第20話
これで僕の一夏の物語は終わりを迎える。
ここからは僕の後日談というか、エピローグ的なものになる。
幾分か感傷的になっているし、濡れた雑巾のようにしみったれたものだから、ここで物語を閉じて貰っても構わない。それでも僕はここまで物語ったことの一応の責任みたいなものを感じているし、それ以上に僕はまだ文章を書きたいという衝動に駆られている。誰かに読んで欲しいとさえ渇望している。だから最後まで付き合っていただけると本当に嬉しい。
僕が記憶を失って目覚めた日から、いくらか騒がしい日が続くことになった。皆が舞台の上に上がって踊り、空騒ぎを一通り演じてみたが、結局のところそれはどこにも辿り着かずに幕を下ろすことになってしまった。
影は自殺の遺書を実家に送っていたようで、手紙を受け取った両親が翌日から上京して、息子の死を確認するために手を尽した。しかし遺書は届いたものの、影の遺体は結局見つからなかった。これを書いている今でさえ、影の遺体は見つかっていない。遺書は短く数行だったと聞いたが、僕は内容までは聞かされなかった。
本当に影の友人は僕以外にはいなかったようで、警察に何度も事情聴取をされた。
影の両親にも何度か会うことになった。父親は絵に書いたような官僚的な人間だった。強いものには媚び諂い、弱いものを虐げる。そんなことを本気で家訓すらしていそうな男だった。母親はめそめそした厚化粧の香水臭い女性で、僕は彼女の目の前で鼻をつまもうかと何度も考えさせられた。
「私達の息子は自殺をするような弱い子じゃありません。優秀で、賢くて、器量ある子なんです、これは何かの間違いが、事件に巻き込まれたんですわ」
母親は決して息子の自殺を信じようとせず、何度も何度も同じことを甲高い声でオウムのように繰り返した。
僕はそのことで幾分か気が滅入ることになり、大分衰弱したが、彼の友人として恥じることの無い態度を心がけた。大学にも呼び出され、そのことで幾分かまずい立場にも追いやられたが、それは僕の普段の行いが悪かったのだと自分を納得させた。
「君の悪影響を受けたのではないのかね? 彼は心から真面目で優秀な生徒で、将来有望な生徒だった」
僕は心の中で何度も同じことを言った。
あんた達のような、無神経で自己中心的な人間のせいで彼は死んだのだと。
あなた達が彼を虫に食われた葉っぱのような男に変えてしまったのだと。
しかし、僕に何が言えただろうか。
影の自殺はちょっとしたニュースにもなり、一流大学の学生が遺書を残して失踪と見出しがついて、何度も繰り返し報道されたが、最後まで影の遺体が見つからなかったことでニュースは霧のように四散し、陽炎のように立ち消えてしまった。ハイエナのように根掘り葉掘り死骸を穿り回し、悲しみの素振りを見せながら鞭を打っておいて、骨の髄までしゃぶりつくしたらそれでお終い。
こんなことってあるだろうか?
僕はその間、ただ只管に口を噤み、目と負を塞いでいた。
僕はどこかで願っていた。影が自殺なんかしておらず、メキシコにでも逃げて姿をくらまし、何れ別人になって僕の目の前に現れてくれることを。
それはある種の祈りのようにも、宗教にも似た僕の救いだった。
しかし、それでも僕は確信していた。
彼はもうこの世には存在せず、象の墓場に行ってしまったことを。
それは決して人に見つけることはできず、死期を悟った象だけが辿り着ける場所なのだ。
いつか僕に見つけられるだろうか?
影についてはこれで本当にお終いだ。
僕が知っていることはこれ以上何もない。
ロフトから落ちてきた女の子には動物園の日を最後に、今日まで一度も会うことはなかった。
今でも時折彼女のことを、あの夜の人生で一番興奮したセックスのことを思い出す。
大体は夏の夜に。
そして無性に孤独を感じたときに。
そんな時、僕はひっそりと彼女が口ずさんだリリー・マルレーンを口ずさむ。
こんな歌詞だ。
兵営の前の電柱に、灯りが今もついている。あそこでもう一度会おうね。
君をしっかり抱きしめて。 もう一度、リリー・マルレーン。
2人の影は一つだった。恋人同士の影だった。皆に見られてもいい。
あの下で、また会おうね。 もう一度、リリー・マルレーン。
彼女の姉である青いワンピースの女の子には、大学内で何度か顔を合わせたが、言葉は一言も交わさなかった。彼女はまるで親の敵で見るような目で僕を睨みつめ蔑んだ。その瞳を心地よく感じた。
犬や王とは再び三人で集まることは、その後一度もなかった。
犬は国許に就職して東京を後にし、王は東京の証券会社で働き始めたが直ぐに海外勤務になり、今では一財産を築いていると人づてに聞いた。
結局、誰一人にもさよならを告げることなく別れてしまった。
もう一度会いたいと思うこともあれば、もう二度と会いたくないと思うこともある。人の心はころころと心変わりをしてしまうものだ。
僕は大学を卒業した後で色々な国や地域を回った。
見たくないものを見て、経験したくないことも経験した。
平和も戦争も見てきたし、世界の裏と表を見てきたつもりだ。
そのことで何かが変わったのかと言われれば、僕は首を傾げるだろう。
フィリップ・マーロウ程、タフにはなれなかった。
一つだけ確かなことがあるとすれば、人を頼らずにはここまで生き延びては来れなかったと言うことだ。
これから僕はどこへ向かおうとしているのか、それは僕にも分からない。
それでも、これをあなたが読んでいるころには、僕はあなたの手の届く場所からは消えてしまっているということだけは確かだ。
でも、心配しないで欲しい、まだ象の墓場に行くには早すぎるし、蝶の夢からも覚めきってはいない。
この物語をどうやって閉じようか、書き始めたときからずっと悩んでいる。僕の中にはこの物語を閉じる上手い言葉を見つけられそうも無いので、モンロー・ウォークの言葉を引用させて戴きたい。
実は今日は奇しくもモンロー・ウォークの命日でもあるのだ。
そして、影の命日でもある。
それではモンロー・ウォークの自伝本「くそったれな世界」から引用する。
「人生最高」
象と蝶 七瀬夏扉@ななせなつひ @nowar
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