5 青い蒼いあおにつつまれて


 自分の意識があった。思考があった。感覚があった。

 いつもなら当たり前のことを認識した途端、強張っていた体が弛緩した。

 どうやら自分は壊れなかったらしいと思ったら、自然と唇から安堵の息が漏れていた。


「――おれは……」


 絶望の中で見た昔の現実が、未だ少し痛みの残る胸を、軽く刺してくる。


 おれ……俺は…………あの、ふたりを、とうさん、と、かあさん、だって呼んで……だいじに…………いや……ちがう。そうであったなら、ちゃんと、守れて……。下らないと思ってたから俺は……まもらなかっ……――


《――ランム――》


 頭の中で、少女の声が、苦痛を断ち切ってくれた。


「……るり」


 彼女の声を聞いたのは、彼女の顔を見たのは、つい数時間前のことのはずなのに、遠い昔のことだったように思えた。

 自分が今、体を横たえている場所が、あいつの――マギの瓶の中だと気づいた。

 体を起こそうとしたが、たったそれだけで体が悲鳴を上げた。仕方なくだらしなく寝転がっていることを選んだ。


「あいつが言ってた。……るり。お前は俺の中に居るの? 俺の、夢じゃなくて?」

《――うん。そうだよ。初めはなかなか見れなかったけど、だんだん外が見れるようになってきて……ランムの五感で外を感じられるようになってきて……今はこうやって、ランムに自由に声が届いて……。ランムのこと、ずっと見てた――》

「ずっと?」

《――うん。ずっと――》


 耳が、音を捉えた。まだ、波の音が聞こえていた。遠くで低い声がしゃべっている気もするが、誰なのか、何をしゃべっているのか分からなかった。


「ずっと、てことは見てただろ。俺は無様だった。何の力も無かった。子供だった。一人ではしゃいで踊ってた。踊りまくってた」

《――うん。そうだね――》


 ――そうだ……おれは、むりょくで……――


「こいつ馬鹿だって、哂ってたんだろ。どうしようもない馬鹿だって、哂ってただろ」

《――うん。そうだね。……だけど……――》


 ガラスを隔てて、突き抜けるように青い空が見えた。自分がちっぽけだと気づいてしまった今は、その青に、吸い込まれて飲み込まれてしまいそうな気がした。


《――あたし、それでもランムが大好きだよ――》


 空の青と、海の蒼に包まれているとなんだか、膝を抱えて、丸くなって、ゆっくりと、眠りたいと思った。今なら安らかな眠りにつけると思った。


《――うれしい……。喜んでくれてるんだね――》


 ゆっくりと撫でるような、くすぐるような、るり子の声。


「俺は、喜んでなんか……」


 気づいた。頬が熱く濡れていることに。

 濡らしている水は、自分の目から流れていることに。

 胸がどうしようもなく熱かった。

 熱が胸を押しつぶして、焦がしていた。

 その熱が目から零れ続ける水を精製していた。


 静まってほしかったけれど、静まってほしくなかった。


《――今、ね。初めて会ったときに、ランムにもらった花が、あたしの居る場所に……あなたの心の中に、いっぱい咲いてるの――》


 頬を濡らしているのが、自分の涙なんてことは気づきたくなかった。


「……るり……るり……! るり、るり……るり――!」


 胸の中に溢れて止まらない彼女の名前を、嗚咽交じりの声にして吐き出した。

 今、自分の中を満たしているこの気持ちは多分。おそらく。きっと。

 今まで存在を認めたくなかった感情で。

 目を逸らしていた感情で。

 理解しようとしなかった感情で……。


 ――おれは、まもらなかったんじゃなくて……。

 ――まもれなかった……。


 留めていると自分がどうにかなってしまいそうだったけれど、このまま無くさずに置いておきたいと思った。

 こんな感情は初めてだった。けれど。ランムは、


「……るり……」


 これはその気持ちなんだろうと思って、

 言った。


「愛してる」

 

 

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天使の心に狂い咲く、 あおいしょう @aoisyou

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