第十二章

 目が覚めると窓の外はいよいよ本降りの雨となっていた。

 『ざあざあ』というよりはどこか『どたどた』とさえ聞こえる雨で、側溝から溢れ出る茶色い水は、幼い頃、小学校の帰り道、長靴で深さを計ったそれを思い出させた。

 これなら蝉の鳴き声の方がまだ風流だ。

 それでも雨音は雨音でこの季節の雰囲気を色濃く写すものには違いないのだが——。


 ざっと外を見た後、またベッドへと腰掛ける。

 まだ朝食までには時間があるようだ。

 僕はぼっと外を眺めながら、昨夜の京子さんのことを思い出していた。

 どことなく儚げで、いつもよりか弱く見えた彼女。彼女が『甘えてるだけ』だなんて口にしたことが、僕の中で不安を膨らませていた。


 彼女がそんな弱気に見えたことがあっただろうか?

 いやそれはきっと違うのだ。

 きっと彼女が弱気になったのではなく、僕が強気になったから彼女が弱く見えるのだろう。

 どことなく『男』としての自覚が生まれ始めた僕の心は、彼女のことを確かに『女の子』として認識し始めていた。

 守るべき人——。


 昨夜彼女が寝ていた部分をそっと触ってみる。もちろん最早温もりは無いのだが、それでもどこか彼女に触れているような不思議な感覚を感じた。

 自然と小さな笑みが漏れる。少しだけ恥ずかしく感じながら、逸らした視線の先には彼女が持ってきたノートが置かれていた。

 『朝になったら読んで』そう言われていたことを思い出し、そっと手に取りページを捲る——その刹那、いつもより長い文章が目に入り、思わず驚きながら見入ってしまっていた。


 『昨日、君と初めて肌を重ねて——。

  嬉しかった、嬉しかった、本当に嬉しかったよ。

  小さな頃から夢見ていた通りだったんだもの。

  まるで物語の世界に入ってしまったみたい。

  あの後、本当はね、私も君と一緒に寝ていたかったんだよ。ずっと。

  だけど、そんなに幸せだと怖くなっちゃうから……。ごめんね。

  私は部屋に戻っても一人で嬉しくて、笑顔が零れてしまうのを、

  布団を被って隠してしまったくらい。それくらい、幸せだったんだ。


  そうして——あれは深夜だったけど、

  まだ雨が降り出す前で、少しだけ月明かりもあったな。

  私の部屋のね、扉が開いたの。

  最初は君が来てくれたのかも……って思ったんだ。

  看護師さんの見回りかもしれなかったんだけど、

  不思議と、君だろう——って。


  でも違ったんだよ。

  そこにいたのは——

  君は信じてくれないかもしれないけど——

  紅色の着物を着た少女だったの。


  どうしてこんな娘が——って思ったけど、

  何故だか違和感は感じなかったのね、彼女がそこにいることに。


  「どうしたの? どこから来たの?」


  って私が話しかけるとね、彼女、小さな声で囁いたんだ。


  「わらわはクライベ……」


  って。

  変な言葉遣いで、すごく冷たい目だったけど、不思議と怖くはなかったんだ。

  そしてね、私のことが必要だって言うの。


  「抗えぬ運命の最期にわらわに尽くしてみぬか?」


  ってね。

  それで私が何のことだか解らないまま黙っていると、

  突然彼女が泣き出しちゃったの。

  さっきまでの冷たい目が嘘のように、後から後から涙を溢れさせながら、

  『すまぬ、すまぬ』って、『そなたを苦しめるつもりは無いのじゃ』って。


  私、もう訳が解らなくなっちゃって、

  気が付いたら彼女のことを抱きしめてたの。

  何故だか彼女のことがすごく可哀想に思えて……。

  そしたらね、彼女、泣きながらこう言ったの。


  「わらわが不甲斐ないばかりに……すまぬ。

   ただせめてもの償いに、一つだけ……そなたの……」


  そして泣いて泣いて泣いて、考えた末に君の部屋に行ったの。

  冗談を言うために……。


  もうわかるよね。きっとそういうことだったんだ。

  ううん、君が違うって言っても、私はそう思うの。

  この信じられない出来事って何だと思う?

  私はね、これが奇跡なんだって感じたんだよ。

  だって……嬉しかったんだもの。

  彼女が何者で、どこから来たのかっていうことはあまり気にならないの。

  だって何となくわかるから。


  私はね、『生きている理由』が解らないまま、

  自分の最期の時を迎えるのがすごく嫌だったんだ。

  だから抗って抗って、出来ることなら

  このままずっと……って思ってたんだよ。

  だけど……もう解っちゃったよ。

  きっとね、多分だけど、あの娘は神様なんだよ。

  神様が最期に私にヒントをくれたの。

  私が今『生きている理由』って一体何なのか。


  もちろんそれに気付いた一番大きな原因は、君に出逢えたことなんだよ。

  あの日、あのベンチでね。

  出来れば今日も行きたかったな。雨さえ降ってなきゃね。

  君のあの横顔、大好きだったんだ。

  いつも沈んでる表情の君が、すごく穏やかになって、

  きらきらと反射する夕日で髪を黄金色に染めて、

  ちょっと目を細めて、私に笑いかけてくれるの。『ははは』って。

  その度にね、胸がきゅんってしたよ。

  本当に。ちょっと恥ずかしいけど……私もやっぱり女の子なんだよ。


  だから、もう一回、行きたかったなぁ、ベンチ。

  だけど、それはもう我慢するね。

  その代わり、最期に君に甘えさせてね。

  どうしてももう一度君に逢いたいの。

  ごめんね、私のわがままだよ。


  どうか、あのベンチで見せた様に、穏やかに生きてね。

  強くなくて良いんだよ。穏やかに生きて。私の最期のお願い。

  可愛い君が大好きだったよ。


  京子』


 『今日、私は気付きました。

  いつも薄いベールの向こうに隠れていて、誰もが捜し求めるもの。


  神様、今まで貴方の存在を疑ってごめんなさい。

  神様、貴方という存在に心より感謝します。


  私に気付かせてくれたこと。

  私に教えてくれたこと。


  私が生きている理由。


  同時にそれは——

  私が死んでいく理由。』


 読み終えた後、しばらくは体が動かなかった。彼女が何を言いたいのか、それを理解するのに、僕の頭は驚くほど速く回っていただろう。それでも全てを理解するのには時間が必要だった。


 突然、反射的に体が動いた。

 彼女の部屋に行かなければ——。

 彼女が自ら命を絶つ様なことは絶対に無いと分かっている。しかし、この文面は明らかに自分の最期を僕に告げる、そう遺書のようなものではないか。

 その意味は分からないが僕は慌てて彼女の部屋へと向かっていた。


 ノックをして、返事を聞く間も惜しむ様にドアを開ける。

 刹那、強い潮の匂いと雨の音が、僕の嗅覚と聴覚を刺激した。

 ほんの少しだけ開けられた窓が目に入る。

 しかしベッドの上に彼女の姿は無かった。

 きっと飲み物でも買いに行っているのだろう。

 そう思い、そのまま部屋で待つことにする。

 そっと窓を閉じて、ガラス越しに透過してくる雨音を聞きながら、目を閉じて彼女を待っていた——。


 しばらくして静かにドアが開けられる。不意に笑顔になりながらそっと瞳を開けた。


「京子さん、どこに——」


 しかし、僕の目の前には驚いた顔の看護婦さんが立っていた。


「光一君、もう起きてたの?」


 どこか慌てながら、この場に相応しくない台詞を口にする。


「あの……京子さんは……?」


 僕の質問に一瞬にして顔色が変わる。それだけで答えが分かってしまうかのような——。


「あ……あのね、西沢さん……昨日の深夜に急に発作が……それで、そのまま亡くなったのよ……」


 いつもの明るい表情からは想像出来なかったような顔をして、涙を溢れさせる。冗談だと信じたいのに、その看護婦さんの態度がそれを拒んでいた。


「そ……そんな……。亡くなったって……? 昨日の何時位ですか?」


 一瞬で溢れ出す涙を抑えられずに、最早『ああ、なるほどね』とは思えない自分がいた。何の実感も湧かないのに、涙だけは溢れ続ける。

 同時に最後に部屋から出て行った時の彼女の表情が浮かんだ。『早く会いたい』って言ってくれた、『愛してる』って言ってくれた彼女の表情だ。


「深夜二時位だよ……」


 言葉を失いながら、溢れ出る涙を止められずに、彼女のベッドに突っ伏してしまう僕がいた。窓外の雨音は、相変わらず耳に喧しくこびりついて離れなかった……。




 その後、僕の体は順調に回復していった。

 相葉先生が言うには『心臓神経症』という心の病だったんだろう——と。

 でも、あれだけ検査でひっかかっていたのに、そんなはずは無いんだが——と訝しがっていた。

 医者だけに『奇跡』という言葉は使わずに——。

 ただそこに存在していたのが『奇跡』であることは、誰の目にも明らかだと思えた。

 奇跡がくれた命。

 彼女がくれた命。

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