。
ちょうど長そでの白のブラウスをきた、まだ学校にも行っていない小さな女の子のすがたが目にはいりました。とても毛なみのよい子猫をだいていて、ほおずりしています。
(きっと、かわいがっている猫なんだろうな。毛がふさふさして、まるでおとぎ話にでてくる妖精みたいな猫だな)
ハルがそう思ったのもむりもありません。ノルウェー・ジャンフォレストキャットという、ほんとうにヨーロッパの北にある国の神話にでてくる猫の子どもなのですから。
ハルはふと思いついて呪文をとなえました。
「猫よ、おまえをいだきたるニンゲンの顔にツメを立て、血が出るほどに強くかくべし」
「フギャッ」
急に猫は声を上げると毛をさか立て、女の子の顔にツメを立てて引っかきました。
「キャッ」
女の子は猫を地面にほうりなげ、「うゎ~ん」と、大声で泣きながら走っていってしまいました。
しばらくすると、ブレスレットのいちばん上の石が明るくかがやきました。
「あ、課題、ちゃんとできたんだ」
小さくつぶやくと、ハルは女の子が走って行った方を、さみしげな表情でしばらく見つめていました。
*
しばらくしてハルがすがたをあらわしたのは、コルシカ島いちばんの都市、アジャクシオの海岸です。
とつぜん大きな波がおしよせ、お母さんといっしょにボートに乗っていた幼い女の子がおぼれてしまいました。
お母さんは女の子の名前を大声でいっしょうけんめい呼んでいますが、その子は目をとじたままピクリともせず、息もしていません。
まもなく、数人の男の人たちがやってきて、胸の音をきいたり、まぶたをあけてみたりしましたが、中の一人が首をよこに振ると、背が高くて強そうな男の人が女の子を抱え上げました。
お母さんはそのうでにしがみついて、引きずられています。首を左右にふって、女の子をとりもどそうと、必死です。
でも、男の人はお母さんの腕をふりほどいて、浜から上がっていきました。お母さんは砂浜に手をついて、肩をふるわせて泣きつづけています。
(あの女の子、死んじゃったんだ)
ハルは心のなかでつぶやきました。
(こ、殺すつもりはなかったのに。ニンゲンって、どうしてこんなにかよわいんだろう。)
うるんだハルの目に、ブレスレットの4、5番目の石の光が、にじんでうつりました。
*
どんよりと雲が空いっぱいに広がった、風の強い日でした。レンガづくりの家の窓からオリーブの木が風にゆれているのが見えます。
でも、ハルが見つめるベッドの上の女の子は熱にうなされ、せきこんでいて、外のようすなどとても見ることができないようでした。
「パパ、パパ……」
枕もとでは、女の子お母さんがすすり泣いています。お母さんは女の子の手をにぎりしめて言いました。
「ごめんね。お医者さまにかかるお金がなくて。パパも出かせぎで帰ってくることができなくて……」
とつぜん、いままでハルがきいたことがない声がしました。ニンゲンにはきこえない、頭の中にちょくせつひびいてくる声です。
「ま、手あてすればなおるようだけど、そんなお金もなさそうだし、だいいち、悪魔が憑いているようじゃあねぇ」
ハルは振り返って「だれ?」とききました。
机のかげから、同じくらいの年ごろの白い衣を身にまとい、ハルと同じように宙にういて、十字のきれいなもようの銀の剣をさしています。ハルは口を半ぶんあけたまま、ポツリとつぶやきました。
「天、使……」
「きみは天使を見るのは初めてかい? さいきん、戦い方もろくにしらない見習い悪魔がおおいんだね。もう、君の命はあとわずか、ということも気づかないなんて」
ハルは体をうごかそうとしましたが、足をうごかすことができませんでした。
天使はけいべつのまなざしをハルに向けて言いました。
「君がその子を見ているあいだに、結界をはらせてもらったんだ。さよなら」
天使は剣をぬくとあたまの高さまでかかげ、ハルの胸をめがけてつきつけました。ハルは体をよじって天使の剣をよけましたが、左肩を切られてしまいました。
「もうすぐ死ぬのがわかっているのに、じたばたする悪魔って、さいていだね」
天使はハルの胸にとびこんでいきました。
ハルは体をうしろにそらして、右手で左の腰にさしている魔剣を抜くと、そのまま、まっすぐふり上げました。
天使の右うでが切りおとされ、ハルの手からはなれてとんでいった魔剣はクルクル回りながら宙をとび、ハルの胸もとにとびこんできた天使の背なかから体をつきとおしました。
ハルはなにがおきたのか、さいしょはさっぱりわかりませんでした。天使の背なかにハルの剣がささって、お腹からそれがつき出てきてしまっていたからです。
でも、足もとに落ちている天使の腕をもういちど見て、ハルはどういうことが起こったのか、こんどはハッキリとわかったのでした。
「そ、そんなつもりじゃなかったのに」
ハルの目から、涙がこぼれおちました。
天使の腕を切りおとしたのは、ハルがうまく天使の剣をうけることができなかったからです。天使の背なかに魔剣がつきささったのも、魔剣をもつ手の力がよわくて剣がとんでいってしまい、それがたまたまおちてきたところに、天使の体があっただけなのでした。
天使はかおをしかめ、くちびるをかみしめて言いました。
「3人も悪魔をたおしたぼくが負けるなんて……」
天使はチリとなってきえていきました。
かわりにハルのブレスレットのまん中の大きな星の形をした宝石が金色に光りました。いちばんむずかしいと思われていた課題ができたのです。でも、ハルの心の中は涙でいっぱいでした。
ハルは女の子の枕もとにおり立つと、やつれほそった顔をのぞきこみました。
「ごめんね。ぼくはニンゲンを不幸にすることはできても、病気のなおしかたはしらないんだ」
うつむいて涙をこぼすと、ハルは魔力で窓を少しだけあけて、すき間から外へとび出していきました。
ハルはこんどは山のほうへとんでいきました。海のほうはいやなことがいっぱいあったからです。
山のふもとには、たくさんのつぼみをつけたオリーブの木が風にゆれて、まるで手をふっているようにハルをやさしくむかえてくれました。
でも、現実はそんなに甘くはありません。
ブレスレットの11、12番目の石が光りかがやいてしまったのです。
ハルは大きく目を見ひらきました。
「あの子、死んじゃった……。そしてお母さんまで不幸にしてしまった」
11、12番目の石のかがやきがおちつくと、こんどはブレスレットぜんたいがかがやきだしました。そして星のしるしから長老のホログラフが現れました。
「おめでとう、ハル。君はすべての課題をみごとにやりとげた。こんなに早くやりとげたのは、ほかには二人だけ。ハル、きみは三番目だ。しかし魔界へもどってくることができるのは、298日後だ。それまで……」
ハルは目をふせてブレスレットをうでからはずし、オリーブの木の根もとにうめました。
ブレスレットが手からはずれたとたん、ハルの体がニンゲンと同じ大きさになって、ニンゲンからも見えるようになり、うしろむきにころがってしりもちをついてしまいました。
「ふう……」と、ハルはためいきをついて、服に付いたドロをはらいました。
(これでいいんだ。もう、ぼくはどこからみてもニンゲンと同じだ。天使と戦わなくてもいいし、ニンゲンを不幸にしなくてもいいんだ。さてと。これからどうしよう)
ふと思いたって右手の人さし指を自分にむけると、小さく丸く回しました。すると、悪魔の黒服から、白い子ども服にかわりました。
(よかった。魔力はおちてない。そうだ、まず、どこかの家の子どもにならなくちゃ)
*
オリーブの花が満開の島の校庭をハルが歩いています。すてきな香りが学校じゅうをつつみこんでいます。魔界にいたころとはちがって、とてもさわやかで明るい笑顔のハルです。家ぞくや友だちもいない、知らないところなのに、ハル自身もふしぎでした。
ハルは担任の先生につづいて教室に入っていきました。生徒が30人、ザワザワとさわいでいて、少しやかましい教室です。
先生が黒板の前で言いました。
「それじゃ、自己紹介してください」
「ハル=フランソワ・マッティと言います。両親が亡くなって、親せきの家にいます。よろしくおねがいします」
ハルはコクリとあたまを下げました。
この島では出かせぎにいったまま帰ってこないお父さんや、お母さんが病気になって亡くなり、親せきの家でくらす子もいて、ハルがとくべつではないのです。だからみんな、「よくあること」と、聞きながしています。
先生は教室を見まわして言いました。
「じゃ、ハル、いちばんうしろのセレナの横があいているから、そこにすわりなさい」
先生が指でさした席をめざして机をかきわけるように歩いていくと、セレナのよこの席にすわりました。
目があったセレナに、ハルがふたたびコクリとおじぎをします。セレナはほほえんだまま、ゆっくりと口をひらきました。
「あなたもブレスレット、こわれて帰れなくなっちゃったの?」
「えっ?」
おどろいてハルは一歩、あとずさりしました。
そのハルの耳もとに、体をのりだすようにして顔をよせ、セレナがささやきました。
「ちゃんとサイコ・ガードはしておくものよ。私がもし、まだ現役の天使だったら、あなたの命、なかったかもね」
目を丸くしているハルに、セレナはウインクしました。
「ま、いまじゃ、ごくふつうの島の女の子だから、安心して」
ハルは日にやけた手をさしだすセレナの顔と手をなんどもかわるがわる見て、おそるおそるその手をにぎりました。
(おわり)
悪魔と天使の物語 楠 薫 @kkusunoki
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