無能子息と偽らぬ絵画(読み切り版)

見夜沢時子

マーガレットの沈黙

 『至急』の文字が踊る書信を畳み、フェリオはサロンを後にした。

 マーキス伯爵家の本邸を素通りし別邸へと馬車をつける。己のもとに届いていた文を使用人に見せ、案内されるまま部屋へと向かう。

 伯爵家子息は果たして、幼少からの病をこじらせて自室で臥せっている訳ではなかった。

 馳せ参じた客人の顔を見るなり、彼は深刻な面持ちでこう言った。

「マーガレットが喋らないのだ」

「……へえ」

 どうやら違う病のようではあるらしい。

 ソファに座る友人の漆黒の髪からつま先までを眺めながら、客人――フェリオはとりあえず相槌を打つ。

 打ったものの、顎を引いた拍子にため息も這い出てきた。

「歓談中の僕をわざわざ呼びつけて、おやとうとう心の臓が悪化したかと思って来てみれば。ルイス。おまえが女性と接触を持とうとした努力は買うけど、不振の理由はどれも僕が世話出来ることじゃないぞ」

「いいや。フェル、君以外に考えられない相談だ、誇っていい」

 少しも刺さった手応えがないのはいつも通り。しかしその決然とした口調と言葉は物珍しく、フェリオは薄く笑いながら嘯いた。

「愛称で呼ばれるのは久々だ。相当お困りのようだ。褒詞に至っては生まれて初めて言われた」

「困っているのは図星だが。他はそんなことはないだろう」

「あるさ。僕が社交界で"無能の二代目"の二つ名をほしいままにしてるのをおまえは知ら……知らないか。引きこもりめ」

「君がそう見えるのは、絵画卿のせいでも君の懶惰らんだのせいでもなく、遊びに情熱を捧げてそうなその見た目が主な要因と思うのだよ」

「これが僕のセンスだ。洒脱だろう」

 ふんぞり返ってみせる。伸ばした銀髪を細身のリボンで結ぶのも流行の装いをあえて着崩すのも、なんら恥じるところはない。才能のみで爵位を得たのは自分ではなく親だ。その衣を借りて社交界に出るのなら、むしろ、生真面目に流行を追って正当派を装ってもかえって滑稽なだけだと知っている。

 しかしそんな堂々たる主張をまるごときれいに流し、ルイスはソファを立った。

 殺風景な小部屋だった。あるものはといえば、正面の壁にただひとつ掛けられている絵。絵に向かい合う形で置かれた二人がけのソファ並びにローテーブル。それだけだ。

「紹介するよ。彼女がマーガレットだ」

 おもむろにそう言ったルイスが指し示す先は、他でもない。正面の薄暗い油絵だった。

 絵の中央に佇んでいるのは黒いドレスを着た娘だ。化粧台には白い小さな花が散らばっていて、その上に浮かぶ繊手は無関心かつ無造作に赤い宝石のついた首飾りをすくい上げている。金色の髪はくしけずられた絹糸。長い睫毛の隙間に覗く瞳は夢を見ているように淡く、その手指も腕も枝のように華奢だった。白磁の膚は青く光っているようにすら見える。

 絵の中の光源はランプの弱い光だけで、背景の奥行きは全く分からない。ただ、オレンジ色の光が与えるはずの柔らかい印象は、娘が持つどこか病的な雰囲気に対して全く意味をなしていなかった。

「……ルイス」

 いささか不安と恐怖じみた感情に動かされ、かすかに友人の名を呼ぶ。

 しかしそれを遮るように、

「失礼致します」

 出し抜けにノックの音がして、背の高いメイドが入ってきた。

 テーブルに整然とティーセットが並べられていく。年若く見えるもののその無駄のなさは口を出すところもなく、しぜん、沈黙が雨水のように溜まっていった。

「……なんか喋れよ」

「いやほら、感想を待っていたのだよ」

 ルイスは座り直しながら心外そうに言った。目の奥は正気に見えたため、フェリオは無意識に身を引いた。

「なにかないか。美しいとか、聡明そうとか、優しそうとか、そういう」

 少なくとも最後のは到底思わないな、という意見をどうやって伝えようか。

 そう無言のうちに考えていると、メイドが微かに、本当にごく微かにため息を洩らした。侮蔑じみているように聞こえたのはこちらの精神状態も関与しているのかもしれない。

「まるでイシュナ=バルトーの作品に出てくる乙女のようですね」

「いい例えだ。ありがとう」

「恐れ入ります。失礼致します」

 耽美小説作家の名を挙げて立ち去った彼女に、フェリオは胸中で密やかな礼を伸べる。それでようやく気を取り直すことが出来た。

「おまえさ」

「やれやれ。仕方ない。……見ているといい」

 不気味な優越感が薫る口調でそう言い、ルイスが再び席を立つ。左方にある窓際まで歩いていく。もう夕刻になろうとする陽の緋を受けながら、彼は厚手のカーテンを引いた。

 一刻先に宵闇が室内を包んだ。

 布の隙間から漏れる色だけを光源とする中。

 いつの間にそこにいたのか。

 絵画の前、テーブルを挟んでフェリオの眼前に、少女が佇んでいた。灰色をした不確かな煙のようだった。

 うつむきがちの顔は微かに笑いながらも物憂げに沈んでいて、それがためなのかどこか不穏さをまとっているようにも見える。

 唇は今にも声を紡ぎそうに開いてはいるが、呼吸音すら聞こえなかった。隙間から尖った歯が覗いている。

 フェリオは灰色の瞳を細め、細い肩の向こうへと視線を転じた。額の中に青白い少女の姿はない。虚ろな空間だけが残されている。

 そこまで確認すると今一度少女を見る。終始、絵を眺める以上にない眼差しだった。

「……絵画卿の、母さんの絵か。なるほど、だから僕を呼んだのか」

「二ヶ月前に頂いたのだ。私宛の小包で」

「行方不明かと思えば、ご健勝で何よりだ」

「美しかろう」

 ルイスは胸を張り、

「絵だからな」

 フェリオはむべもない。

「中身はそれ以上だ。私の話をちゃんと聞いてくれる。"つまらない"物語や伝承の話を嫌がらずに。だから話の種を仕入れるのが最近の大きな楽しみなのだ。存外素朴な穏やかな、優しい声をしていてね」

「が、喋らなくなった、と」

 そう、とルイスの顔が曇る。

「五日ほど前からだ」

「大体分かった。開けて、カーテン」

 今にも落ちようとしていた陽がルイスの手により再び室内を染めあげる。その瞬間、少女は吹き消されたかのように跡形もなくなり、元いた場所に変わらぬ表情で戻っていた。

 フェリオは改めて絵の前に立つ。

「二ヶ月も前にね。全然知らなかった」

「同封の手紙には、内密に、と。しかし――」

「"喋らない"異常事態にやむなく、か」

 そう相槌を打って室内を振り返る。眇めた目でざっと見回し、絵の主へと視線を移した。

「結論から言うと、僕は"彼女"を喋らせることは出来ない。知ってるはずだろ、絵画卿の力を僕は受け継いだりなんかしていない」

 王家に認められ尊ばれ溺愛され爵位まで与えられたその画家は、恐らくは神から才能を与えられた魔術師でもあった。

 通称を絵画卿。まともな絵を描き続けるのが彼女に与えられた使命及び義務。しかし、時折動いたり歌ったりするどこにも売り出せない奇怪な代物を描くことこそを、その画家は生き甲斐にしていた。

 胡散臭すぎてどこにも出せない絵を、傲慢さからなる純然たる趣味(悪趣味、と言ってもいい)で他人に贈るのだ。基準はひとつ。『その人がどうしても手に入らないものを、絵にすることでその人のものにして"あげる"』。

 社交界嫌いで知られるこの伯爵家子息の場合は、熱心な話し相手になってくれる女性ということだろう。裏を返せば彼には絶対に手に入らないと言い切っているのだ。如何な情報を知り何を視ているのかは知らないが、常にあながち間違っていないのが鬱陶しかった。

 そして、フェリオはその一切が受け継げていない。教えられたことは何度もあるが、なにもかも理解できず手につかないのだ。成長期も過ぎた今となってはとうに諦めていた。

「魔術師の子は、残念ながらただの無能だ」

「……気に、障ったのならすまない。そういうわけではない、違うのだ。ただ」

「分かってるよ。でもま、僕に出来ることは限られてるな。処分――」

 言いかけて、友人の形相に言葉が止まる。

「――なんてこと言わないさ。とりあえずね」


 泊まっていってくれ、というあるじの申し出に頷くと、姿勢のよい老執事がやってきた。

 案内されるままに廊下を歩きながら、

「縁談があったって言うじゃないか」

 厳めしい顔だが物腰も何もかも穏和な執事は、ただただ静かに笑った。

「お耳がお早いですね」

「今日のサロンでちょっと話題になってね」

 容姿端麗で病がちな伯爵子息。一部の自由でいたい貴族令嬢たちにとってどれほど魅力的な物件だろう。であると共に、絵画や書物に埋もれ浮いた話もなにひとつない青年について、華やかで退屈な貴族たちが噂をしないわけがない。

 そんな諸々以上に話題になる理由は、あったのだが。

「断った理由を理解した」

「さて。あの乙女がいらっしゃらなかったとしても、いかがだったでしょうか」

「まあ確かに。――そういえば、あいつはこの頃体調を崩したりはしていない?」

「さいわい近頃は小康状態でございますよ」

「そう。ところで、酒はいいの?」

 フェリオの気安い口調に、執事の笑みが先とは異なる軽やかさを持つ。

「たしなみ程度でしたら是非に。お喜びになるでしょう。さて、こちらが客室になります」

「ありがとう。なら、僕の部屋に葡萄酒を持ってきてもらってもいいかな。白いのを」

「かしこまりました」

 成り上がりの二代目に対しても何の曇りもなく丁重に辞儀をするこの執事に対し、フェリオは浅からぬ親しみを抱いていた。

 下げた頭を戻して辞去する彼を、客室のドアを開けて少しの間見送る。

「――ああ、ちょうどいいところに。メグ、マリエル。夕餉の準備が終わったら白を何本かフェリオさまにお持ちしなさい」

 廊下の向こうからやってきた二人のメイドをついでに眺めて、

「……外見じゃなく声が好きなら、絵より生身のほうがいいと思うんだけどね、僕は」

 女性ふたりに聞かれぬ程度の音量で失礼すぎる呟きをし、客室へと引っ込んだ。


 夜半になろうかという頃。ボトルとふたつのグラスを携え、ルイスの部屋をノックした。

「よう。夜も眠れないであろう恋する男を見物に来たんだけど」

 部屋の主はなんともつかぬ苦笑をしてフェリオを招き入れた。招き入れられた方は遠慮なく上がり込み、更にそのままずかずかと、

「なあ待て。そっちは寝室」

 客らしい慎ましさが一切ない、堂々たる居住まいで寝室をぐるりと見回した。床の絨毯からソファ、整えられた寝台に至るまで。

 ふーん、と呟くや否や踵を返すと、目の前にいたルイスにワインを取り上げられた。

「君は何しに来たんだ……」

「痕跡を探してる」

「痕跡? 何の」

「そのついでに飲みに来た。それと質問を」

「質問?」

 繰り返される疑問符にも素知らぬ顔をし、取り上げられついでにグラスを押しつける。

 受け取った友人の両手が塞がるのを確認するや否や、フェリオは彼の衣服の首元を掴んだ。少し視線が上向く位置に対し、実に手慣れた動きで順にボタンを外していく。

 露わにした首筋に顔を寄せる、

「な、なにをしてっ、私にそんな趣味は!」

「ないな」

 頷いたあと、軽く突き飛ばした。よろめく長身を放置してワインテーブルに歩み寄り、オープナーを手に取る。

「身体に訊いてみたほうが早いと思って」

「身体にって!」

 泡を食っている友人に向けて、フェリオは己の首筋を手のひらで叩いてみせる。

「やっぱり吸われてないんだね。血」

「……どう……いう?」

「絵画卿の魔術絵は、人から生命力を奪う。人の食事と同じで、奪ったその力があってこそ活動することが出来る。例外はないんだよ」

 世間に出回らない、出回らせるわけにはいかない理由がそこにある。

 ボトル貸して、と手を広げてみせた。ルイスは複雑な、或いはまだ飲み込めないでいる表情でもって、それに応じる。

 コルクを抜いた。

「で、おまえが恋する彼女は典型的な吸血鬼型だ。人の生き血を啜る」

「……」

「だから僕は仮にもぴんぴんしてるおまえを見ておかしいなと思ったわけだけど。ましてや一応病がちだし。グラスを」

「待ってくれ、それはつまり、どういう」

 テーブルに置かれたグラスにワインを注ぎながら、フェリオは肩を竦めた。

「さあ、僕はこれといった正解を持ってる訳じゃない。ただ――ルイス、先日こちらに泊まられたクレアリス子爵夫人を覚えてるかい」

「ええと……一週間前に縁談を持ってきたあの方か。しつこかったのだけ覚えてるよ」

「帰宅する馬車の中で昏睡なさってたとさ。知ってたかい」

 グラスを持ち上げ差し向けてみせたが、ルイスはそれを手に取ろうとはしなかった。こちらを見てもいないから当然かもしれない。首を緩々と横に振っている。

「……いや、全く……」

「そうだろうと思ったよ。外に無関心なおまえの耳にはまだ入ってないんだろうなって。今も療養中で、後遺症等の詳細は不明、と」

 故に、そのしつこい夫人から追撃がないのだということについて、しかしこの男は頓着していなかったに違いない。そう思った。

「動こうが動くまいが、あまねく絵は人間と共生関係にある。つまりこれは暴走だ。絵画卿の無責任な絵にまれにある整備不足なんだよ。それを見つけたからには処分しなきゃならない。ルイス、今夜僕は、持ち主であるおまえに断りを入れに来たんだよ」

「フェリオ。それは」

 ルイスの声に切迫した色が混ざった。グラスを渡すことを諦めたフェリオは、もう一方を手にしてワインを傾ける。軽やかな香り。

「それだけは……絵画卿を呼べば、それで」

「掴まえるのに数ヶ月はかかると思うよ。その間の昏睡者は何人で手を打つつもりかな」

「今まで何もそんな話はなかっただろう」

「クレアリス子爵夫人の昏睡だって知らなかったおまえが、本当に何もなかったと言えるの。使用人が隠蔽している可能性は?」

「第一、本当に彼女と関係があるかも不明だ!」

 とうとう悲鳴じみた響きを帯びた。

「彼女が沈黙しだしたのは五日前のことで、子爵夫人の昏睡は一週間前――仮にその、夫人の生き血を啜ったにしても、それならば沈黙どころか活発になるのが道理ではないのか!」

 フェリオは空のグラスを置く。

「それなんだけど。少し引っかかることが」

「聞きたくない、やめろ……フェリオ――、私に何の恨みがあっ――て」

「……ルイス?」

 様子がおかしい、そう思った瞬間だった。

 長身がぐらりと傾き、フェリオの眼前でくずおれる。倒れる音がいやに大きく聞こえた。

 フェリオは部屋のドアへ、夜に沈んだ廊下に飛び出し、

「――ッ誰か! ルイスが!」


 小部屋の窓は夕陽どころか朝陽も入らせるつもりはないようだった。

 一人、絵の前に立って身を入れずにただぼんやりと眺めていたフェリオの耳に、ノックの音が鮮明に届く。肩越しに振り返る。

「どうぞ」

「お茶をお持ちしました」

 昨日と同じメイドかもしれないと思った。背が高く痩せていて、くすんだ肌をしている。小さな目はマーガレットと対照的ですらあり――とまで観察したところで、不躾さに気付いて取りやめる。だからといってルイスが絵の少女に走る理由にはならない。

「ルイスさまはまだお身体の具合がよろしくないそうです」

「そう。ありがとう。口実?」

 メイドは面食らい、困ったように笑った。

「何割かは、そうではないかと思います」

「なら元気だね、何よりだ。少し話をしても?」

「……私などでよければ」

 とは言うものの、彼女の様子はどこか安堵した風にさえ見えた。絵の見張り番をするための口実を探していたのかもしれない。

「ソファへどうぞ。――この絵、どう思う?」

「……美しいひとですね。本当に」

「確かにそうだけど。僕はひどく病的に見える。本当に彼が言うように心も美しいのかな」

「見目が麗しければ、得することは数えきれずにありますよ」

「ははッ言うね。あのさ、ルイスが彼女と会話するところを誰か見聞きはしてないかな」

「いえ……、そんな話は特に」

「そうか。……――僕が絵を修繕出来れば、全て丸く収まるんだろうとは思ってる」

 反応に困る様子を見ずとも察し、特に待たずに話を続けた。

「けど、どうしても手に入らないものを望むくらいなら、出来ることを探した方が建設的だ。身内が作り出した絵が人を不幸にしないよう闇に葬っていくとか、ね」

 そう言いながら立ち上がり額に手をかけると、メイドは途端に慌てた。

「ちょ、ちょっとお待ちくださいっ」

「大丈夫大丈夫絶対に壊さないから。とりあえず今はね――よっと」

 絵の隅に署名を見つける。マリス。絵画卿の画家名だ。字の癖も間違いなく、つまりこれはやはり、他人が描いた絵ではない。

 病んだ印象を見受けるヴァンパイアの少女。

 絵画卿はなぜ、こんな絵をルイスに贈ったのだろうか。病なら彼に足りているのに。

「……タイトルも」

 呟きをメイドは怪訝そうに拾い上げた。

「何かおっしゃいましたか」

「ほら。署名の横に」

「申し訳ありません。私、字が読めなくて」

「ああ、ごめん。"マリス,エーデルライト"って書いてあるんだ。エーデルライトは家名じゃない。タイトルだよ。この絵のね」

「マーガレット、ではなく、ですか」

 フェリオは肩をすくめてみせる。

「それが謎だ。僕はなぜルイスがこの絵をマーガレットと呼ぶのか分からない。確かにマーガレットの花は描かれてる、でも――」

 いまいちぴんとこない。

「執事殿は暇かな」

 メイドはやんわりと絵を取り上げ、彼が二階の書斎にいる旨を教えてくれた。

 ドアを開けて部屋を去るその間際。

 どこかから声が聞こえた気がして、フェリオは室内を振り返る。けれど少女は相変わらず首飾りに夢中なようだった。


 もうひとりのメイドと入れ違いになりぶつかりかける、というトラブルはあったが、老執事はそこにいた。

「あの飛び出す絵がルイスに贈られた理由について、思い当たるところはある?」

「思い当たるところ、ですか」

「ずっと疑問だったんだけど。退屈で逃げ出すような高尚な話を延々と聞いてくれて、文字通り絵に描いたように美しく、地位や財力といったものに興味がない。なるほど確かにルイスにぴったりな女性だけど――『どうしても手に入らないもの』とまで言えるのかな」

 『どうしても手に入らないもの』。熱望し、けれど決して自分のものにはならないもの。

「社交界にろくに出ちゃいないのに。そんな簡単に絶対無理だと引導を渡すような真似は、何となくしっくり来ない」

 言ってみて、

「……いや。うん。確かに不可能なんじゃないかと思ってもいるんだけど」

 社交界に出入りする淑女で三番目の条件を満たす者など存在しない。じゃあやっぱり、絵画卿は簡単にそう見切ってしまったのか。

 何にせよ悪魔の所業には違いない。有り体に言えば『おまえには生身の人間は無理』だ。

「私に申し上げられることがあるなら……熱望はしておられなかったのではと思いますよ」

「パートナーを?」

「ええ。あの乙女が訪なうより以前のルイスさまは、日々書物や絵画や物語に意識を傾けておられました。絵画卿が絵を贈られるほどの切実さは、私には感じられませんでしたが」

「深層心理で求めてた、とかは?」

「そこまでは、さて」


 ルイスを再び訪ねると、自室のソファの上で広げた本を顔に乗せていた。

 ノックの音が引き金になって落ちたに違いない。おおよそ意図的に。取り上げると眩しげに、もしかしたら迷惑そうに眉間が寄った。

「枕にするなら顔の上じゃなく下だよ」

「……」

 憮然としたまま、長躯がのろく起き上がる。

「あれを破棄する決心はついたかい」

「……つくわけがない。それは彼女を殺めるのと同義なのだ」

「入れ込んでいらっしゃる」

「ああ」

 茶化した物言いにも揺るがぬ声だった。智性を染ませた黒い瞳がフェリオを見据える。

「君に分かるだろうか。存分に出かけることもままならぬ身でも、誰かと同じ物語について想いを寄せあうことができる。その喜びについて、――フェル、君に分かるのか?」

「その論法で、分かるだなんてこの僕が言えるわけないだろ」

 でも、と躊躇なく続けた。

「彼女はじき人を殺すと思うよ」

「言っただろう、根拠がない。それに――私の血でよければ私が差し出す」

「それは僕が許さないな」

 沈黙が流れる。

 無言の睨み合いが数分ほど続いた頃だろうか。ドアの向こう、外の廊下で出し抜けに何かが倒れるような音がしたのは。

 双方揃って顔を上げたが、先んじたのはフェリオの方だった。廊下に出た瞬間、倒れているメイドとその向こうに佇む薄淡い影を見た。

 影は人の形をしていた。曖昧な輪郭を持ちながらも息を飲む美しさは明らかで、あり得ざる妖しさを含ませていた。俯いたその双眸は深い憂いと無感情の狭間にある。

 ルイスがメイドの傍に駆け寄る。ついでマーガレットと名付けられた娘を見る眼には、恋慕に加え疑念と痛みがない交ぜになっていた。

 娘が動くより先、フェリオが鋭く言い放つ。

「エーデルライト。切り刻まれる前に戻れ」

 その瞬間、少女は困惑と批難の瞳を揺らがせ、闇の中に溶けた。

「大丈夫? 怪我は?」

「……はい、大丈夫、です」

 長身を小さく折ったメイドは、震える声でかろうじてそう応えた。

「執事を呼んでこよう、フェリオ、メグを」

「いや僕が行く。彼女と安全な場所、へ――」

 ふと、何かが結びついて火花を散らす錯覚にとらわれた。駆け出しかけて振り返る。

「どうしたのだ」

「なんでもない。でもやっぱりおまえが呼んできてくれ、ルイス。それと――執事殿は二階の書斎に呼んで、おまえはマーガレットが絵の中にいるよう、見張っててくれないか」

 首をひねったものの、それ以上食い下がらずに急ぎ去るルイスを見送ったあと。フェリオは顔色の悪いメイドへと手を差し伸べた。

 その痩せた首筋には小さな疵が二つ見える。

「行こうか。メグ――マーガレット」


 書斎は静まり返っていた。

 明かりを灯しながらメグをソファへ座るよう促すと、フェリオは囁きの音量で言った。

「ようやく分かった。ルイスじゃない。絵画卿は本当は君に贈ったんだ――"エーデルライト"を。愛想がなくただ美しいだけで許される、つまらなくも"羨ましい"少女の存在を」

 マーガレットという名の愛称は幾つかある。マギー、マーゴット、マリー――そしてメグ。

 彼女自身に美は手に入らない。絵画卿はそう言い渡したのだ。傲慢で横暴で残酷な慈悲。

「そしてそれを、君は自らの写し身として彼に贈った。絵画卿からの小包に見せかけて」

 絵画が好きな彼が喜んでくれると思ったのかもしれない。そう、フェリオは考える。

 マーガレットという題名もその際に彼女が決めたのだろう。手紙の代筆を請け負う者ならいくらでもいる。絵の中の化粧台に散らばる白い花を見て――いや、或いは。

「本当なら手元に置いてくれるだけで満足だったのかもしれないけど。彼は部屋まで設えた」

 外から足音がする。メグが息を飲むのに対し、片手を挙げてその心配を諫めてみせた。

「エーデルライトのある部屋から話し声が聞こえた。幻聴かなと思ったけどそうじゃない。執事殿ともう一人のメイドの話し声だったんだ。この書斎は、あの小部屋の真上にあたるから。……声が双方向で聞こえる点について、僕は邸の補修をお勧めするけれど、つまり――夜毎、ルイスの話し相手になっていたのは」

「やめてください……!」

 ノックの音がする。

 顔を覆い、かすれた声で半ば叫び拒絶したメグは、大きく身を震わせ縮こまった。

「安心して、執事殿だ。どうぞ入ってきて。――メグ。マーガレット。僕はやめないよ」

 フェリオは続ける。潜めた声を保ち、許可を得た老執事が入ってきた段に至っても。

「絵に添えられた題名も読めないのにバルトーの小説を知っているのは、ルイスが"マーガレット"に語り聞かせたからだ。あいつのことだからぐだぐだとした話になったに違いないけど、君は退屈がらずに鮮明に覚えて、心に刻んだ。あんな冷たい絵じゃない。"君が"話し相手になって、"君が"覚えたんだ。そのためにエーデルライトに血を注ぎ続けた」

 ルイスの話し相手になる。

 そのためだけに。

「……メグ。おまえは」

 老執事が乾いた声で名を呼ぶ。それが耐えがたい非難の言葉でもあるかのように、メグは耳を塞いでしまった。その手は震えている。

「言わないでください。どうか、そんなの、ルイスさまが哀れです」

「哀れ?」

「私みたいな醜いだけの使用人に、あんなに生き生きと毎夜お話をされていただなんて」

「絵を相手に喋ってるほうがよっぽど哀れだね。それに」

 階下で物音がする。ルイスが絵画のある小部屋に入ったのだろう。

「もとより喋らないエーデルライトが"黙った"のは、長時間の活動に応じた彼女に血を与えすぎた君が疲労の余りここに来れなくなったからだ。違うかい」

「……」

「肯定と取るよ。子爵夫人の昏睡は絵の持ち主の供給不足に対する吸血鬼の反乱だね」

「……申し訳、ありません」

「本来の持ち主である君には悪いけど、僕はあの絵を処分する。残しておくつもりはない」

 マーガレット、と声がした。

 ほかでもないルイスが呼ぶ声だった。

「気付いていないの。絵画卿は宣言している」

「なにを、ですか」

「『どうしても手に入らないもの』。君のそれは絶世の美貌であって、ルイスはどこにも描かれていない」

「……だからといって、」

「『存外素朴な穏やかな、優しい声をしていてね』。――絵画に対する惚気だと思うかい」

 娘の頬が紅を刷いたように染まり、その瞳が激しく歪むや否や、顔ごと伏せられた。

「君の声はここで潰えるのかな。それとも『出来ることを探』してみる? マーガレット」

 長い沈黙。

 メグが身動いだ。

 執事が手を貸すことで立ち上がれたその痩躯は、ひとり、扉をくぐって出ていった。

「余計なお節介だったかな」

「いいえ」

 穏やかに執事は言った。

 今度こそ長い沈黙。

 それを経て聞こえたふたつの声について、――最後まで聞き届けたりなどはしなかった。

 

 終

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