第19話
アパートに帰ってくると、錆び付いて塗料のはがれた郵便受けに一通の封筒が届いていた。見慣れた神経質そうな字と、差出人の名前を見て直ぐに僕は部屋の中に入り、その封筒を破いて中の便箋を取り出した。どこにでも売っていそうな便箋に、定規で線を引きながら書いたような人を不愉快にさせる字で、日付も口上もなくこう書かれていた。
オタトクランに来ている訳じゃないから安心して欲しい。でも君がこの手紙を読む頃には、僕はもうこの世の人間じゃない。別れも告げずに行くことを許して欲しい。
こんなにも意志薄弱な自分に腹が立つし、絶望してしまっている。神経衰弱とはまさにこのことを言うのだと思う。自分は強い人間だと、特別な人間だとずっと信じてきた、だからそれが幻想だと、ただの夏の夜の夢だったんだと知ったときの恐ろしさは、言葉が見つからないぐらいのものだった。今もこれを書きながらそれに見合う言葉を探しているが、どうやら最後まで見つかりそうにない。強いて言うならば、暗い井戸の底でこの世の全てを呪っている。そんな気分だ。
手紙を書くのは君だけだ。遺書は別に用意してあるので、これは単なる友人への手紙だと思って欲しい。手紙を書く相手が君しかいないというのは、寂しいことなのか、それとも光栄なことなのか、そんなことも僕にはもう分からない。物事の分別や判断の基準という物が全て崩壊してしまっているんだ。
君には感謝の言葉しか思いつかない。君は特別な人間だった。僕だけでなく多くの人にとってだ。だから君のこれからが楽しみだし、多くの成功を願い、また同時に確信をしている。
これを投函したら僕の人生は幕を閉じることになる、最後に一つだけお願いがある。別にヴィクターズでギムレットを一杯注文して欲しいとか、僕の分のコーヒーを入れてくれなんて洒落たことじゃない。マディソン大統領の五千ドル札も入っていないから、過度な期待も抱かないで欲しい。そもそも僕はドル札というものを一度も触ったことがない。
お願いというのは簡単なことだ。僕のことを忘れないで欲しいんだ。誰かに話したり、文章に書いたって構わない。君の中で生き続けさせて欲しい。それだけが僕の最後のお願いだ。
君には頼みごとばかりで本当に申し訳なく思っている。一つでも君の頼みを聞きたかった。それだけが唯一の心残りだよ。君に頼りにされたら、どんなに相手は喜ぶだろうか。
僕の遺言として心に留めておいてくれ。
それでは。
それでおしまいだった。
僕は丁寧に手紙を封筒の中に入れてしまうと、冷蔵庫から缶ビールを取り出してそれを飲んだ。缶ビールが空になると、また新しい缶を取り出してきて飲んだ。何本飲んだかはもう覚えていなかった。
僕は何も考えることもなく町へ出た。気がついたらヴィクターズの重い扉を開いていた。席に座るとギムレットを二杯注文した。マスターは訝しげな顔で僕を見ていたが、僕の様子を見て尋常じゃないものを感じたのだろう、無駄な会話は一切しなかった。
いつもならいるはずのアブサンを飲んで眠りについている老人が、今日に限ってはいなかった。そのことで僕は深く傷つき、裏切られたような気持ちになった。二杯のギムレットがコースターの上に置かれ、僕は一杯を隣の席に置いた。
バーには誰も入ってこなかった。僕だけが腰を下ろし重苦しい空気を放っている。
「今日はあの老人はいなんだね?」
僕は沈黙を破って口を開いた。もう喋らずにはいられなくなっていた。
「ああ、あの人はもうここへは来ないよ」
マスターは心苦しそうに口を開いた。彼も大きな悲しみを背負っていた。そのことで僕達はいくらか分かりあえる気がしたけど、どちらもそんな靴の底を舐めあうような安っぽいことはしなかった。
「あの老人が頼んでいた黄色のお酒なんていうのかな?」
「ああ、あれはフランスのリキュールで、スーズって奴だ」
「スーズ」
僕は聞きなれないその宝物のような言葉を反駁した。
「スーズは竜胆の根でできていて、竜胆の花には――友の悲しみに寄り添うって言う花言葉がある」
そこまで言うと、マスターは喋りすぎたと感じたのか、表情を律して口を閉じてしまった。硬く扉を閉めたみたいに。
バーテンダーがお喋りになる夜が一日ぐらいあったっていいだろう。僕はそんなふうに考えた。
スーズを一杯頼んだ。飲み方は任せるとだけ伝えた。
シェイカーのリズミカルな音の後で、黄緑がかったカクテルが背の高いグラスに入れられて、そっとコースターの上に置かれた。
「スーズ・ギムレット、あんたにはちょうどいいカクテルだろ」
僕は一口それを飲んだ。スーズのほろ苦い甘さとライムの酸味が混ざり合って僕の口の中に広がった。確かに、今日のような一日にぴったりのカクテルだった。僕は少しの間、友の悲しみに寄り添った。
その日、僕はどうやって家に辿りついたかを覚えていなかった。何事も無かったように朝目覚めると、真夏の蒸し暑さが続いた新しい月が僕を迎え入れた。
ただ玄関からベッドまで、ナメクジが張ったように濡れて渇いた後とベッドのシーツが湿っていること、床の上で海の孤島のように点在している昨日着ていた衣服が半乾きになっているのを見て、雨に打たれて帰ってきたんだということは分かった。通り雨に打たれたのだろう。
昨夜のことを思い出そうとしても、記憶は粉々に砕けて風に舞い、夏の夜の中に消えてしまっていた。あるいは通り雨に連れて行かれたのか。だから僕は思い出すことを止めにした。それは思いだす必要の無い記憶なのだ。
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