十/最後の問題

『名乗りでたかな』

優男風に化けた犬神が、蕎麦をすすりながら言う。

「そりゃあ、あれだけ脅してまだ逃げる勇気のある人間なんて、そうはいないと思いますよー」

対して、楓は蕎麦をとっくに食べ終わっており、三十数枚目の蕎麦をすする犬神の姿を眺めなている。

『しかし、おまえという女はたいしたもんだな』

ずずーっ。

「なんですか、藪から棒に」

『いや、瓦版を見ただけで、なぜあんな事がわかるのかと……おいオヤジ!五枚追加!……思ってな」

ここは、件の蕎麦屋の屋台。主人は泣きそうになりながらも「へい!」と応え、蕎麦を準備する。

楓は笑って答える。

「だって、あたしは人間の流儀でモノを考えますけど、こちら側――妖側の視点でものをみていますから。妖は人間の考えが理解できません。人間は妖側の視点でものを見ることができません」

『つまり、おまえにとっては考えるまでもない簡単なことだったというわけか』

ずぞぞ、ぞぞぞ。

「そうですね。妖が人を切って逃げるなんて、バカバカしくて笑う気にもなりません」

『…おれにはわからんなぁ。だいたいおまえは、言葉が足りないと思う』

へいお待ち、と声がかかって、蕎麦が積み上がる。

犬神はほくほく顔でさっそくそれにとりかかる。

「そうですか?」

夫の見事すぎる喰いっぷりを楽しそうに眺めながら楓は答えた。

『そうだとも。…刀傷がまっすぐだから、妖かしには無理といわれても、あの時点じゃわけがわからん』

要するに、寛十郎の傷は明らかに人につけられた傷だから、妖かしもどきである寛十郎自身には付けられない。当たり前のことだ。

さらに、ろくな治療もできなかったのだから、事件があったときには傷は腫れ、ひどい事になっていた。

「大立ち回りのときは痛かったでしょうねぇ…痛さよりも、志乃さんを自分のものにすることと、間男さんを切った罪から逃れることのほうが重要だったんでしょうけど。人を切ったのも初めてだったでしょうし、罪悪感もあったんだと思いますよ」

確かに、同心が屋敷に訪れたとき、ずいぶんとびくびくしていたと、瓦版にはあった。

『…なるほど、惣右衛門の妻のことだけじゃなく、斬傷を妖に付けられたことにしておきたかったわけか…間男を殺したことを知られたくなかったから』


積み上がった蕎麦は、みるみるうちに犬神の口に吸い込まれていく。

どう考えても、優男の体よりも、食った蕎麦の体積のほうが大きい。

しかし、犬神はやはり神なのだ。食べ過ぎるなどということはない。底なしなのだ。

蕎麦屋の主人は、せっかく妖騒ぎに乗じて儲けた分も、これで台なしだとうなだれるしかなかった。


数刻前のこと。

結局気絶してしまった寛十郎と、妻の不貞の事実を付きつけられた惣右衛門を置いて、二人はその場を離れた。

寛十郎には犬神の姿を見せたが、一度妖騒ぎで嘘の証言をした寛十郎がいくら犬神のことを騒ぎ立てたところで、誰が信じるはずもなかった。

惣右衛門には、犬神の姿は見せていない。塀の向こうで涙を流しながら事の次第を覗き続けている惣右衛門の目には、ただ証拠を突きつけられ、罪を認めた寛十郎の姿が映るばかりであった。

傷つけ、傷ついた二人を置いて、犬神夫婦はその場を立ち去る。

楓は犬神の背に乗り、犬神は尻に敷かれたまま江戸の空を走る。

『楓よ、おまえはずいぶん残酷なことをしたのではないか?』

犬神は、楓を非難するように言った。

これでも気を使う性格なのだ。惣右衛門の心の傷のことを考えると、心穏やかではいられないのだ。

「何を言いますか。ではあなたは、惣右衛門さんが奥さんの博打癖や不貞を知らぬままのほうが幸せだったと、そう言うんですか」

『そうだ。少なくともそれならここまでの心の傷は負わなかっただろう』

そう言うと、楓はピシャリと犬神の背を叩く。

「あたしは、あなたに嘘をつかれたままの幸せなどいりません。それならいっそ殺されたほうがマシです。それに」

楓は犬神の首に抱きついいて、耳元で囁く。

「あたしはあなたに嘘は付きません。他の男など不要です。不貞を働いたときには正直に白状しますから、どうぞ存分にあたしを食べてください」

犬神は、楓に出会ったときのことを思い出し、苦笑する。

『正直どうにも、お前を見ても食欲は沸かん』

「それなら、永遠にあたしを妻にしておいてください」

『……食いたくないなら、妻にするしかないからな』

犬神は笑う。楓も同じように笑った。

「あと、惣右衛門さんは妻の不貞に気づいてましたよ」

『なに、そうなのか?!……なぜわかる』

「だって、惣右衛門さんの部屋に、あれと同じお守りが二つ、隠してありましたから」

『……ということは、え?もしかして』

「はい、その両方に、血らしき染みがありました。多分、斬り殺したんでしょうね」

『……なぜ黙ってた。証拠がなかったのか?』

「いえ、その気になれば簡単でしたけど、その必要がありませんでしたから」

『なぜ』

「すくなくとも、あたしたち神々や妖のせいにはしてませんから。すでに人ならぬあたしには、なんの関係もありません。あと」

『あと?』

「妻の不貞に気づいてもそれを止められず、言い出すこともできないような情けない男は嫌いなんです」

『ああ、だからおまえは、惣右衛門とは一度も接触しなかったのか』

犬神は納得したように答えた。楓は奉行所やら瓦版屋やら蕎麦屋やら、もちろん寛十郎にも接触していたのに、惣右衛門には接触しなかったのだ。

だから惣右衛門はあの時、おれのような怪しい男のいうことに素直に従った。妻を信じたかったから。

哀れだとは思う。だが同情する気にもならなかった。

『そういえば、おまえ』

「はい、なんですか?」

『おまえは、俺に嘘はつかないと言ったな』

「言いましたね」

『じゃあ、えーとなんだ、金がないらしいが、アレだ』

犬神が言いよどむと、楓は笑って答える

「蕎麦ですね」

『そうだ。腹いっぱい蕎麦を食えると聞いておれは江戸くんだりまで出てきたんだ。それももちろん、嘘じゃないよな?』

「ええ、それじゃあ、とりあえずあの蕎麦屋を捕まえに行きますか」

『……捕まえに?』

「はい。だってそうでしょう?惣右衛門さんはただ馬鹿なだけでしたけど、この蕎麦屋は「妖を利用してお金儲けを企んだ」んです。看過しておけません」

「……おっかないな、おまえは」

犬神は笑った。

「おっかないから、尻に敷かれるのも我慢しよう。とりあえず、ほらそこだ。ずいぶん繁盛しているようだが、あの蕎麦屋だな?」

神々の目から見れば、人間の世界など狭いものだ。

どんなに小さなものでも、さがすまでもなく見つけ出すことができるし、どんなに大きなものでも簡単に飛び越すことができる。

だからこそ、人間たちの営みは神々から見て可愛く、時には愛おしく思えるものなのだ。


結局、犬神は四十枚の蕎麦を平らげた。楓は一枚だけ。

金は一銭も払っていない。ただ、ちょっとした脅しをかけただけだ。


――毛利家・山本家 妖襲撃事件は、人の仕業だった。

――瓦版を通じて嘘の噂を流した罪は逃れられまい。


楓の説明により、事の次第がどうであったかを理解し、慌てふためく蕎麦屋に対して、楓は条件を出した。

寛十郎が下手人である証拠の品の、欠けた刀と、血のついた切っ先。これを蕎麦屋に預けるというのだ。

それを番所に届け出れば、奉行所の覚えもよかろう。

そのかわり、夫――ずいぶんほっそりとした優男である――が満足するまで、蕎麦を思う存分食わせてやること。

条件を飲むなら、奉行所のほうには、蕎麦屋の嘘が露見しなような言い訳をしておいてやる。


蕎麦屋は、二人に蕎麦を奢るだけで罪を逃れられると聞いて、二つ返事でそれを受けた。

まさかこんな優男が、そば清みたいな大食漢であるはずもあるまい。


かくして、妖怪騒ぎで儲けた稼ぎは、すっかり犬神の胃袋に収まってしまったのだった。

蕎麦さえ食えば、もう江戸に用はない。

犬神は「ごっそさん」とそば屋の主人に声をかけると、楓を背に乗せて、さっさと飛び立った。


『ところで、蕎麦屋の嘘が露見しないような言い訳とはどんなものなんだ?』

犬神は、蕎麦の味の余韻を楽しみながら、気になっていたことを楓に訊いた。

楓はこともなさげに答える。

「ああ、嘘ですよ、あれ」

「嘘?!」

「はい、大体あたしたち、もう江戸を離れてるじゃないですか。それに妖がいなかったことが証明されたのに、妖に便乗したことの言い訳なんて、あたしには思いつきません」

『お……おまえ、嘘はつかないんじゃなかったのか』

「はい。もちろん。「あなたには」嘘はつきません。でも」

楓はくすりと笑って

「あなた以外の人に嘘をつかないなんて、一言も言ってませんよ」

『やっぱり、おまえはおっかない!』

犬神は思わず突っ込んだ。

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