第231話 青薔薇と戦士
英雄くんがオリヴィニスに戻る少し前のことだ。
彼はハイエルフの世界に招かれ、彼らの世界を見てまわっていた。
人の世界にもどることは二度とないだろうと考えていた。
とくに目的のない、この世と別れを告げるための旅だった。
それは鏡のように澄みわたった泉の形をしており、真ん中に銀色の木が生えていた。
泉のほとりで一晩すごすと、心のなかに思う場所へといざなわれ、死者と会うことができるという泉をおとずれるハイエルフはほとんどいない。
長命種の生は長く、心はさまざまに移り変わる。
心のなかにひとりの人を留めておくことはめずらしい。
そういうハイエルフの地にも天秤はあるのだ。
英雄くんは泉のほとりに腰かけ、マントが濡れるのもかまわずに、はだしの足を泉におろしたまま一晩過ごした。
夜になると大気が冷えて、吐息が白くこごえた。
泉も凍りつきそうになるほど冷たく、つま先は痺れるように痛んだ。やがて痺れるような感覚もなくなり、気がつくと燃えるような熱と痛みに襲われた。
じっさいに、周囲は燃えさかる炎につつまれていた。
気がつくとそこは泉ではなかった。だが、そこがどこかはわからない。
それでいて、どこでもある気もする。
見えるのは立ちのぼる煙と、黒く焼け焦げた大地だった。
遠くから砲撃の音が聞こえ、悲鳴が聞こえてくる。
これが心に思う場所。
そう思うと、英雄くんはむなしくなった。
英雄くんは十代の若いうちに冒険者になった。オリヴィニスに行って剣を学び、大陸を歩いて旅をした。冒険者の鉄の掟として、戦争に関わらぬこと、そして人を殺さぬこととあるのは知っていたけれど——。
彼はそれに反する行いをした。
たすけて。
声がした。
炎に巻かれ、真っ黒になった子どもの遺骸が手を伸ばし、英雄くんの足首をつかんでいる。
英雄くんはとっさに手をのばした。
亡骸は触れると崩れ落ちた。炎が頬や体をあぶる。
泉がみせる幻だと知りながらも、助けを求める手をはねのけることができない——それが英雄くんの致命的な欠点でもあった。
「まだそんなことをしているのか?」
声をかけられた。低い落ち着いた声だ。なつかしくもある。
目の前に戦斧を手にした戦士が立っていた。
戦士カルヴス。
英雄青薔薇とおなじ時代を生きた冒険者である。
ふたりはいつもくらべられていた。その強さや生き方を。しかし英雄くんとちがい、カルヴスは常にオリヴィニスに軸足を置いていた。
カルヴスが何を求めているかは、みんなが知っていた。誰もが生ける伝説マジョアの子として彼を見ていたし、彼もその期待に応えようとしていた。
カルヴスの名声がオリヴィニスで高まると、英雄青薔薇はほとんどオリヴィニスには帰らなくなった。
「だって——わたしは戦う力があるのに、彼らを助ける力があるのに、と思うと、どうしてもそうせずにはいられないのです」
カルヴスはため息を吐いて、青薔薇の体のあちこちで燃えている火を、煤を払うように、その武骨で広い手の平で叩いて消した。
十八歳の姿で時を止めた英雄くんと大柄なカルヴスが並ぶと、細身の英雄くんはますます子どもじみて頼りなさげにみえる。
「前もそんな話をしたな。なつかしい」
「はい。でも、正直いって、あなたが来るとは思いませんでした」
カルヴスが生きているとき、ふたりはこれといった接点はもたなかった。
しかし同じ時代を生きた冒険者どうし、何度もすれ違った。そしてふたりがする話はいつも同じだった。
「英雄青薔薇——いや、リヨット。オリヴィニスに戻ってこい」
その話をするとき、英雄くんは弟子たちを遠ざけていた。
カルヴスもパーティの仲間からは離れ、ひとりきりだった。
「オリヴィニスにもどり、冒険者をやれ。戦争には金輪際かかわるな……と何度も言ったのに、お前は帰ってこなかった」
カルヴスは深いため息を吐いた。
英雄くんの返事はいつも同じだった。助けを求める声を無視することができない——冒険者として大陸を歩けば、そこに平和だけがあるはずもない。いやでもつらく悲しいものごとを見聞きしてしまう。手を貸すうちに深入りし、気がつけば人を殺している。
あまり知られてはいないが、カルヴスは自身が若くして死ぬまで、そんなリヨットをオリヴィニスに連れ戻そうとしていたのだ。
「あなたこそなぜ、なんども私を引き留めようとしたのですか」
「それはもちろん、お前が強いからだ。弟子もたくさんいて、慕われている。お前なら、やれると思った。つまり、次の冒険者ギルドの長に……マジョアの後継者に」
「それは貴方の夢だ」
そう言うと、いまは亡きカルヴスの魂は苦々しい表情を浮かべ、居心地が悪そうにして手近な瓦礫に腰かけた。
「そうだ。俺の夢だ。俺の、叶えられなかった——叶えられるはずもない夢だった」
「あなたはそうなるよう望まれていたでしょう? 次期ギルド長にと」
「それがそうでもないんだな、これが」
カルヴスは笑っている。
「自分で言うのもなんだが、たぶん、冒険者には向いてないんだよ。強いのは強いが——冒険者に大切なものは腕力ではない。俺はマジョアがオリヴィニスの生ける守護神とあがめていたメルメル師匠にも嫌われていた。その弟子にもな。オリヴィニスとはとことんウマがあわなかった」
「そんな。たったそれだけのことで?」
「息子とも仲違いをしたままだが、それもたったそれだけのことか? ——あれだけ冒険者や、オリヴィニスのことを愛した息子が、次期冒険者ギルド長候補の父親のことをひとつも愛さないんだぞ。かなりまずいだろう」
「それは私にはなんとも……言い難いお話ですよ」
「そうだろうとも。お前は家族をつくらなかったからな」
カルヴスの指が伸び、英雄くんの耳に飾られた女物のイヤリングを弾いた。
「だが、お前がもし家族をもったら、うまくいっていたはずだ。俺にはどうやら人として何か足りないものがあるらしいが、それをお前はもっていると思う」
「私は単なる人殺しです」
「何をめそめそとしたことを言いやがる。向き不向きと、そいつ自身がいまどこにいるかはとことん違う話だろう」
「……私がギルド長になったら、あなたは何をなさるおつもりだったのですか」
「そうだな。戦士ギルド長あたりにおさまるのが関の山か。でもな、それも向いている気がしないんだよな。ジデルあたりには蛇蝎のごとく嫌われてるしな」
カルヴスはため息を吐いた。そのため息の吐き方だけはマジョアに似ていると英雄くんは思ったが、言わないでおいた。それよりも、死んでもまだ繰り返し同じことを言う魂に、話しておかなければならないことがある。
「実をいうと、私は一度、ギルド長候補として名前があがっているのですよ。まあ、でも、あなたがいなくなって候補がほかになく、消去法でって感じでしたが……」
「ほんとうに? どうだった」
「全員一致で否決されました」
「あいつら目玉がついてないんじゃないか。英雄青薔薇だぞ? 逆に誰だったら納得するんだよ」
英雄くんがハイエルフの世界に去るかどうかを考え始めた頃あいだった。
英雄青薔薇は戦に深く関わりすぎ、たとえ次のギルド長に選ばれたとしても、オリヴィニスによけいな火種をもちこむのが目に見えていた。
英雄くんはカルヴスの隣に腰をおろした。
姿かたちは生前と同じでも、どこか質量に欠ける魂だけの存在と、ぼんやりと燃える荒野を眺めていた。
火には、新しい火はない。
星とおなじで、古い時代に燃えていた火も、いま目の前にある火も同じものだ。
だから燃えているのはいつかグリシナを焼きはらった炎と同じ種類の火だった。地面に朽ち果てているものも、滅びた王国に散らばっていたものとおなじ、希望や願いのなれの果てだった。
「戦争は楽しかったか?」
カルヴスがたずねる。
「いいえ。なにひとつ……。人を救うためにとは言ったものの、戦えば戦うほど人は苦しみ、必ず死ぬのです。信じてついてきてくれた弟子も何人か失いました」
「だろうな。俺も、おまえが楽しんで戦をしているんだったら、何も言わなかっただろうさ」
「旅は……あなたの旅は楽しかったですか? カルヴス」
立ちのぼる煙のあいまに星々が見えた。
答えはいつまで待っても返ってこなかった。マジョアの後継者として、オリヴィニスを代表する冒険者としてすべてを経験したはずなのに。
英雄くんがみると、カルヴスはくらい目つきで、同じように空を眺めている。
「……俺にとっての旅は、マジョアの後を継ぐための旅だった。ほかに並みいる冒険者たちに、自分こそがその座にふさわしいと見せつけるためだけの旅だ」
名誉を得るためだけに、竜を殺したと彼は言った。
「それと戦争と何がちがう? 何も違わないさ。たぶん、俺たちは選択をまちがえた。何かほかに——すべきことがあった。そう思わないか?」
そのとき英雄くんははじめて、戦士カルヴスの心のうちを理解したと感じた。
なぜ彼が、パーティメンバーでもない、友達でもない、英雄リヨットを冒険者の街に戻そうとしていたのか少しだけわかった気がした。彼は自分のまちがいを正したかった。でもそれは手遅れだと感じていたからだ。
だから、泉にまであらわれた。
「お前は俺とはちがい、まだ生きている。まだまにあう。オリヴィニスに戻れ。そしてマジョアと、あの街の助けになってくれ」
夜が明けてカルヴスは消えた。
幻もすべて消え去った。英雄くんは一度はこれよりもずっと深い旅に出かけたが、オリヴィニスが魔烏に飲みこまれる予知を見て、戻ると決めた。
そこには明確な意志があった。
はじめて自分ひとりの意志でそうすると決めたときのような気持ちだった。
*
レヴェヨン城に次々と冒険者が到着し、資材が運びこまれる。
午後には後発の便もとどく手はずになっている。
マジョアと英雄くんは、ほかの冒険者たちから離れたところで話をしていた。
「ハイエルフの地で、カルヴスの魂と会いました。あちらの世界の天秤の力です。故人の眠りをさまたげてしまい、すみませんでした」
英雄くんはそう言い静かに頭を下げた。
ひさしぶりにカルヴスの名前を聞き、マジョアは少し苦い表情である。
「そうか、なぜそれをわしに?」
「少し罪悪感があったのと——あなたが私の処遇に少し悩んでおいでなのではないかと思ったからです」
「……悩んでおるというよりは悩まされているというのが正解じゃな」
「弟子たちが暴走したのは本当に申し訳もないことです。よく言ってきかせますが、きくかどうか。いい大人ですからね、みんな」
「人のいうことをきかんというのは冒険者全体の問題じゃ。ワシの息子もそうじゃったな。カルヴスはなんと言っておった」
「わたしに旅に出るなと言いました。オリヴィニスに留まり、あなたを助けよと」
「じゃから戻ってきたのか。わしの後を継ぐつもりかね」
「おわかりのとおり、それはあまり良い未来とはいえないでしょう」
「以前とは状況もちがう。歓迎するぞ」
「……そうしても構いません。ですが、ひとつだけお願いがあります。あなたとメルメル師匠に、たってのお願いです」
「なにが望みじゃ」
「ひとつだけ欲しいものがあります。それをくだされば、この英雄青薔薇、よろこんでオリヴィニスのために働きましょう」
英雄くんは言った。毅然とした態度で、そこには強い意志があった。
それは彼にしてはめずらしいことでもあった。
どのような旅に出るにしても、彼が心からそれを楽しんだということは、これまでなかった。だが、英雄くんははじめて旅に出る若者のように輝かしい希望に満ちた笑顔を浮かべていた。
「戦士カルヴスの魂を私にください」
靴を履いて旅に出て、鞄に荷物を詰め込んで 実里晶 @minori_akira
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