レイヤープラネット

@washiduka

第1話 シフト・エンター


登場人物



門野慧杜(かどの けいと):京都市郊外にあるM市に住む中学一年生の少年。


天音響(あまね ひびき):慧杜の幼なじみ。同じく中学一年生の少女。



   シフト・エンター



(これから僕も少しは男らしくなれるのだろうか)


 既に桜は散ってしまい、アスファルトの上に薄桃色の花びらが絨毯の様に広がっていた。よく晴れた空の下、一人の少年がが通学路を歩いている。まだ身体は細く新品の学ランは少しだぶついていて、これからの成長を見越してあつらえてある事が判る。入学式に会わせてカットした髪の毛は短く刈り揃えており、手には新品の学生鞄を下げていた。


 旧集落の小さなT字路にあるミラーの下で少年は立ち止まり周囲を見回した。一緒に通学する幼馴染みと待ち合わせをしているのだ。


 どうやら幼なじみは、まだ来ていないらしく姿が見えない。少年は、ミラーの下で待つことにした。立ち止まっていると、通学路でもあり駅に続く道でもあるこの道は、多くの学生や会社員が通りがかる。


「よおっ、慧杜。また彼女と待ち合わせかい」


「彼女じゃあないよ。幼なじみ!」


 これは友人達とのいつもの遣り取りだった。中学校に通い始めてから幼馴染みの天音響と慧杜はこの場所で待ち合わせて一緒に学校へ通うことにしている。慧杜と響は幼稚園に通う頃からずっと一緒に行動している。この近所でその事を知らない者は居ないと言っても良い。


「ほんじゃあお先ぃ」


「はいよ。また学校で」


 友人達は先に学校へと向かう。また一人になった慧杜は、響が来るはずの小道に視線を向けた。そろそろ来るだろうと思っていた矢先、一人の少女が駆け足でやってくる。


「おはよ、慧杜」


「おはよう響ちゃん」


 サラサラの黒髪をなびかせて天音響が駆け寄ってきた。身長は慧杜より少し低い。年の割には発育がよく、しばしば年上に見られることがあるが慧杜と同学年である。こちらも新品のブレザーを着て学生鞄を手に提げていた。


 二人は並んで通学路を中学校へ向かった。線路沿いの桜並木も新芽が芽吹いて鮮やかな緑色となっている。時折吹く暖かい風に押されるように二人は歩いた。


「私たち、中学生になっちゃたたねえ。中学生ってさ、もう大人だと思わない」


 どこか楽しそうに響は慧杜に尋ねた。


「なに言ってんだよ響。中学生なんてまだまだ子供に決まってるじゃないか」


 これは社会的に子供という意味だ。もっとも、第二次性徴も殆ど始まっておらず、声変わりもしていない慧杜は、肉体的にもまだまだ大人とはいえない。それでも小学生の時は、最上級生なのだからお兄さんとして行動できた。しかし、中学校に進み上級生を見ていると、自分がどうしようもなく子供に見えてくるのだ。


「大人ってのは、自分で稼いで、家を持ち、飯が食える人のことを言うんだ。僕らみたいに親の庇護の元、勉強できて炊事洗濯をやってもらっている奴を大人とは言えないんじゃあ無いのか」


「そりゃあまあ、そうかもしれないけどね」


「響ちゃんは良いかもしれないよ、その背格好だしさ。所謂、大人に近づいてる実感もあるだろう。それに比べたら僕なんてこのザマだよ」


 慧杜は両手を広げて学ランの袖から少し出ている指先を響に見せた。響にはその仕草がどことなく可愛く見えてしまいクスリと笑った。


「最近は女の子の方が早く大人になるのだよ、慧杜くん」


 親しみと、少々のからかいを含めてふふんと響は胸を張った。


「三年後にはどうなっているか判らんがな!」


 響がピタリと立ち止まり、だぶだぶの学ランに身を包む慧杜を上から下まで視線を動かした。それから、ポンと手を打つ。


「高校生ぐらいになったら大人の付き合いしてもいいかもね」


「なるほど、覚えておこう」


 そのあと、二人は昨日読んだ本の話や発見したweb動画の感想といった他愛もない話をしながら歩いた。学校近くでは登校する生徒も多く、知り合いとすれ違う度に二人は挨拶を交わす。


 校門で朝の挨拶運動をしている先生と挨拶をして下駄箱に向かう。何の偶然か慧杜と響はクラスも一緒なので同じ並びの下駄箱だ。下駄箱のある玄関ロビーには、隅の方に一辺が2メートルほどもある妙に古い木製のジオラマが設置されていた。この地域を端的に表す地形図だ。半世紀以上前の卒業制作で、設置以来ずっとこの玄関ロビーに展示されている。


 古いジオラマを横目に慧杜と響は教室へ向かった。始業開始にはまだまだ時間があることもあって、校内はざわついていた。グラウンドでは陸上部が朝練をしているし、コンクールを控えた吹奏楽部の面々が音出しをしているのが聞こえてくる。


「うちの学校、生徒の四分の一が陸上部に入ってるそうだよ」


 どこか呆れたように慧杜は言った。少し調べて判ったのだが、彼の通う中学校はここ数年陸上が盛んで、多くの生徒が陸上部に席を置いていた。


「文系人間の慧杜君としては入る部活が無くて寂しい限りだね」


「まあね。でも、部活は部員5人と顧問が居れば新規部活として認めて貰えるそうだよ。だから、あと3人同士を募って文芸部を作ったりしたいもんだね」


「私はすでに頭数にはいってるのね」


「響ちゃんには期待してる」


 もともと読書、もといファンタジーが好きな慧杜は、中学には文芸部ぐらいあるだろう。そうしたらおおっぴらに読書三昧としゃれこめると考えていたのだ。しかし、かつてあった文芸部は、部員の減少により廃部となっていた。そこで慧杜は、無ければ作ればいいと、密かに計画を練っている所だった。


 慧杜には幼い頃から無ければ作れば良いという積極性がある。響は小学生の頃、幾つもアニメのフィギュアを作ってもらったり、自作のボードゲームを作ってもらっていた事を思い出した。


「文芸部、出来るといいね」


「なんとかしてみせるよ」


 自信満々に答える慧杜に、響はにっこりと頬笑んだ。


 1年生の使っている校舎の二階、階段の脇にある教室に二人して入った。入り口の古ぼけたプレートには、掠れかけたゴシック体で1-4と書かれている。


 慧杜は響と入り口で別れ自分の席に着き、前後左右のクラスメイトと挨拶を交わした。それから筆箱と教科書類とを手早く机に突っ込み、鞄を机のフックに掛ける。まだ同じクラスになって日は浅いが、人当たりが良い慧杜を嫌うクラスメイトはそういない。始まったばかりの中学生活を満喫しようとする、少し浮き足立った朝の教室がそこにあった。


 教室の中央に掛けられた大きな丸時計が8時30分を指して始業のチャイムが学校中に鳴り響いた。それとほぼ同時に担任の教師が姿を現す。


「お~し、みんな席に着け~」


 何処かまだ眠そうな声で担任の小林が言った。その指示に生徒達は慌ただしく自分の席に着く。上下ジャージにサンダル履きで出席を取る姿は、とてもじゃないが教師に見えない。流石に髭は剃っているが、頭はぼさぼさでどこかだらしなく見える。教師の威厳もクソもあったものではない。何らかの利便性からそのような格好をしていると思うのだが、今の慧杜には到底理解できないものだ。


 連絡事項を確認し、手短に朝のホームルームが終わった。慧杜は、生徒手帳に記入した時間割を見る。英語、数学、理科、社会、体育、技術だ。この日の授業に唯一難点があると言えば体育だ。慧杜は、瞬発力に自信があるものの、持久力が無いので幼い頃から持久力が必要な競技には苦労させられてきた。他の科目も基礎知識とはいえ専門性が高まり、小学生の頃とは比べものにならない難易度となる。とはいえ、今のところ慧杜が勉強で躓いてはいなかった。一を聞いて十を知るとまではいかないが、授業を聞いたらそれで理解できてしまうのだ。だから、慧杜は学習塾などには通っていない。その時間に本を読めればそれで幸せなのだ。


 入学して一月も経っていない授業は、まだ緊張感に溢れていた。生徒達は、一日の授業をこなし放課後を目指す。放課後、それは学生にとって最も開放的な気分となる時間だ。部活のあるものは部活に勤しみ、何をするでもなく帰宅する者もいるし、そのまま塾へと向かう者も居る。また、慧杜のように図書室へ直行するような者もいるのである。


 慧杜は、吹奏楽部の個人練習が聞こえてくる校舎を図書室へ向かっていた。まだ数度しか通っていないが、慧杜はこの学校の図書室を気に入っていた。どういう意図を持って収集されたかは不明だが、一般書に混じり各国の神話やファンタジーやラノベ、果てはTRPGのシステムの類も不断に揃っているからだ。


 慧杜がペンキのはげかけている図書室のドアを開けると、古めかしい本の香りが漂ってくる。


「よーこそ、来訪者」


 司書の天外先生が抑揚のない声で言った。眼球だけがグルリと動いて慧杜と視線を合わせる。この司書の先生は、いつもパリッとしたスーツを着込んで貸し出しカウンターに座っていた。天外は、いつも肘をついてあごの前で手を組んでおり、本を貸し出す処理を行うとき以外ぴくりとも動かない。生徒達が、この先生を実はアンドロイドか何かじゃないかとまことしやかに噂するほどだ。


「ええ、また面白そうな本を借りようと思って」


 慧杜は、鞄から借りていた本を取り出してカウンターに置いた。天外は受け取った本から素早くカードを引き抜き、貸し出しと返却の欄を確認してから凄まじい速度で処理していく。ものの数秒で慧杜が返した本は書架へ返却するためのカウンターに置かれていた。カウンターに置かれた本は、図書委員により速やかに書架へと戻されるのだ。


 その様子を横目に、慧杜は目当ての本が置いてある書架へと向かう。最初は神話や伝承をグルリと見て回る。ギリシャ神話、ケルト神話、古代中国の神話なども揃っている。ふと隣の棚に目をやると、西洋黒魔術に関する本や、拷問器具に関する本も並べられており、ここの司書は何を基準に本を収集しているのか甚だ疑問である。


 物語に登場する魔術や拷問器具に多少興味は有るが、慧杜はその棚を素通りしファンタジー小説の書架へと向かう。そして、書架に収めてある本を右から左に「このシリーズはもう読んだ」とか「このシリーズはまた後で読もう」とか言いながら眺めていく。


 暫く慧杜は立ち読みをし、面白そうな3冊を書架から取り出しカウンターへ持って行った。


「おや、まーた本を借りるのか」


 相変わらず感情のこもっていない声で天外が慧杜から本を受け取った。AD&DモンスターコンペディウムVol.Ⅰ、I.Tyrant、ロックホームのドワーフの三冊だ。司書の目から見てもかなりマニアックな選書に思える。


「ええ。こういうの好きなんです」


 慧杜はそう答えながら図書カードに本のタイトルを書き込んでいく。そのカードを司書に渡すと、天外は返却日の印をカードに押した。


「返却は1週間後だな」


「天外先生、一週間も要りませんよ!」


 カウンターで本を鞄に詰め込み、帰って楽しい読書の時間だと、軽い足取りで図書室を後にした。


「またファンタジーの本とか借りてたの?」


 図書室の入り口を出てすぐのところで響が待ちかまえていた。響は、学生鞄に収まりきらないモンスターコンペディウムのバインダーをのぞき込む。相変わらず好きなんだなと、響は自分の興味に正直な慧杜に感心すら覚えた。


「そうだよ」


「慧杜はそういうの小さい頃から好きだよね。家にも漫画や小説いっぱいあるし」


「なんていうかさ、わくわくするんだよ。響にはわっかんないだろうな、これ」


「わかりませんともー。判ろうと思ったこともあるけど、慧杜の話が長すぎ細かすぎ」


 棒読みで言う響。しかし、どことなく楽しげな表情をしている。響は、自分を飾らないでいられる慧杜と過ごす時間が好きなのだ。


「ねえ慧杜。今度の日曜日、遊びに行ってもいい」


「いいけどさ、日曜日はゲームで遊ぶ予定なんだ」


「ふーん、スプラトゥーンでもするの」


「いいや、サターンのプリンセスクラウンっていうゲーム」


「知らないなあ」


「そりゃあ僕らが生まれる前に発売されたゲームだからね」


「またお父さんのコレクションってわけね」


「そそそ。ドット絵のキャラがよく動いてて作り手のこだわりを感じるんだ」


 慧杜と響は幼い頃から慧杜の父親がコレクションしていたレトロゲームで一緒に遊んだものだ。それは、中学生になったからといって急に変わっていくというものでもない。


「それじゃ、お菓子作って持って行くからね」


「響の手作りお菓子は最高に旨いからな。期待してる」


「期待してて」


 力こぶを作るような仕草をして、響は二の腕をポンと叩いた。


 暫く歩くといつものT字路についてしまった。


「それじゃ、また明日」


「うん、またね」


 響と別れてから慧杜は家路を急いだ。借りた本を早く読みたいという好奇心がそうさせるのだ。


 慧杜は家に帰るとすぐに借りてきた本を取り出した。同年代の友人達に本を良く読むという奴もいるが、自分と同じような本を読んでいると言うことをあまり聞かない。大概はラノベ止まりで、慧杜の読む様な本は押し並べて難しいと言われてしまう。


 慧杜もファンタジーと同じくらいラノベが好きである。ただ、好きなものがどの様なものを参考として作られたのかを知ることも好きなのだ。それが、民話や神話を読んだり、昔のTRPG関連書籍に手を出す切っ掛けとなった。


 机の上でモンスターコンペディウムの巨大なバインダーを開くと、そこには神話や空想上のモンスター達がイラスト付きで紹介されていた。モンスターの生息地や生態が詳細に記載され、慧杜は頭の中で自分ならこの道具はこう使うだの、この呪文ならこう使うだのと妄想するのである。


 ただただ楽しい時間があっという間に過ぎ去っていく。これからも、そんな日々が暫く続いていくんだろう。慧杜は、大好きな本を読みながら、そんなことをフト思うのだった。




 翌日もよく晴れた朝だった。


 結局3冊全部に目を通してしまい、慧杜は眠たい目をこすりながら響を待っていた。


 少し待つと響がやってくる。そのまま二人で登校し、いつものように授業が始まる。そして、いつものように授業が終わり、楽しい読書の時間を迎えるのだ思っていた。慧杜の中学生活は、これから順調に三年間過ぎていくのだろうと思っていた。しかし、そんな幻想は突如として打ち破られることとなる。


 それは、突然やってきた。


 午後の授業が始まり、食後の眠気もあって慧杜がぼんやりと窓の外を眺めていると、ガラスに亀裂が入るような小さな音が遠くから聞こえてきた。全員がその音を聞いていたのか、教師を含めて全員が窓の方を向いた。


「今、ガラスが割れるような音しなかった?」


 クラスメイトの誰かがぼそりと言う。皆が自分のクラスの窓にしたが、割れている痕跡もなければヒビの一つも見られない。


「気のせいじゃないの?」


「でも、この音、収まる様子ないじゃない!」


 その間にも、耳に付く割れているような音は徐々に大きくなってきた。


「外、窓の外をよく見て!」


 窓際の女子が席を立って指し示した先には、まるで高々度の津波の様に暗闇が押し寄せてきていた。


「なんだ、アレ!」


 誰かが叫び、多くの生徒が窓際に押し寄せる。何が起こったのか理解することも出来ず、目を丸くしたまま外を見るしかなかった慧杜に飛び込んできたのは、崩壊していく世界だ。


 ゆっくりと進んできたと思われたその崩壊の後には、真っ黒で何もない空間が残されていく。


 あるものは教室から掛けだし、あるものはその場に崩れ落ちて泣き叫ぶ。教師は、落ち着いて、と叫ぶばかりだ。そんな中、慧杜の所に不安そうな響が駆け寄ってきた。


「あれ、なんだと思う?」


「僕に判る訳無いでしょ」


 緊張感でどうにかなりそうだった。どう見ても、このままでは目の前の崩壊に巻き込まれるのは時間の問題だからだ。


 教室の蛍光灯が全て消えた。発電所や変電所が消えて無くなったのだろう。


「どうすればいいんだよ!」


 慧杜は、怯えた眼で外を見ている響を横目で見た。この、幼馴染みの少女を心底助けてあげたいと思った。だが、あいにく慧杜はそんな力も能力も持ち合わせていない。物語に出てくるような英雄もウィザードもエスパーも居ないこの世界に、この崩壊を止めてくれる者は存在しないのだ。


「慧杜、もうすぐそこまで来てる!」


 響が叫んだ。もう泣きそうな声だ。


「ごめん響。僕、何も出来ないんだ!」


 自然と慧杜は響の手を取ってしっかりと握っていた。何でも出来るように思っていた自分が酷くちっぽけに思える。個人ではどうにもならないことがあると、慧杜は知った気がした。それから、何があってもこの手は離さないと心を決める。


 遠くでは遅く見えていた崩壊は、恐るべきスピードで眼前に迫り慧杜達に襲いかかった。それは、これまで慧杜が体験したことのない衝撃で、まるで凄まじい突風の様だ。一瞬の事に慧杜は腕を顔前で構える。


 構えた腕の隙間から慧杜は見た。ガラスの様に世界そのものが砕け散った後、慧杜の目に映る全ての人間が紙くずのように吹き飛ばされ、世界から引きはがされていくのだ。そして、なんの抵抗も出来ず何もない空間へと放逐されていく。それは、慧杜は勿論、響も同じだ。


 暴風に晒された木の葉のように二人は吹き飛ばされた。慧杜はしっかりと響の手を掴んでいたが、不思議な斥力が働いていた。そのあまりの斥力に耐えきれず、じわじわと響の手が慧杜から抜けていく。


「響、僕の手を掴んで!」


 必死でそう叫んだつもりだったが、口をパクパクと開閉するだけで声は伝わらない。今にも響の手が慧杜の手をすり抜けようとしている。


「またね」


 響は、じっと慧杜を見つめ寂しそうな笑みを浮かべる。その声は慧杜に届かなかったが、慧杜はその表情で事を察した。


「何があってもキミを見つけ出すから!」


 そう言ったときに、スッと慧杜の手から響の手が離れていった。二人の距離はあっという間に離れ、慧杜から響の事を確認することは出来なくなってしまった。


 それから程なくして奇妙な浮遊感が終わり落下が始まった。しかし、不思議と空気抵抗を感じない。上下左右を空間的に把握することが出来ない空間だが、自分を基準にすると周囲の人々が落ちていっているということが理解できた。


 周囲を見回して慧杜は愕然とした。自分の周囲にいた人たちが、落ちれば落ちるほどその姿を変えていくのだ。


 エルフ、ドワーフ、ノール、オーク、ゴブリン、ヒュタカーン、ラカスタ、ホビットの様な亜人種から、キメラ、マンティコア、ガカラーク、キャリオンクロウラー、果てはドラゴンといった伝承や幻想小説に出てくるようなクリーチャーまで視界に入ってくる。


「響、響は居るのかっ!」


 先ほど離れた響に向かって叫んだつもりが声として出てこない。勿論、響の姿を見ることも出来なかった。


 慧杜の周囲にいたクリーチャー達も時が経つにつれ離れていき慧杜は一人きりで暗闇に漂っていた。


 慧杜には、今なにが自分に起こっているのか想像もつかなかった。寒くも熱くもない空間に一人漂っている。そんな状況に、もう元には戻れない、という恐怖感だけがこみ上げてきて、心臓が締め付けられるように痛んだ。


 父さんや母さんはどうしてるだろう。ふと家族の顔が慧杜の脳裏に浮かぶ。


(響はどうなったんだろう)


 慧杜は、最後にそんなことを思って意識を失った。



 丘の中腹に少し開けた草地があった。深夜、周囲に人工的な明かりみられず、星明かりだけが静かに地上へ降り注いでいた。


 そこに学生服姿の慧杜が仰向けに倒れていた。呼吸は正常で、胸の部分が規則正しく上下している。


 そこに柔らかな風が吹き、なびいた草が慧杜の頬に触れた。急激に慧杜の意識が覚醒し始める。慧杜は身体を一瞬震わせるようにして目を見開いた。


 一面の星空が慧杜の目に飛び込んでくる。5等星まではっきりと見える、そんな星空だ。これほど美しい夜空を慧杜は見たことがなかった。


 慧杜は上体を起こし周囲を見た。星明かりを頼りに目を凝らす。暗くて殆ど見えないが自分が木々に囲まれた小さな草地に居ると言うことだけは理解できた。その場所は慧杜以外には誰も居ない。


「おーい、誰か居ないのか」


 声を張り上げてみるが何の反応もない。


 慧杜は、ハッと気づいて自分の掌を見た。タブついた学ランから覗く手は以前と何ら変わることのない自分の手だ。思わず安堵の息を吐く。それと同時に意識を失う前に見た光景が脳裏にフラッシュバックした。もし自分が人間以外の何かに変化していたらと思うと身の毛がよだつ。人間のままで良かったと、心の底から慧杜は思った。


 もう一度慧杜は夜空を見上げた。それは、町中で生活していた慧杜が見ることがなかった満天の星空だ。情報量の多い星空にとまどいながら、慧杜は必死に自分が知っている星の並びを探した。スターコンパスという言葉を知ってはいるものの、その計算方法は厳密に知らない。しかし、自分の置かれている状況が何も判らない中、何か知り得る情報はないかと思ったのだ。


 視線を夜空に忙しく走らせると、見知った赤い星と星の並びを見つけた。


「オリオン座だ……」


 慧杜は小さく呟いた。赤く光るベテルギウスとベルトの位置にある赤い星雲がよく判る。一つ判ると、あとはつるべ式に北極星にカシオペア座、北斗七星などの見知った星座も確認できる。これはつまり、現在自分は地球の北半球にいるということの裏付けでもあった。


 そこで慧杜は考える。周囲の状況が判らないが、世界の崩壊は夢で自分は夢遊病者のように今の位置へと歩いてきてしまったのか。もしくは、いつの間にか誰かに此処へと運ばれてしまったのだろうかというような事だ。


「いつもの妄想じゃあ有るまいし……」


 幾ら考えてもみても結論はでない。慧杜は朝までこの草地に留まり、朝を待って判断することにした。小説で読んだ冒険者達ならそうするだろうと、慧杜は自分に言い聞かせる。 慧杜は徹夜で見張りをするつもりで草地の中央に座り込んだ。


 遠くで何か獣の声がする。風が少し吹く度に木々のさやぐ音か妙に大きく聞こえた。暫くじっと頑張っていた慧杜だが、いつの間にか襲ってきた眠気に船を漕ぎはじめる。いつしか慧杜は座ったまま眠りについていた。



 慧杜の目が覚めたのは、日の出と共に強烈な日差しが瞼を通して伝えられてからだった。気がついて顔を上げると一面の緑が飛び込んでくる。慧杜はそのまま重い腰を上げて軽く身体をほぐした。


 太陽の位置から、現在自分がどちらを向いているのかという事を確認してみる。太陽が昇る東の山々、東から北、西へとぐるりと囲む盆地地形だ。そして、複雑な流れを見せる二本の河川と南に巨大な池が広がっている。池にはもう一本河川が流れ込んでおり、それらの河川は南で合流している。何処かで見たような地形に思えたが、すぐには思い出せなかった。自分がそれほど高い位置に居る訳では無い事も判った。標高にして50メートルといったところだろう。眼下に集落もいくつか散見するが、遠目に見て日本の建築様式とは異なっているように見える。


「ここって、地球だよな……」


 北半球の何処の国だよと、見慣れぬ雰囲気の集落に慧杜は眼を細めた。テレビで見たヨーロッパの風景とも違うし、中央アジアのように乾燥した大地のイメージもない。かといって針葉樹が広がるシベリアという印象も受けなかった。


 飯炊きの煙であろうか、幾筋もの煙が建物の煙突から立ち上っているのが見えた。少なくとも21世紀の日本において、煉瓦造りの煙突から煙の出る家屋で構成される集落が点在しているなど考えられない。


 何を判断するにせよ情報が足りなかった。言葉が通じる保証も無いが、とにかく人と会って現状を確認したかった。


 とりあえず、慧杜は何か自分の荷物が散らばっていないか周辺を探索した。狭い草地の隅から隅まで探してみたが特に何も見つからず、慧杜の持ち物は制服とポケットに入れていたハンカチと生徒手帳。胸に付けた名札のみという事となった。


「こうなってしまったものはしょうがない!」


 慧杜は無理矢理大声を出して自分を鼓舞した。とにかく今は自分しか居ないのだ。持てる知識の全てをかけてこの状況を乗り切らなければならない。


 眼下に広がる集落の方向を確認した。そして、意を決すると慧杜は森の中へと踏み出した。


 人の手が入っていない森というものはかくも歩きづらいものなのか、ということを慧杜は身をもって知らされた。無造作に生えた木々で視界が悪く日中でも薄暗い。加えて伐採されていない細枝には至る所に蜘蛛の巣が掛かっている。さらに不安定な足場である。体力的に下りであるのがせめてもの救いだった。慧杜は枯れ枝を手に蜘蛛の巣を払いながら慎重に斜面を下った。


 暫く歩くと傾斜が緩くなり、木々の隙間から僅かに青空が覗いている。慧杜は立ち止まり一息ついた。この森を抜けるのもあと少しだ。そう思うと、疲労して震える足に力が籠もる。


「よし、行くか!」


 もう一度自分に言い聞かせるように声に出してみる。先を急ごうと踏み出した矢先、後ろから枝を踏み折る音がした。


(後ろに何か居る!)


 心臓が跳ね上がる。慧杜はそっと振り向いたが木々に視界を遮られ視認することができない。


 再び枝を踏み折る音が聞こえてくる。迫ってくる足音に対し慧杜は考える。ここで取るべき選択を間違えると致命的な結末を招きかねない。高鳴る心臓の音と共に緊張感がわき上がり、慧杜の思考は高速回転した。



 選択肢1:この場に留まり、正体不明の存在と接触する。ただし、相手が友好的だとは限らない。


 選択肢2:周辺に隠れる場所を探し相手を見極める。それから接触するか回避するかを判断する。


 選択肢3:一目散に開けた場所へ出る。人家に向かい助けを呼ぶ。ただし、森を抜けた先に都合良く人家があるとは限らないし、自分を助けてくれる保証もない。



 徐々に音が近づいてくる事からゆっくりと判断している暇はない。流れ出る汗が額から頬を伝う。ここで取るべき正しい選択肢は3だと思えた。この様な状況において正体不明の存在と接触するなどもってのほかで、木々により視界が悪いとはいえ咄嗟に身を隠せるような場所を探すことは困難だと思えたからだ。


 意を決した慧杜は身を低くして走り出した。慧杜が走り出した事に気がついたのか、後方から何か叫ぶような声が聞こえてくる。それは、これまで慧杜が聞いたことのない言語で理解できるものではない。


 慧杜は必死に走った。細枝を払いのけ、前につんのめりながら必死に走る。息が切れて苦悶の表情を浮かべて一心に走り続けた。


 最後の木を躱して走り込むと視界が一気に開けた。平地は開墾され、畑が広がっている。集落はまだ遠いが、少し離れたところに小さな小屋があり、前庭の井戸で水をくんでいる様子が飛び込んでくる。


 人間が居てくれた。これで助かったと、慧杜は思った。


「助けて下さい!」


 走りながら必死になって慧杜は叫んだ。聞こえていたら振り向いてくれと、井戸にいる人に向かってもう一度叫ぶ。


 慧杜は、後ろを振り向きもせず懸命に走った。井戸に居る人物は、慧杜のことに気がついていないのか、井戸端から立ち去ろうとしている。言葉が通じていないのかもしれない。


「まって。まってくださいよ!」


 息切れでまともに話せる様な状態ではないが、肺から空気を絞り出すように叫んだ。


 その声がやっと届いたのか、立ち止まった人物がその顔を慧杜に向けた。


 慧杜がやっとの事で駆け寄ってみると、それは余りに奇妙に思える男だった。生気の感じられない落ちくぼんだ眼窩、ひからびた皮膚とやせっぽちの身体。頬の肉はそげ落ち、かみ合わせた奥歯が覗いていた。この様な状態で生きて動いているという人間なんてあり得ない。慧杜の背筋に冷たいものが走った。


 空気が漏れるような呼吸音が妙に耳についた。やせっぽちの男は、ゼンマイ仕掛けの人形が停止寸前に見せる様なぎこちない動きで慧杜に手を伸ばす。青白いオーラが全身から揺らめき立ち、その冷たい手が恐怖で立ちすくむ慧杜の首筋に触れた。


 とたんに全身の力が抜けて、慧杜はお尻からペタリと崩れ落ちた。全身が麻痺したように動かなくなっている。


(前に読んだ本に似たような奴が出てきたな。あれは何だっただろう……)


 緩慢な動きで、ゆっくりと男の顔が首筋に近づいてきた。背後からは自分を追ってきたと思われる足音が近づいてくるのが聞こえる。感覚だけが妙に敏感になっている様だ。


(そうだ、グールだ。人肉を食べてしまうと言う不死者。麻痺毒を使用するというあれだな。でも、麻痺させられて身動き出来ないまま食われるのは嫌だな。身体が麻痺していても苦しくて痛いのはご免だ)


 男の歯が慧杜の首筋に近づき、暖かく脈打つ頸動脈を噛み切らんとしたその時、一条の光が男の頭蓋を貫通した。一瞬間をおいて男は脳漿を地面にぶちまけ、もんどり打って地面に転がる。


 後ろから壮年の男の声がした。外国語だろうか。慧杜が聞いたことのない言語だ。慧杜は後ろを振り向こうとしたが、どうにも身体が動いてくれない。どうやら男が力強く大きな歩幅で近づいてくる。そして、190㎝近くある大男が目の前に来て慧杜を見下ろしていた。深々と被ったフードと逆光で顔はよく見えないが壮年と言うより初老という感じだ。


 初老の男は、もう一度一言二言呟いた。それから、ゴホンと咳払いしてしゃがみ込む。


「大丈夫かい、お嬢さん」


 衝撃的な発言が初老の男から飛び出した。落ち着いた優しい声だったが、何か自分の大切な物を一瞬にして刈り取られたような気分に陥りそうになる。


 さしのべられた男の手は節くれ立っていた。


 そして、慧杜はその男をきょとんと見上げることしか出来なかった。

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