第18話

 八月の最後の日に、僕は向日葵畑以来となる彼女を誘って動物園に出かけた。

 前日に彼女に電話をかけると、彼女は不機嫌そうに言った。


「今まで連絡もくれないで、急にでかけようなんて」


 電話の先の彼女はかなりとげとげしく、受話器の先から突き抜けてしまいそうな声をしていた。


「動物園に行こうと思うんだ。良かったら一緒にどうかなって思って」


 僕は取り合わずに用件だけを伝えた。彼女は分かったと言った。

 彼女を誘うことは僕にはかなり気が重く憂鬱ではあったが、それでも僕は彼女を誘った。何故といわれれば戸惑ってしまうだろう。明確にその理由を述べられる自信は今でもない。でも、もう一度朝顔を咲かせてみようという気持ちになっていたのかもしれないし、ただ責任を取りたかっただけなのかもしれない。そう考えると僕は本当に全てを投げ出したくなる。僕って本当につまらない男だなって思ってしまう。


 駅前のアイスクリーム屋で待ち合わせをした。彼女は花柄のワンピースを着ていて、小さなハンドバッグを腕からぶら下げていた。


「おはよう」

「おはよう。何だかあなたが来ない気がした」

「僕から誘ったのに?」

「でも、そんな気がしたの」

 

 何となくばつの悪い空気が流れていた。僕達は歩きながら動物園を目指した。すでに僕の後悔は絶頂を迎えていた。

 動物園についても会話はなかなか弾むことなく、僕は象の檻の前で腰を下ろすと、ただただ檻の中の象を眺めていた。


「象が見たくて来たんだ」

「象好きなの?」

「いや、全然」

「動物が好きなの」

「嫌いだよ?」


 沈黙。


 象は僕達のそんな雰囲気などお構いなく、のんびりと暢気に動き回り、時折鼻を動かしたり叫び後を上げたりしていた。


「戦争中、象を殺さなくちゃいけなくなったんだ」


 僕は唐突に話を始めた。彼女が聞いていても聞いていなくても構わなかった。とにかく僕は話し始めた。自分に言い聞かせるように。


「でも象は頭のいい動物だから、毒の入った餌は食べない。皮膚も硬くて注射針も入らない。物資が無いから銃など爆薬も使えない。それで仕方なく、餓死させることになったんだ。象が疲労し弱るとどうなると思う?」


 ここで僕は話をしている態を装って質問をしてみた。案の定、答えは返ってこない。


「象は自分の重みに耐えられなくなって崩れ落ちてしまうんだよ。そして一度倒れた象は二度と起き上がることは無い。これが象の最後なんだ。一度倒れたら二度と起き上がれない」


 ここで一旦言葉を閉じた。僕は敬愛の情と熱い眼差しで象を見つめた。


「象には、人に知られずに死ぬ象だけの墓場があるんだ。野生の象は自分の死期を悟ると、群れを離れてそこへ向かい、そこでひっそりと最後の時を迎える。そんな決して人の目につかない象だけの秘密の墓場が」

「本当なの?」


 そこで彼女はようやく口を開いた。


「分からない。今でもそれを探しているハンターがいるらしいけど、単なる御伽噺かもしれない」

「ねぇ、何で私を動物園に誘ったの?」

「分からない」

「私達、一体なんなのかしら?」

「僕は自分のことも分からないんだ、それなのに僕達のことが分かるわけないよ」

「私、実家に帰ることにしたの」

「学校は?」

「辞めたわ」

「お姉さんは?」

「どうでもいいでしょう、そんなこと」

「そうだね」

「止めてくれないの?」

「僕は人の決めたことを止められるような立派な人間じゃない、それに僕が止めたら君は実家に帰るのを止めるのか?」

「優しくないのね」

「優しさを履き違えているんだよ。頭を撫でて甘い言葉を囁くことを優しさとは言わない」

「帰るわ」

「元気で、ありがとう」


 彼女が去った後も、僕は象の折の前でずっと象を眺め続けていた。象の大きくて円らな瞳が、何度も僕を哀れんでいるように見つめていた。その目を長い時間見つめた過ぎたせいか、僕はかなり参っていた。純粋無垢なその瞳によって洗われ、浮かび上がった僕という染みや汚れは、とても醜く穢れ、ねじれ、歪んでいた。心の臓は杭が打ち込まれたみたいに酷く痛み、僕は磔刑を受けている囚人そのものだった。僕は確かに断罪され、糾弾されてもおかしくない人間だった。しかし象のその瞳は僕に許しを与えていた。そのことが堪らなく僕には堪えた。蔑まれ、ののしられ、罵倒され、恨まれ、そして断罪されるほうがマシだった。許されるのだけは耐えられなかった。

閉園時間が来て、僕はようやく思い腰を上げた。


 夕日を背にして長い影と一緒に園内を歩いた。僕は象の墓場を探していたのかもしれな

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