第一章
真夏というにはまだ少しだけ早い季節だった。
それでも僕の体はこの暑さを真夏だと捉えていた。
それは僕だけではなく、そこの木に止まっている蝉たちも同様だ。
みんな冬眠から覚める時期を間違えたことを恨むかの様に鳴き続けている。
いやしかし、成虫になってしまった彼らの命も長くは無いのだ。
それならそれで目覚める時期など関係ないのだろう。
彼らが鳴くのは、それが彼らなりの一生の過ごし方だからだ。
一瞬一瞬をただこなしていくだけで良い——ただ惰性で——そういう意味でも僕と彼らは同様だ。
残りの時間を惰性で過ごしていけば、あっという間に人生が終わってしまう。
僕はつい先日、心臓の病だと宣告された。
『治る見込みはまるで無い。もう長くはないだろう』と。
まだ16に満たない僕が——だ。
その時の感想は『ああ、なるほどね』
ああ、なるほどね。いつだって僕はそうだった。
薄々勘付いていたせいもあるし、僕自身が無感動なせいもある。
実は僕の父が心臓の病で死んでしまっていたのだ。
それは今から5年程前のこと。
その時の感想も『ああ、なるほどね』
そして医者から遺伝性の病気だと言われ散々検査を受けたのに……。
正常だと判断された検査から3年程経った頃、最初の症状が出始めた。
俗に言う不整脈だ。
時々、動悸がして息苦しくなる。
そんな体を酷使しながら、僕は今日まで生き長らえてきたのだ。
言わば騙し騙し……。
もちろん何度も病院には通ったし、検査だって繰り返した。
その度に医者の口からは『あまり無理をしないように』と言われていた。
それが先日の検査で、いよいよ心臓が危ないと宣告されたのだ。
そのせいで——養生のための綺麗な空気とたくさんの緑があるという理由から——僕はこんな田舎の病院に連れて来られていた。
……学校も辞めた。
ここは何もない村だ。
民家さえも疎らだし、この三階の窓から見える範囲の視線は、必ず遠方で山にぶつかる。
この病院以上の高さの建物が無いのだ。
最初は盆地の村かと思ったのだが、看護婦さん曰く、『廊下を挟んで反対側の部屋からは海が見えるのよ』だそうだ。
その他、窓から見えるものとしては、田んぼ。
視界を横切る一本の線路。踏み切り。無人の駅。
そこから伸びる舗装されていない道。
申し訳程度の商店街。疎らな民家。
向こうの山にある神社。その神社へと上がる長い階段。
その山の頂上にある一本の大木。
空。雲。太陽。
そんなものだ。
こんな所で人生を終えるのはほんの少し不服だったが、それも運命だと思って受け入れよう。
悩んでも始まらない。とにかく僕はもうすぐ死ぬのだから……。
コンコン。コンコン。
「光一君、検診の時間よ〜」
ここに来て3日目。
最初は『大木さん』だったのが、今では『光一君』だ。
田舎の人々はどうしてこんなに早く打ち解けられるのだろうか?
人が少ないから? もちろんそれがかなり大きな理由だろう。
それでも、この20代後半の美人な看護婦さん——世間一般では最早『看護師さん』と言うべきだろうが、この人はまさに『看護婦さん』と言う呼び名がぴたりとはまっているため、僕はそう呼ばせてもらう——に慣れ親しんでもらえるのは悪い気もしないし、寧ろ僕自身もどこか浮かれるところがあって、小さな幸せを感じられるのだった。
「あ、どうぞ。お願いします」
「はい、体温計。変わったことはないですか?」
差し出された体温計を脇に挟みながら、変わったことが無いか考える。
「え〜っと、今朝はそこの踏み切りで待っている人を見ました」
僕が今朝起こった変わったことを話すと、看護婦さんは目を丸くして、その後吹き出してしまった。
「うふふ、それはタイミングの悪い人がいたものね。確かに変わったことだわ」
「でしょう? この村に来て初めて見ましたよ。あの踏み切りに引っかかってる人」
あんな二時間に一本通るか通らないかの電車に——。
「是非、私も見てみたかったな。ま、駅の向こうの誰か、でしょうけど……。で、君の体で変わったことは無い?」
「え? あ、僕ですか? はい、特に問題ありませんよ」
「そう、なら良いんだけど——そうそう、あまり部屋に篭りすぎも良くないわよ。君、ここに来て3日間部屋から出てないじゃない。歩けるんだから、たまにはお散歩でもしてみたら?」
外の日差しと蝉の声を考えると、正直言ってあまり気が乗らなかった。
それでも体がなまってしまっていたのは事実だった。
「そうですね——じゃ、後から出かけてみますよ。ただ、夕暮れ時じゃないと暑そうですね」
看護婦さんは軽く微笑んだ後、『私だって昼間は出たくないものね』と言って部屋を出て行った。
夕暮れ時か……。
その時間までお気に入りの小説でも読もう。
ふと気が付くと、外の景色は既に茜色に染まり始めていた。
何となく面倒だと感じながらも、看護婦さんとの約束の手前、おずおずとベッドを抜け出す。
運動不足でなまった体を引きずるようにして階段を下りる。
とてもこの年齢の体だとは思えない。
僕はすっかり慣れてしまっているが、もし僕と同じ年の人がこの体に入ったらきっと驚くことだろう。階段を降りきる頃にはほんの少し動悸が始まっていた。
「——ふぅ〜〜」
意識して深呼吸をする。どうせいつものことだ。すぐに治まる。
いつも通りのことを考えながら、病院の裏口を抜け、裏庭へと出た。
こちら側は海側であるせいか、潮の匂いを強く感じる。
その匂いの中、いつもは白い壁が朱色に染まっているのもなかなか趣があって良い。
申し訳程度に植えられた木々も心なしか活き活きと輝いて見えた。
確か、中ほどにベンチがあると聞いていたけど——。
「——っ!?」
思わず息を呑んだ。
全ての世界が茜色に染まったかの様な裏庭で、ほんの少しだけ暑さも和らいでいた。
同じ様にほんの少しだけ蝉も遠慮していた。
そんな夏の夕暮れ、一欠けらの静寂の最中に——彼女はいた。
片方の手にノートを、もう片方の手にシャーペンを握って、何かを考え込むように目を閉じている。
声をかけるのも躊躇われる様なその仕草は——まるで……。
「……? あら……こんにちは」
僕の気配に気付いたのか、彼女は何気なく振り向いてそう言った。
肩より少しだけ長い髪がはらりと滑る。
「あ……こ、こんにちは」
それが僕と京子さんの出逢いだった。
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