第十一章

 さらさらという静かな音を聞きながら目を覚ました。

 窓の外は薄っすらと煙っているかの様に雨が降っている。

 ゆっくりと起き上がり、そっと外界を眺めると、昨日の喧騒が嘘のようにひっそりと静まり返っていた。

 山の木々は雨のせいかどす黒く見え、水田には無数の波紋が奇妙な模様を作り出している。

 ふと時計を見ると、いつもよりかなり早い時間に起きてしまったようで、外が白く染まって見えるのは雨のせいだけではないようだった。

 廊下の方もまだしんと静まり返っている。僕はこの病院独特の早朝の雰囲気は嫌いではなかった。


 少しずつクリアになってきた頭で昨日の出来事を振り返る。現実味が無いにも関わらず、顔が染まってしまうほどの恥ずかしさを感じていた。

 でもそれ以上の嬉しさが込み上げてくる。

 やがてその抽象的な気持ちたちは、僕の中で複雑に絡み合い、渦を巻き、一所に集まって、明らかに形のある具体的な強い意志を作り出した——生きよう——と。

 彼女と共に生きよう——と。


 きっと生まれて初めてだったかもしれない。

 僕が——今までは何事も『積極的』に諦めていたのは既出だ——こんなにも強く負けたくないと感じているのは。

 あれほどまでに強く望み、渇望しているとさえ感じた『死』という現実に、僕は今掌を返したように、明らかに負けたくないと感じているのだ。

 こんな病に、こんな不幸に、こんな運命に。

 僕は立ち向かっていけるだけの武器と士気を手に入れていた。

 先日までは全く信じられなかった奇跡——雑誌などで良く見かける不治の病が治ったという類のもの——でさえ、今では僕の味方になり、すぐ傍でそのタイミングを見計らっているかのように感じる。


 これは……進歩だ。

 僕は一人で納得の肯きを繰り返した。


 僕が起きてからやや間が合って、ノックも無くそっとドアが開けられた。

 窓際に立って外を見ていた僕は、驚いて振り返る。看護婦さんの見回りにしては微妙な時間だ。

 するとそこには驚いた顔の京子さんが立っていた。


「あ……おはよう。ごめんね、起きてたんだ」

「はい、何だか早起きしてしまって……。おはようございます」


 そのまま彼女はそっとベッドに腰を降ろす。僕も自然とその隣に座るかたちとなった。どちらからともなく手を握り、窓外の景色を眺める。言葉は無いが穏やかな時間が流れていった……。


「昨日……嬉しかったよ」


 不意に彼女が呟く。

 慌てて振り向いた僕が彼女の横顔を見つめると、そこには言葉とは裏腹にくっきりと涙の跡が残っていた。きっとついさっきまで泣いていたのだろう。その目元も薄っすらと赤く腫れていた。


「僕もですよ。京子さん……泣いてたんですか?」


 僕がそう聞くと、彼女は空いた片手で慌てて目尻を擦る。


「うふふ、女の子には色々あるんだよ」


 どことなく儚げな笑顔を作り、僕の方をゆっくりと振り向いた。

 彼女の髪がはらりと肩から滑り落ち、それは初めて出逢った時を想い出させた。


「あ……すみません」


 気まずくて謝ってしまう。少しだけ俯き加減になった僕に、彼女はそのまま近付いて口付けをした。


「違うの。昨日は本当に嬉しかったの。だけど——」


 言葉に詰って俯いてしまったが、次に顔を上げた時は笑顔になっていた。

 そして僕の肩を軽く掴み、そっとこちらへと倒れ掛かってくる。自然と僕は彼女に押し倒され、彼女を抱き留めていた。


「ね、もう一回、しよっか?」

「ちょっ……。何なんですか? 一体?」


 彼女の幸せそうな笑顔に、軽く笑みを零しながら尋ね返す。


「うふふ、冗談。でも……まだ早いし、少し一緒に寝たいな」


 僅かに甘えた声を僕の耳元で囁いた。


「良いですよ。でも看護婦さんには見つからないようにしないと——」


 彼女は『そうだね』と嬉しそうな笑顔を見せながら、そっと僕の胸に顔を埋めた。昨日と同じ様に腕枕をして、静かに口付けをする。

 柔らかさと暖かさと愛おしさからくる安心感に包まれて、僕はそのままあっさりと眠りに落ちていった。

 窓の外からはさらさらと穏やかな音が染み込んでくる。どこか遠くの世界から聞こえるような……そんな音だった。


 朝食のアナウンスに慌てて目を覚ますと、もう隣に彼女の姿は無かった。

 朝方の出来事がまるで嘘だったかの様に、そこにはいつもと何ら変わりない一日の始まりが存在していた。外では相変わらず穏やかな雨が降っている。


 朝食の後、検診の時に看護婦さんから色々と冷やかされたけど、そのどれもが嬉しくて、僕は喜色を隠せないまま対応していた。そして同時に感謝もしていた。

 看護婦さんはそんな僕の気持ちに気付いたのか、始終嬉しそうに笑顔を振りまいた後、僕の部屋を出て行った。


 京子さんの検診が終わる頃を見計らって、彼女の部屋へと出かける。

 途中、ナースステーションの前を通りかかった時に、中から看護婦さんの声が聞こえたから、何となく聞き耳を立ててしまった。

 はっきりとは聞こえなかったけれど、どうやら昨日の急患は自殺しようとして運ばれてきた——というような内容だった。

 『自殺』という言葉に僕の心は敏感に反応してしまったが、同じ敏感でも以前のそれとはまるで真逆の感じ方になっていることに、自分でも驚いてしまう。

 同時に京子さんの顔が思い浮かび、嫌なことを振り払うように彼女の部屋へと足早に向かった。すると案の定、彼女は既に検診を終えて、一人で雨が散る海を見つめていた。


「あ、おはよう。——さっきはごめんね」


 笑顔で迎え入れられる。


「おはようございます。——いつもより早くから会えて、嬉しかったですよ」


 言いながら、ベッド脇の椅子へと座る。そのまま彼女と一緒に海を眺めていた。風がほとんどないので、木々は全く揺れていない。それでも静かに波が起こり、灰色の空からは無数の雫が零れ続けていた。その小さな雫たちが木々で跳ね、水面で跳ね、そして窓で跳ねるのを、ただただ眺める。

 不意に彼女に手を握られて、その手を強く握り返した。


「今日が雨だなんて……残念だよ」


 独り言の様に呟く。視線は相変わらず窓の外だ。灰色の雲を見つめているせいか、彼女の表情がひどく曇って感じられた。


「そうですね……。またベンチに行きたかったんですけど——」


 言いながら、ベンチでの彼女の様子を想い出す。

 今、僕の隣にいる彼女の横顔に、ありありとその光景が重なり、薄っすらと陰影を作る表情と、ふわりと揺れる黄金色の髪と、強い潮の香りと……そんなものが一斉に僕の脳裏を駆け巡った。


「初めて君と逢ったところだものね」


 彼女が僕の方を振り向いたから、幻はふわっと消えた。優しく微笑んでいるのに、どこか切ない様な、そんな表情の彼女を見て、


「そうですね。——実は、あそこでの京子さんの横顔、大好きなんですよ」


 ぽつりと本音を漏らしてしまう。そうすると彼女は『くすっ』と笑って、


「同じだよ。私も……あそこでの君の横顔が好きだったんだ」


 と言った。自分も同じ様に見られているという自覚が無かった僕は、一瞬その言葉の意味を理解出来なかったが、彼女が僕の横顔を静かに見つめる姿をイメージすると、何だか体の中から温かい気持ちが溢れてきて、顔中を緩めてしまった。


 今日はそのまま二人、彼女の部屋で過ごした。

 雨のせいか、始終彼女は浮かない顔をしていたけれど、その物憂げな表情もどこか僕を惹きつけるものがあり、その表情を見ていられるだけで幸せを感じる。

 それでも僕は、彼女の包み込むような柔らかい笑顔を思い描いて、『明日は晴れると良いのに……』などと考えるのだった。


 やがて部屋に戻り、夕食を食べ、消灯時間が過ぎ、しばらくテレビを見て、そろそろ寝る段になった頃、不意にノックの音が聞こえた。周りに気を遣い、静かに静かに叩かれた様なそんなノックだった。


「はい?」


 看護婦さんかとも思ったが、そっと開けられたドアの向こうに立っていたのは京子さんだった。


「こんな時間に……ごめんね」

「あ……いや、平気ですよ。どうしたんですか?」


 ゆっくりとベッドに座る彼女の片手には、さっき僕が渡したノートが握られていた。そうして空いた方の手で僕の手を握り、そのままそっと口付けをする。


「ノート書いたら……急に君に会いたくなって……。我慢できなかったんだ」


 それは僕を舞い上がらせてしまうのに十分な言葉だった。


「僕もいつも京子さんに会いたいですよ。でもこんな時間に……平気なんでしょうか?」


 暗闇の中でゆっくりと微笑みながら、彼女は『こくん』と頷いた。


「大丈夫だよ。昨日もバレなかったし……あ、ノートは明日にでも見てね」


 そう言って、ベッド脇の机にノートを置きながら、朝方と同じ様に僕を押し倒した。


「また……冗談でも言うんですか?」


 思わず思い出し笑いをしてしまった僕を見て、彼女も小さく笑った後、


「うふふ、違うよ。また少し……一緒に……寝たいだけ……」


 笑い声が最後の方には少しだけ曇ってしまう。そうして僕の胸に頬を押し当てながら、彼女は黙り込んでしまった。


「どうしたんですか? 京子さん?」

「ううん、甘えてるだけだよ……」


 そのままの体勢で答える彼女の肩をそっと抱く。

 長い長い静寂が部屋を包み、僕はその時になって初めて雨が止んでいることに気付いた。そのまま彼女を抱き締めて、昨日の様に、朝方の様に、やはり穏やかな深い深い闇へと沈んでいくのだった。


 夜中にふと目を覚まして時計を見ると、深夜二時を過ぎた頃で、隣では静かに寝ている彼女の横顔があった。少女の様な寝顔で、僕にそっと抱き付きながら眠っている。

 まるで昨日と同じだ——そう感じた時、やはり昨日と同じ様に、ドアの外が何やら騒がしいのに気付いた。いつの間にか窓の向こうからも、またさらさらと雨音が浸食してきていた。


 しばらく彼女の顔を見つめていると、外の物音に気付いたのか彼女がそっと目を開いた。僕の顔を見て、一度嬉しそうな表情を見せた後、ゆっくりとドアの方を振り向く。その時、やはりガラスの向こうを横切る影が見えたが、今日は何も言わずに僕に口付けをしてくる。


「また……急患みたいですね」


 僕がそう言うと、彼女は少し伏目がちに悲しそうな表情を作り、


「そうだね……。目、覚めちゃった……」

「もう一回寝直しましょうか?」


 彼女と離れたくない気持ちが、自然とそんな言葉を口にさせる。


「駄目だよ。次寝たら起きられなくなっちゃうから——」

「じゃ、泊まって行きますか?」

「うふふ、わがままな子」


 微笑みながら口付けをして、そっと起き上がる。僕は彼女のそういう雰囲気が大好きだった。


「私だって……本当はもっと一緒にいたいんだからね」

「すみません……わがままでした」


 手を繋いでゆっくりと入り口まで向かい、そこで彼女を抱き締める。そしてそのまま耳元で囁いた。


「明日も……早く会いたいです」


 そんな僕に対して、同じ様に耳元で『くすっ』と微笑んだ後、


「可愛いね、君は。——私も早く会いたいよ」


 そう言って、いつもより少しだけ長い口付けをした。


「愛してるよ、君のこと」

「僕も愛してますよ、京子さんのこと」


 ドアから出ていく彼女を見つめながら、僕は生まれて初めて人を愛することの切なさを感じていた。

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