第八章

 今日も午前中から小説を読んで過ごしていた。

 京子さんが言うには、養護学校の生徒がやってくるのは午後からとのことだったので、昼食過ぎくらいに彼女の部屋で待ち合わせることにしているのだ。


 だからそれまでは読書である。

 残り少ない時間で一冊でも多く、名作——必ずしも良いものとは限らないが、有名という意味での名作——と呼ばれる本を読んでおきたいのだ。

 それは病気とかこの病院とかそういったもので外界との生活を遮断せざるを余儀なくされた僕が、唯一外の人々の考えに触れ、思考することが出来る時間だからだ。

 それも長い時間、何度も読み返され、それでもこの時代に存在している、いわば時間の試練に耐えてきた本ならば尚更だ。


 そういうことを考えながら読書を続ける。

 彼女が嫌いと言った最後の行為を行った文豪の本を——。


 その文豪の心は果たして蝕まれてしまっていたのだろうか?

 僕自身、自分の心が、この心臓と同様に、蝕まれ始めていることは気付いていた。

 いや、蝕まれるという表現は少し微妙かもしれない。

 こういう状況に立たされた時、きっと正常であればあるほど、心は自分を守るために少しずつ壊れ始めるのだ。

 それはまず死に対する恐怖を飛ばし、死に対する憧憬を生み出し、今では死を渇望する気持ちさえも現れ始めている。


 人はそうやって心を壊さないように、死へと近づいていけるのだ。

 その目的や手段は人によって違う——例えばそれは病苦だったり、或いは理想の為だったり、才能の枯渇感だったり——かもしれないが、この心を壊さずにという部分がとても重要なのだ。


 僕が自分を殺すとしたら——この状況は既に病気という名の自殺だと言っても良いだろう——至極冷静に行為を行うだろう。

 発狂とか狂気とかそういったものとは無縁な、一番遠い場所で死んでいくのだ。きっとそれが多くの文豪たちも望んだこと——安らかなる未来——だから。


 そういう意味では今読んでいるこの小説が終わらないのは、少々気がかりだった。このまま死んだら決して安らかではないだろうな——と。

 かろうじて自分の命を繋ぎとめているものが、この一冊の文庫本なのだと思うと少し可笑しくなってしまう。

 死ぬからには安らかでありたいものだ。


 そう考えた後、僕はまた自嘲気味に笑った。

 『残されたくない』などと考えていた僕が、『残される者』のことを考えてしまったからだ。

 つまり心残りは小説だけではなく、明らかにもっと重要なファクターがあるのだ。

 どうすれば良い? 先か後か? どちらが幸せか?


 死んだ後の世界がもしも何も無く、空虚な空間、混沌とした靄の様な、有形無形の存在しない世界であるのならば、先に逝くのは幸せなことかもしれない。

 ただし、もしもその大前提が覆り、死んだ後、ふわふわとその辺りを漂う、ただの一意思と成果て、彼女の死まで見守り続けることになれば……その世界を知らずに後から逝く方が幸せだろう。


 そこまで悩んだ挙句、今日の考察を止めることにした。

 それは答えの出ない命題なのだから。

 先か後か。

 それは古今東西問わず、小説、演劇、映画などで、そのどちらの立場も語られているのだ。

 生きている人間と死んでしまった人間を結び付けた時点で、そのどれもが推論の上に成り立っている以上、この考えには答えが無いのだ。

 特に死が目前に迫っている人間などには——。


 昼食を食べ、待ち合わせの時間までぼっと窓の外を眺めていた。

 今日も天気が良いせいか、遠くの山々まで美しく見渡せる。

 そうして目を凝らして景色を眺めていると、珍しいことに神社への階段を上っていく人が見えた。

 この病院に来て、あの神社に上る人を見たのは初めてだ。

 彼は随分と辛そうに上っていき、途中で座り込み何かを取り出したようだ。

 煙までは見えないが、仕草から察するにそれはどうも煙草らしい。

 彼はその煙草を吸った後、やはりまた辛そうに上り始める。


 僕は……あんな風にはなれないかもな。

 そんな考えが頭を過ぎる。不思議と彼を応援する気持ちになっていた。

 彼が上り終えたのを確認して、そっと立ち上がる。

 僕も彼女の部屋へ行かなければ……。


 僕がノックをして入ると、彼女も食後の一時を楽しんでいるところだった。

 一度僕の方を見て『いらっしゃい』と言った後、また窓の外に目を遣る。

 僕も何となく彼女に倣って、いつもの椅子から窓の外を眺めた。


 中庭の申し訳程度の緑の向こうには、防風のために植えられたと思われるむせ返るような緑がある。夏の日差しの直撃を受けるそれらの色は、いつもより明らかに色彩を増していた。

 その暑苦しい風景の更に向こうにはきらきらと光る海が広がっている。

 そのもっと向こう、海の真上には真っ青な空の中に不思議な形をした入道雲が浮かんでいた。


「ここはそんなに南じゃないから、あんな雲は珍しいんだよ」


 突然彼女が口を開く。確かに今見ている雲は透き通る空に遠近感を失わせるほど見事な入道雲だった。


「そうですね。本当に綺麗な雲だな」


 そう言いながら彼女の方を向くと、いつの間にか彼女も僕の方を見ていた。

 何気なく視線がぶつかってしまう。

 その顔は半分ほど影になっていて、眩しくはないはずなのに少しだけ目を細めていた。そのまま気まずくなって、僕の方から目を逸らす。彼女のことを意識している証だ。


「うふふ、君は南の方はどこまで行ったことあるの?」


 唐突に持ち出された話題よりも、また彼女が話を振ってくれたことに驚いてしまう。最近は本当に会話が増えていた。


「そうですね……。鹿児島まではありますよ」

「そっか……。私はこの村より南は行ったこと無いんだよ」


 それから僕たちはお互いの旅行談で盛り上がった。

 と言っても、彼女は中学校の修学旅行で京都に行ったのが最北とのことで、それより他に旅行はしたことがないと言うことだった。僕の方もそんなに旅行経験があるわけではなく、北は埼玉までしか経験が無い。

 それでもこの旅行談でしばらくは時間を潰すことが出来た。


「それにしても、本当にこの村は暑いですよ。南国みたいです」

「そうなの? 南国って湿度が低いって言うじゃない? ここは蒸し暑いんじゃないかな?」


 クーラーが効いた病室で、外の景色を眺めながらそんなことを話していた。

 そうこうしているうちに、何だか廊下の方が騒がしくなってくる。


「あら、みんなそろそろ来たのかな?」

「あ、もうこんな時間ですね」


 時計は予定の時間をほんの少しだけ回っていた。

 彼女曰く、『みんなは休憩所でちょっとしたレクリエーションをするのよ』だそうで、僕たちは参加するのも何となく躊躇われることから、この部屋で彼女の知り合いが来るのを待つことにした。


 コンコン。コンコン。

 ノックの音に、彼女がいつも通り返事をする。


 そうして入って来たのは、予想と違い男性だった。

 年齢は20歳前半くらいだろうか?

 先日会った雪菜さんよりも少し上だと思えた。

 綺麗な顔をした人だ。切れ長の目と、男性にしては少し長めのさらさらの髪は、遠目で見たら女性と間違えるかもしれない。


「京子、久しぶりだな」


 言いながら、僕に気が付いたのか、軽くお辞儀をする。


「あ、初めまして。すみません、京子一人だと思ったので……」

「いえ、こちらこそ初めまして。えっと……」


 僕が言葉に窮していると、同じ様に驚いた顔をしていた京子さんが、


「あ〜、沙耶君。久しぶりだね。今日はどうしたの?」


 顔中に喜色を漏らしながらそう言った。本当に嬉しそうだ。

 沙耶君と呼ばれた男性は、そのシャープな顔に笑顔を作って、


「ん、ああ、仕事が一段落してな、休暇取れたんだよ。で、そちらは……?」

「あ、同じ病棟の大木君。最近入院した子なんだよ」


 僕の方を向きながら、『ねっ』と言った感じで顔を傾ける。

 僕は彼女に微笑んだ後、沙耶さんの方を向いた。


「初めまして、大木です。じゃ、僕はそろそろ部屋に帰るんで……」


 彼女と一緒に友人に会う約束はしていたのだが、沙耶さんの前だと何となく気後れしてしまい、強引にでも帰ろうと思った。やはり格好良い人や大人の人の前では自分の情けなさが目に見えてしまうのが嫌だった。


「いえいえ、そんな……。こちらこそ、お邪魔しちゃって……」


 沙耶さんも気を遣ったのか、慌ててそんなことを言う。


「あ、君は別に帰らなくても良いのよ。今日会う娘って沙耶君の妹なんだから」

「え? そうなんですか?」


 そうして彼女が沙耶さんとその妹さんの話を聞かせてくれた。

 何でも彼女の家と沙耶さんの家がとても近くて、所謂幼馴染なんだそうだ。

 沙耶さんは彼女より5つ年上だが、沙耶さんの妹——綾音さんというらしい——とは年が近いせいもあり、いつも一緒に遊んでいたらしい。

 これだけ広い村に子供は数えるほどしかいないのだから、家が近いと自然と付き合いも深くなってしまうということだった。だからこんなに年が離れていても『沙耶君』などと呼ぶのだろう。


 沙耶さんはと言えば、妹が二人いるように感じていたらしい。

 それでいつもは仕事のせいでなかなかお見舞いも来られないのだが、今日は休暇も取れ、綾音さんの付き添いで久しぶりにやってきたのだそうだ。


「——それでこいつドブにはまってさぁ……」

「ちょっと沙耶君。何でいきなり暴露話なのよ〜?」

「ははは、京子さんらしからぬ失態ですね」


 久しぶりに病院の外の人と口を聞くのが楽しかったせいか、または僕の知らない彼女の話が楽しかったせいか、不思議と人見知りの激しい僕でも饒舌になっていた。もちろんそこには、沙耶さんの人柄も大いに影響していたのだが……。

 そうして僕も打ち解けてきた頃、またノックの音が聞こえた。


「あ、綾音ちゃん〜、久しぶり〜」

「京子ちゃん……」


 綾音さんは京子さんより一つ年下だと聞かされていた。

 しかし外見は明らかに僕より幼く見える。

 それは控えめとは言え、リボンで括ったポニーテールのせいかもしれないし、彼女のあどけない表情のせいかもしれない。


 実際、沙耶さんの妹とは思えないほど、二人は似ていなかった。

 沙耶さんは綺麗な顔をした人なのだが、綾音さんは可愛い娘だ。くっきりと大きな二重の目に、人見知りのせいかやや朱を注した頬がとても女の子らしい。

 それでもこの二人は兄は兄で、妹は妹で、世間一般に見て二人とも整っていると言われる顔をしていた。


「綾、ほら、京子の友達の大木君だよ」

「初めまして、大木です」


 挨拶をする僕に少しだけ目を向けた後、そっと沙耶さんの傍に隠れてしまう。

 やはり人見知りが激しい娘みたいだ。

 それでも微かに聞こえるか聞こえないかの小さな声で『初めまして……』と呟いた。


「すみません、こいつ、人見知り激しくて……」

「あ、いえいえ、僕も結構人見知りするタイプなんで……」


 綾音さんの病気については京子さんから聞いていた。

 彼女の知能は小学校3年生位で止まってしまっているらしい。

 僕自身、そういう障害を持たされた人と直接知り合ったことは無いが、それでも特別視するつもりはないし、普通の女性として接するつもりだ。

 京子さん曰く、『彼女は普通なの。ただほんの少し、他の人より多くの愛が必要なだけ……』ということだった。


 それから京子さんと沙耶さんの話を聞いているうちに時間が過ぎていった。

 最初は隠れてしまった綾音さんも少しずつ会話に加わり、京子さんと楽しそうに話していた。

 それがやはり黙り込んでいるのよりも——もともとの可愛いらしさのせいもあるだろうが——魅力的で、純粋に可愛い娘だと感じてしまうのだった。

 僕はと言えば、三人の会話に相槌を打ちながら、興味のある話題——専ら京子さんの過去なのだが——に真剣に耳を傾けていた。


「そういえばさ、俺、雪菜に会ったよ」

「あ、この前、お見舞いに来てくれたよ。まだ帰ったばかりみたいなこと言ってたけど……」

「雪菜ちゃん……?」


 そういう話題を聞きながら、田舎の人達の繋がりの深さを感じる。何となくこういうのも良いかもしれない。僕はほんの少し羨ましくなっていた。


 それからまた雪菜さんの幼い頃の話題が始まり、雪菜さんと特に仲が良かった沙耶さんの同級生の話が始まり、その二人の家が神社の近くだったことから、夏祭りの話題へとシフトしていった。


「そうそう、夏祭り、明日だよな」

「そうだね〜。私は今年も行けなさそうだけど……」


 京子さんが少しだけ悲しい目をする。それを悟ったのか、沙耶さんが素早く話題を転じた。


「うちにさ、珍しく客が来てて、そいつはどうも夏祭りが目当てみたいなんだよ」


 話を聞くと沙耶さんの家は民宿——ある意味、母親の趣味の延長らしいが——をやっていて、そこに珍しくお客が来ているとのことだった。


「あらら、村の外から? 珍しいね」

「そうなんだよ。海水浴客ならたまに泊まっていく奴らもいるんだけど……。夏祭りに……しかも一人で……」

「そんなに珍しいことなんですか?」


 夏祭りはこの辺りでは最大の祭りらしいが、それでも臨時の電車が出るためにこの村へ泊まる人は珍しいらしい。それももう10日以上も滞在していると言うから尚更不思議だ。

 どことなく怪談めいたその客の話題を聞いているうちに、窓の外の空が青から茜へと変わっていった。


「お、もう夕方だな。じゃ、そろそろ帰るな」


 唐突に沙耶さんが切り出す。それからくるりと僕の方を向いて『悪かったね、京子をよろしく』と微笑んだ。

 僕は気恥ずかしくて紅潮してしまったけれど、京子さんはまんざらでも無い表情を見せる。それが余計に僕の感情を加速させるのだった。


「うん、ありがとう、沙耶君、綾音ちゃん。また来てね」

「僕も楽しかったです。ありがとうございました」


 紅潮してい頬のを見られるのは恥ずかしかったけれど、僕も顔を上げてそう言った。


「うん、じゃ、またな。ほら、綾、行くぞ」

「あ……待って、お兄ちゃん……。じゃね、京子ちゃん」


 そう言って、綾音さんは慌てて沙耶さんの後を追っていった。沙耶さんは最後に軽く微笑んだ後、綾音さんが出るのを待って、そっと扉を閉める。

 その光景を見て、一人っ子の僕はどことなく羨ましく感じてしまった。

 途端に静寂に包まれた部屋の中で、ほんの一瞬間が空いた後、


「うふふ、私が君のお姉さんになってあげようか?」


 なんて、悪戯っぽく話しかける彼女に少し驚いてしまった。

 上目遣いで、首を傾げて、ちょっと珍しい彼女の表情。珍しい話題の振り方。

 それはきっと一人っ子の彼女が僕と同じ気持ちを抱いて、思わず見せた悪戯心だったのかもしれない。


「ははは、お願いします。お姉さん」


 なんて、僕も悪戯っぽく返事をする。それだけなのに、二人の距離が昨日よりも今朝よりも、圧倒的に近くなったような不思議な錯覚を感じていた。


 『今日は一緒にいてくれてありがとう。

  本当は君に昔の私のことを知ってもらいたかったんだ。

  最近の私は逃げてばかりだったから……。

  君と出会って本当に変わったんだよ。

  この何日間かで少しずつ昔の自分に戻れている様な気がするの。

  もう逃げてちゃ駄目なんだって。

  私は……ううん、私たちは

  自分の意志できっちり勝ち取らなきゃいけないんだって。

  だから……一緒に頑張ろうね。』


 『負けそうになる度にいつも言葉を紡いできたよ。

  言葉はすごく不思議な場所に私を連れて行ってくれるから。


  リアルが抽象的になり、イメージが具象的になる場所。

  その現実と虚構の狭間だけが私の安息の地だった。

  死という現実が私に手を出せないように。 

  生という虚構に私がしがみつけるように。

  ただそれは自分を偽った逃げでしかない。

  または偽りの場所に逃げているにすぎない。


  負けそうになる度にいつも言葉を紡いできたよ。

  言葉はすごく不思議な場所に私を連れて行ってくれるから。


  でも、私は私がやるべきことをやろう。

  もう、私の為に紡ぐ言葉は捨てよう。

  そう、君の為に——。』

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