第二章
京子さんに出逢ってから5日が過ぎた。
その間、僕は何度か京子さんの部屋を訪ね、また彼女も僕の部屋を訪ねてくれた。そして夕暮れ時には必ず、初めて出逢ったあのベンチへと行った。
日頃、僕はそんなに女性に話しかける方ではないし、うまく話せたりもしないのだが、お年寄りしかいないと思っていた病院の環境と、心臓病——それも重度の——の苦しみを分かち合える同年代の人という理由から、知らず知らず饒舌になっていた。
京子さんは決まって自分からは話題を振らなかったが、ただそれでも話し辛いという意味ではなく、僕が話題を投げ掛けた時、優しく微笑みながら相槌を打ってくれるのが、僕にとっては心地良かった。
そんな会話の中、僕がいくつか京子さんにした質問から、彼女の生い立ちが少しだけわかる。
この村出身であること、心臓病のせいで高校に行かず、ここに入院したこと、僕より3つ年上であること、などなど。
どれも大したことでは無いが、お互いの暇を埋めるためには必要な会話の要素だった。
その会話の節々において、僕とは違う意志の強さのようなものを感じたのは事実だ。
だから僕は京子さんのそういう部分にいつの間にか惹かれ始めていた。
僕には無い強さを持った女性。
真っ直ぐな意志——生きよう——と。
今日も僕たちはいつものベンチに来ている。
そして僕は初めて逢った時からの疑問を口にすることにした。
それは何となく触れてはいけない様な、何となく拒まれているようなそんな質問だった。その質問を口にするのは迷ったが、もう良い頃だと思ったのだ。
「京子さん、その……ノートには何が書いてあるんですか?」
初めて逢った時から彼女が持っていたノートだ。
彼女はいつもそのノートとシャーペンを持ち歩き、時間さえあれば何か思案しているように見えた。彼女はほんの少しだけ驚いた顔を見せながら、
「……? これ? う〜ん、詩……かな……」
「詩?」
「そう……日記……かもしれないけど……詩」
そう言っていつも通りの微笑を見せた。
「詩……ですか。昔からずっと書いてるんですか?」
「ん? ううん。入院してからだよ」
言いながら彼女はパラパラとページをめくった。
『まだ5冊目なんだけどね』と付け加えながら——。
その一言で彼女がそのノートにどれだけの思いをぶつけてきたのかがわかった気がした。
彼女が持っているのは普通の大学ノートなのだ。
ページ数にしたら30ページ程度だろう。
だから5冊といっても大したページ数ではない。
しかし彼女の入院歴は2年半にもなるのだ。
それはつまり、そのノートに書き止められている言葉がどれほど重い言葉か——ということだ。何度も何度も推敲して——。
「やっぱり難しいものですか? 僕なんかそういったセンスはまるで無いですから……」
「違うよ。誰かに見せることが前提ならセンスもいるだろうけど……。どうせ自己満足だから——」
少し俯きがちに目を細めながらそう言った。
また彼女の髪がはらりと肩から零れ落ちる。
そしてやや間があった後、彼女は顔を上げ、真っ直ぐに遠い海を見つめながら、
「退院するまで書き続けるの」
「……入院中の記録……みたいなものですか?」
「うん……まぁ、そんなものかな……。同じ様な毎日だからなかなか言葉も書けないけど……」
「確かに……退屈ですよね。毎日が繰り返しみたいな……」
僕がそう言うと、彼女はゆっくりとこちらを向いて、微かな笑顔を浮かべた後、
「それでも……君に逢ってからは……少しだけ退屈じゃないのよ?」
そう呟いた。
自分でも恥ずかしさで一瞬にして顔が紅く染まるのがわかった。
「そ……そうですか? 僕なんかでも暇つぶしにはなりますか?」
おろおろしながら何とか言葉を紡いだ。
確かに僕にとっても彼女に出逢ってからの5日間は、何もかもの速さ——時間の速さの単位で光を考えるのなら、それでさえも——が確実に速くなっていた。
「『なんか』……って……。君は君だよ。わかるでしょ?」
責める様な言葉だったが、それとは裏腹に表情は至極穏やかに微笑んでいた。
まるで母親が子供を諭すような表情。
「あ……えと……僕も……京子さんに会ってからは、退屈じゃないですよ」
そう言うと、彼女は『くすっ』と微笑んで、またノートに目を落とした。
空の茜色が少しずつ強くなっていく。
「このノートはね。生きていくためのノートなの……」
伏目がちなまま呟いて、またノートを開いた。
「こんな病気だと、つい弱気になっちゃうでしょ? だから、このノートには生きようって強い意志を書き留めてるの。弱気になった時、再確認できるように……」
こちらを振り向きながら、シャーペンを逆さにしてノートをぽんぽんと叩く。
僕と彼女の5日間の会話の中で、これほどダイレクトに『生と死』に触れた会話は無い。
しかし、彼女の意志は明らかに僕のそれなんかよりもずっとずっと強く、前向きなものだった。
「弱気……ですか? だったら僕なんていつも弱気ですよ」
諦めだった。
昔から……もしかしたら物心つく前から、僕の心の中では常に諦めが顔を覗かせていたような気がする。
求めることを諦めて……抗うことを諦めて……現状をありのままに受け入れることだけを常としている。
だから正確な意味では弱気なわけではないだろう。
敢えて違う言い方が出来るのなら、それは至極積極的で、前向きで、強気な、諦めだった。
「うふふ、だからノートに書き留めておくのよ。少しでも強気な時に……」
彼女はまたノートへと目を落とす。
僕も思わずそこを見てしまった。
目に入った言葉は『生きている理由』。
いきているりゆう……。りゆう……。
僕がぼっと考え込んでいると、彼女はまたこちらを振り向いた。
「そうだ……。ねぇ……このノート二人で書こうか?」
夕焼けを反射する彼女の髪がきらきらと黄金色に光り、揺れていた。
その表情は夕焼けが作り出す朱だけでは無く、彼女自身の感情が素直に表現された朱になっていた。
「一緒に……ですか?」
「そう。私一人が強気な言葉を書くより、二人で書いた方がたくさん言葉が浮かぶでしょう?」
「なるほど……。僕、文章はへたくそですけど……良いですか?」
いつもの僕だったら断ったかもしれない。
だって僕が言葉を書くなんてことにはきっと何の意味も無いのだから。
生きることを諦めた僕が紡ぐ言葉なんて、より深く暗い場所を垣間見せるきっかけとしか成り得ない。
ただそれでも、僕は彼女の提案を受けようと思ったのだ。
それは彼女が京子さんだから。
僕との会話では決まって自分からは話題を振らない京子さんが、初めて見せた提案だったから。
「そんなの……気にしないの。二人だけの自己満足なんだから……」
くすくすと微笑みながら、嬉嬉としてシャーペンを回している。
きっと彼女はこの自己満足を誰かと共有したかったのだろう。
それも同じ状態で苦しみ、悩み、出来れば生きようと……強く思っている誰かと……。僕は自分の本音をほんの少しだけ押し殺して答えた。
「二人だけ……ですね? はは、じゃ、お願いします」
「こちらこそ、よろしくね。——あ、このノートのタイトルは——」
さっきより朱が薄れ始めて、変わりに月の時間が舞い降りようとしていた。
さわさわという木々揺れの音と共に、遠くで波の音が聞こえる。
絵に描いた、夢のような、穏やかな、夏の一場面。
「Count Down Noteだよ」
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