納口上

この事件から遡ること、四十年前。

とある山に、犬神と、犬神のもとへ嫁いだ女がいた。

その名を楓という。

楓はただの人間で、嫁いでそろそろ10年になる。

犬神の妻になったのは数えで十歳の頃だから、そろそろ二十歳に手が届く。

二人は仲睦まじく、いつも行動を共にした。


人の寿命は短い。女であれば、せいぜい六十まで生きればいいところだ。

犬神にとって、それは一瞬にも等しい時間だった。

だから、犬神は女を愛しすぎないように気をつけた。

なぜなら、絶対に女のほうが先に死ぬからである。

もし、愛しすぎてしまえば、近い将来犬神の心は打ちのめされるだろう。

だから、仲睦まじくあっても、愛しすぎぬのが無難だった。

対して、楓はいつも犬神に献身的であった。

一生犬神に尽くし、自分の愛のすべてを犬神に注ぐつもりであった。


そんなある日、犬神の好物を探しに山をうろついていると、楓は足を滑らせて崖から落ちてしまった。

妻の危機を、犬神は敏感に感じ取り、瞬きする間もなく崖の下で横たわる楓の元にたどり着く。

『一体何をやっとるんだ』

気軽に話しかけるが、楓はほとんど声もでない有様だった。

犬神は、人がそんなに脆いものだとは思っていない。だが、なにやら妻の様子がおかしい。

「あなた」

楓が、息絶え絶えのまま、犬神に話しかける。

「すみません……ちょっと失敗しちゃいました」

『そうか。まぁすぐに治るだろう。少し休んで体を治せばいい。数日くらい休んでも罰は当たらないだろう」

「いえ、多分あたし、だめな気がします。背中、なんだかおかしいんです。体の半分が動きませんし、これ、多分死ぬんじゃないかと思うんですよね」

弱々しくても、楓の口調はいつもどおりのぼんやりしたものだった。

『死ぬ?誰が』

「だから、あたしが」

『なんで』

楓は、ちょっと悲しそうに目を伏せる。

そうか、この人は人間のことを何も分かっていないんだ。

「あなた。人間は神々とはちがうんです。ちょっと背中を折るだけで、簡単に死んじゃうんですよ」

『……え、もしかして本当に死ぬのか?』

「だから、そうですってば」

楓は笑う。なんだろう、死に直面しているというのにこの間の抜けた会話は。

「ごめんなさい。もう少し、犬神様の妻でいたかったんですけど、どうも無理みたいです」

『え、ちょっと、待った、嘘だろう……?』

その時、犬神の心に生まれたのは、焦り。

楓が居なくなる?六十歳まで、あと四十年ほどあるはずなのに?

「あなた。あたし、犬神様のこと、本当に好きでした。人間のまま、あなたの妻になれたこと、本当に幸せでした」

『待……!』

「あ、目が霞んできました。顔、見せてください。……あれ、こうやってじっくり見ると、あなたの顔、けっこう長いですね」

『いや、ちょっと……!』

「あー、だめみたいです。ごめんなさい、でも、あたし、幸せ……」

でした、と続くのだろう、その言葉は最後まで発せられることがなかった。

楓は目を開けたまま、動かなくなった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・何だこれは。

犬神は呆然とした。

脆い。あまりにも脆い。人間とはかくも脆いものなのか?

楓が居なくなる?本当に?

『嫌だ!!!!!』

犬神は叫んだ。

楓が死んでしまう。おれのまえから居なくなる。

そんなことは到底耐えられるものではない!

今も、そしてたとえ四十年後であっても……!

『嫌だ!!!!!!!』

そして、犬神は我慢することをやめた。


愛しすぎぬようにする?

無理だ。

この女は俺のものだ。手放すことなどできぬ。

人のままの身であれば、どのみち明日と変わらぬ近い未来、俺の目の前から消えてなくなる。

そんなことが許されるわけがない!

犬神は叫んだ。

神々よ、八百万の我が同胞よ。

おれはこの女を妻とした。この女を、我ら八百万柱の一人に数え、我らと同じ永遠の時の輪に囲い、永遠にともにあることを許せ。

そのために、俺は自分の力の半分をこの女に分け与えよう。

口約束ではない、本当の意味で、おれはこの女を妻にしよう!

そして、犬神の叫びは八百万の神々に受け入れられた。

というか、八百万の神々にとって、そんなことはどっちでもよかったのだった。


『楓。楓!』

犬神が声をかけると、いつも朝起きるように、楓はあっさりと目を覚ます。

『楓!』

犬神は嬉しくて、涙声で楓の名を呼ぶ。

「……。」

楓は、そんな犬神の様子をしばらく観察し、

ばちぃん!

『痛い?!』

犬神の顔をひっぱたいた。

『なっ!なにをする、楓!』

しかし、楓はすっくと起き上がって言った。

「おすわり!」

びくーん、と犬神の耳が立ち、おもわずおすわりしてしまった。

『……え?』

ええー?

何これ。なんでこんなに怒ってるの、おれの奥さん。

しかし楓がさらに畳み掛ける。

「伏せ!」

えええー?!

あまりの剣幕に犬神はさらに伏せをしてしまう。

楓は犬神の横に回りこみ、その背に座った。

「あなた、あたしは神様になんてならないと言いました」

ああ、なるほど。確かにそう言ってたな。

人間として犬神の妻でいること。そういう話だった。

「あなたはそれでもよい、といってあたしを妻に迎えてくれました」

『……はい、そうですね』

「なのに……なのに……」

犬神は、背中に楓の震えを感じて、本気で恐怖する。

そこまで俺は怒らせてしまったのだろうか。でも、俺は楓と離れるのが嫌だったんだ。

愛じゃないか、愛。どうか許して欲しい。

『いやもう、ほんと申し訳ない』

「あたし、あの時……もう死ぬんだと思って……あんなに沢山……」

『楓さん?』

「あんなに恥ずかしいことを、いっぱい言ったのに。最後だからと思って、もう、もうっ!」

見ると。犬神の妻の顔は真っ赤になっていた。

『申し訳ない』

ぴしゃん!

『……痛い』

ぴしゃん!

『……すみません』

「……もう……どうしてくれるんですか……」

楓はそういって、犬神の首に抱きついた。

「もうあたし、永遠にあなたから離れられなくなったじゃないですか」

『……ちゃんと幸せにしてやる』

「……いいです。いりません」

……ええー。

「もう十分幸せですから、これ以上は必要ありません」

…おおぅ。不覚にもちょっとときめいてしまった。

「でも、もう永遠に、終わりなく、ずっと一緒にいるんでしょう?……気が遠くなる未来までずっと」

『そうだな』

「……ずっと、あたしのことを見ていてくれますか?」

『約束しよう』

「浮気しませんか?」

『しないなぁ』

「あたしは、絶対に浮気なんてしません。でも永遠に時間があるなら、いつかあなたが去ってしまったら、あたしは永遠に寂しいままです。人間じゃないから、もう庄屋さんに拾われることもなく、ずっと一人です」

『……一人にはしない。浮気もしないし、ずっとおまえのことを好きでいよう』

ぴしゃん!

「……痛い』

「……恥ずかしいです」

『どうしろと言うんだ?』


かくして。

人の心のまま、楓は八百万の神々の一人となった。

犬神と人間の夫婦は、犬神夫婦となったのである。


第一話:了。

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犬神夫婦 カイエ @cahier

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