第四章
翌日、目が覚めて窓の外を見ると、僅かに雨が降っていた。
ここに来てから初めての雨だ。
こんな時期にも関わらず10日も雨が無かったらしい。
看護婦さん曰く、『梅雨の時期なのにこんなに雨が降らないのも珍しいわね』だそうだ。
そうしてやっと今降り始めたのだろう。
今日のベンチはお預けだな。
僕は少しだけ寂しく思いながら、体を起こした。
朝食を食べ、午前中の検診を終えた頃、ノートを渡すために京子さんの部屋へと向かう。
彼女の部屋は僕の部屋と同じ3階にあり、僕とは反対側にあるため、窓からは海が見えるのだ。
彼女自身、その眺めと窓を開けたときの潮の香りをとても気に入っている様子だった。
多少ふらつく足取りに、確実に忍び寄る体の衰えを感じながらも、僕の心は少しだけ弾んでいた。
この特別な状況下での交換日記に。
部屋をノックするとすぐに返事が返ってきた。ゆっくりと扉を開ける。
同時に、とても強い潮の香りに鼻腔が刺激された。
「こんにちは、ここ、座って」
言いながらベッドの脇の椅子を指差す。
僕は促されるまま、そこへと座った。
「調子はどうですか? といっても特に変化ないですよね?」
「うふふ、そうね、君も変化なさそう」
「そりゃ、悪くなってたらここには来ませんって」
そんな会話をしばらく続けていた。
僕は時々黙りがちになってしまう彼女のため、出来るだけ話題を振ろうと努めていた。
それでも静かに雨の音に耳を澄まし、遠くの海に広がる波紋の一つ一つを慈しむ様な彼女の表情に、僕が見入ってしまったのも事実だ。
時々、二人の間に数分間の沈黙が訪れるのはそのためだった。
「そういえば……ノート、持って来ましたよ」
会話の流れがあまりに自然で、かつ会話が途切れても彼女に見入ってしまう自分が自然で、今の今までこの部屋にきた目的を忘れてしまっていた。
「あ……そうだね。何か書いてくれた?」
「はぁ……まぁ、一応書いてはみたんですが……。恥ずかしいから、夜にでも見てください」
「うふふ、そっか……。書いてくれたんだ。そっか……」
彼女は嬉しそうに僕からノートを受け取ると、とても大切な物の様に一度強く抱きしめてから、引き出しの中へとしまった。
「確かに恥ずかしいよね。私も読まれたのかと思うと……少し恥ずかしい……」
ほんの少しだけ顔を朱に染めて、また海の方を見る。
小降りな雨音がさらさらと部屋の中にまで染み込んできていた。
憂鬱そうな空の色と、その憂鬱な色を映した海と、病室の雰囲気と、全てが無彩色に彩られたような空間で、彼女の頬の朱だけが美しく色彩を持っているように感じられた。
コンコン。コンコン。
突然、ドアがノックされた。
この時間に検診は無いから、お見舞いだろうか?
そう考えていると、彼女がさっきと同じ様に返事を返した。
「はい、開いてますよ〜」
「こんにちは……」
遠慮がちに入ってきたのは女性だった。年は20歳前後だろうか?
全体的に白で統一された服装が気品を感じさせる。それとは対照的な真っ黒で長い長い髪が印象的だ。
「あ〜、雪菜ちゃん〜。久しぶり〜」
「京子〜、久しぶり。元気だった?」
雪菜ちゃんと呼ばれた女性は、その髪を軽く揺らしながら京子さんのもとへと駆け寄った。
年はかなり離れているのだが、まるで親友の様だ。二人は旧知の仲なのだろう。
「あ、初めまして。京子のお友達の方?」
「あ……は……初めまして。大木です」
突然話しかけられたから、ぎこちなくなってしまった。僕はとにかく女性と話すことには慣れていないのだ。
「あらら、もしかして……私……タイミング悪かったかしら?」
ちょっと悪戯な笑みを浮かべながら、雪菜さんが京子さんに尋ねる。
「そ……そんなことないよ。彼は同じ病棟に入院してて……」
「あ、そんなことないです。僕はちょっと用事があって来ただけですから、もう帰りますね」
二人同時に反応してしまった。それが恥ずかしくて動揺してしまう。
「あ、すみません。気を遣わせちゃって……私もすぐに帰りますから……」
雪菜さんが申し訳無さそうな顔をする。
「いえいえ、じゃ、失礼します」
そう言って強引に部屋を出た。
最初の会話で久しぶりという言葉が出ていたから、積もる話もあるだろう。
ただ、お見舞いに来てくれる人がいる京子さんがほんの少しだけ羨ましくなった。ドアを閉めても微かに中の声が聞こえる。
「今の人、彼氏?」
「ち……違うよぉ〜」
そこまで聞いて、恥ずかしさと罪悪感のため、僕はその場を急ぎ足で立ち去った。
『今日は雪菜ちゃんが来てくれたよ。
彼女とは小学生の頃からの知り合いです。
ここは田舎だから子供もすごく少ないんだよ。
だから3年年上だった彼女ともすごく仲が良かったんだ。
でも結婚して村を出て行ってたから、本当に久しぶりだったな。
今度来てくれた時は3人で一緒に話そうね。
そうそう、君のこと、可愛いって言ってたよ。』
『人との繋がりはとても大切な物です。
例え一瞬でも忘れさせてくれるから。
変えられない現実を。
痛みすぎた世界を。
そういう時間が降り積もれば
いずれ痛みも無くなる時が来るでしょう?』
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