4 絶望
空の青と海の蒼に挟まれながら、太陽の光の下を飛行する。頭を占めるのはるり子のことばかりだった。
白という色が忌々しく感じてしょうがなく、瞳に突き刺さるほどに白く輝く太陽を、睨みつけていた。
――ふざけやがって、るり……。僕を殴るなんて。神を超える存在であるこの僕を。
――君が僕に喰われる事を欲して、君が僕に欲情して、だから、なのに……。
――何故拒むの。お互い貪り合って、満足してただろ。何故……何故?
――なぜ僕は……彼女のことばかり考えてる。たかが人間の女のことを…………。
――待て……。馬鹿か僕は。混乱してる。るりは夢だ。僕の意識の産物だろ。
――幻だ。自分がこんなに揺さぶられる必要なんてどこにもない。
――どこにも無いんだ、どこにも。
回転し続けようとする思考に、無理矢理に区切りをつけた。
なのに、また美味い魂を探しに行こうという気にはなれなかった。太陽の光を全身に浴びて、ひたすらに飛んだ。
睨み続けていた太陽が、黒い何かに遮られた。黒いそいつの正体に気づき、目を見開いた瞬間、腹部に衝撃があった。そのまま衝撃に押され、海に沈んだ。
目に映るのは水の紺碧。群れて泳ぐ魚。深く深く、沈められていく。
海が引き千切らんばかりに抱きしめてくる。海の中だからといって空気が無いことや、水圧に苦しめらることは無いはずだった。だが、深海に沈む速度が遅くなるにつれ、衝撃が体を侵食していくのがわかった。
光が揺れる水の天井が、遠のいていく。指一つ動かせなくなっていた。しかしランムには絶望も焦燥も無かった。むしろあるのは愉悦だった。
太陽を隠した黒い影を思い出す。あのシルエットは見まがうはずも無く――マギだった。
獄使達の統率者であり、最強の霊力を持つと謳われる存在だ。
いつもランムを上から見て、玩具のように扱って、哂っている存在。
なのに奴は不意打ちしてきた。《最強》のくせに下らないことをしてくる。
所詮、自分以外は皆愚劣な存在なのだ。今、自分の自由を奪っている呪縛も簡単に解けるもの。
ちょうどいい機会だから消してやろうと思った。
――今まで、真の頂点である僕を見下してきた罰だ。
体を蝕んでいる異物を意識の中心に収束させ、破壊する。破壊された欠片が光となって胸から霧散し、煌めきながら、太陽の光に加わろうとするかのように昇っていく。体が動くことを確認し、光を追って自分も海の上目指して飛んだ。
海上に出ると、波の上に予想通りの黒ずくめが立っていた。
「いよう」
低く響く声が耳朶を打つ。マギは三日月の形を唇に浮かべて、ランムに迎えの言葉を放った。
「やっぱりあんただ」
ランムも余裕を唇に浮かべる。
「僕を捕まえに?」
「そりゃそうだろ。お前のことは、俺様にしか捕まえられないからな」
マギはおもむろに懐から小瓶を取り出し、ランムに向けて振って見せる。
規律を破った冥界の者を封じる《封縛の瓶》だ。
水面から少し離れたところを飛んでいるランムは獄使長を見下ろす。水面に立っているマギは、自ら堕ちることを選んだ天使を見上げる。耳に入るのは波の音だけ。
ランムの体が放電して火花を散らす。同時にマギの体には闇が纏わりつく。ふたりの笑みが、同時に消えた。
爆音が小波の音を蹂躙した。
闇と雷。互いが互いを捉えようと目標に向かい、ぶつかり合った。雷は闇を喰い、闇は雷を侵食していく。そして食い潰し合い――消滅した――
小波が無関係を装って、再び辺りに音を散らした。
「はぁ。流石だね」
ランムは軽く肩で息を吐いた。
流石に最強と謳われたのは伊達じゃなく、ランムの攻撃を軽く返してくる。
マギが肩を回した後、腕を組んだ。
「ふむ。多少は成長してるか。でもまぁ、まだまだ。お前みたいな幼稚な奴は、保護者が側について面倒見てやらないと」
ランムの眉が、僅かに引きつる。
マギが自分を見上げている。
「僕が……幼稚だって?」
マギが、父親が子供に向ける笑顔で、見上げている。
「ああ。お前はまだまだ子供だ。人の話を聞かなかったり、自分を最強だと思い込んでいたり――」
マギの笑顔が、ランムを慈しんでいた。
「――人の話をテキトーにしか聞かないから、モノを知らなくて軽率だったり、な。まぁ、部下の奴らがやられりゃすぐ俺様に分かるようになってるなんて、そんなに知られてることじゃないが……」
頭がカッと熱くなった。ケイスケが消える直前の、奇妙な笑顔が浮かんだ。
「だが、このことはジンも知ってるし、俺様の右腕のミントも知ってることだ。もしお前も知ってたら、俺様は今、ここには居なかったかも……なぁ?」
熱くなった頭にマギの言葉が飛び交う。
軽率軽率軽率軽率。
それくらい気づいてもよさそうなことだった。鬼畜を絵にかいたような獄使長なら、部下の体の改造くらいやりかねない。自分の下らないミスのせいで今、目の前に憎たらしい獄使長がいる。
ランムは無意識のうちに唇を噛んでいた。マギの、愛でる表情。
獄使長がクスリと哂う。哂われた。
「かわいいなぁ、お前は」
――消してやる!
腹の底から、煮えたぎったマグマが溢れて、ゆっくりと体中を駆け巡っていく。駆け巡るそれを、体を引き裂いてでも外に出してしまいたかった。
しかし実際そうしてしまったら、奴はまた自分を嘲笑うだろう。やっぱり子供だ、と。
体を掻き毟りたがる手を拳にして、堪える。
「…………あはっ」
噛んでいた唇を意識して、余裕の笑みに変える。
「だって僕は、アンタにだって勝てるから、軽率でもいいんだ」――そうだよ、勝てる。「それよりちょっと見ないうちに、また広くなってない?」
マギの長髪のオールバックを見て、ランムは自分の額を指さす。
――勝てるに決まってる。潰したんだ、ジンを――神を。あんなにあっさりと。こいつだって潰してやれる。潰すんだ。
「確かにな。まぁ、頭が薄いのは賢しい証拠と言うじゃないか」
マギが、ランムの侮辱の言葉に動じることなく、ニッと白い歯を剥き出して笑った。
――何故だ。何故そんなに余裕でいられる!
マギの無邪気な笑みは、ランムのマグマの堰を切った。
「っ……ざけるなあぁぁあああああああああ!」
怒号が噴出する。
指を銃の形にした両手を突き出す。指先から電気を帯びた光球が無数に放たれる。光球は、吸い込まれているかのように的確に相手を捉えた。腹、肩、腕、脚、頭……と衝撃の雨に晒され、ランムの操り人形になり、無様なステップを踏んだ。衝撃の弾が貫いた箇所は、あっさりと破裂し黒煙が噴き出す。
地獄を支配する者の体は、一瞬で原型を無くした。
凪いでいた海が大きく揺らぐ。
「――ぁぁあああああああああああああああああああああああああああ!」
理想の魂を求め続けた口から、理性の無い咆哮が吐き出された。
光球が腕の中で膨張していく。
堕天使の腕の中は大砲。“自分にとっての害悪を消したい一心”で構成された砲弾を、獄使長だった黒煙に向けて放った。
冥界の者達が扱うエネルギーは、下界のものに影響を与えないはずなのだが、ランムが放った霊力は海の上に水柱を立ち昇らせた。
肩が激しく上下する。意識に霞がかかる。呼吸などする必要がないのに、体が酷く空気を求めている錯覚に陥る。
――何故だ……。
手ごたえが感じられない。
海水の雨が降る。立ち昇った水柱が海へ帰ろうとした瞬間、蒼い柱を切り裂いて、巨大な黒い手が現れた。黒い大きい掌はそのままランムを掴んだ。まるで子供が人形遊びをしているように。
「あっ……」
自分を捕らえている黒い手から、火花が散った。
何故自分はこんな奴に勝てると思ったのか思い出せなかった。
ランムの体を電撃が爆走する。口が絶叫で破裂する。灼熱が体を掻き回し、焼き尽くし、激痛が爆ぜる。
「かはっ!」
今しがた自らが目標に対して放った電気が、自らに返ってきているのだと気づいた。取り込まれていたのだ、全て。
無意味に空気を求めて口を開く。失意と共に、唇からたらたらと涎が溢れた。
――自分にはこいつを壊すことが出来ない――
ランムの瞳が徐々に、「あっ、あっ、」見開かれていく。徐々に、「あっぁ」何も映さなくなっていく。確信が心を黒く蝕んでいく。
ランムを束縛している手が、形を変えた。気づくと、ランムはマギの胸に顔をうずめていた。頭を、ゆっくりと、優しく――子供をあやす手で、撫でられる。
「うん。初めて負けて、ショックだったんだよな? 大丈夫だ。誰だって何かを経験していれば、必ずあることだ」
頭をうずめているそこは、暖かかった。一定のリズムで、とくん、とくん、と音が聞こえた。生きていないはずなのに、生きている音。もしかしたら、――――に、抱きしめられたらこんなだったかもしれないと思った。
暖かい、――――みたいなそいつの指が、ランムの頭にずぶずぶと埋まっていく。
「―――ゃ―めろ――」
――中を見るな……。
「お前は頭がいいから、わかったんだよな? ――そう。お前は俺様に勝てない」
頭の後ろに、ぬるりとした感触が通っていく。
『ランムの馬鹿!』
突然に少女との記憶が目に張り付いた。
――みるなよ。
「そうだ。彼女とは仲良くしているのか? さぞかし美味かったんだろうなぁ。あの娘はお前に恋をしているから。ああ、そうか、お前は――」
――うるさい。
「――人間の魂は恋愛感情が高まると、味に深みが出て、香りが沸き立つってことを知らないんだな。どうなんだ? 彼女はお前の仲に溶けちまったのか? それともまだお前の中に溶けずに存在しているのか? ああ、すまない。お前はお前自身の――」
――どいつもこいつも……。
「――中で会った彼女を夢だと思っているんだな。お前は蛙だな。井の中の蛙ってやつだ。だからこの俺様が、お前を側に置いて――」
拘束していた腕が緩み、体から離された。だが、改めて顔が顔に近づいてくる。
「――ちゃんと一から、教育しなおしてやるよ」
頬から、ちゅっ、と愛するものにするそれの音がした。
ランムの中の、沢山のものが崩れた。理性、余裕、偽りの表情、自分を形作っていて、自らをも偽っていた全て。
「……ぉれを……」
――るりもケイスケも目の前のこいつも……!
「俺を馬鹿にする資格なんか! てめぇらにねんだよ!」
ランムは、激情に塗られた腕を、マギの胸めがけて突き出した。
くちゃ。
めり込んだ。泥の沼に突っ込んだみたいにぬるりとする、酷く熱い、マギの中に。
「……ははっ」
悦びが体中に広がっていった。
「あははっ。……なに? もう俺が抵抗しないとでも思ってたわけ?」
ランムの拳はマギの背中から突き出ていた。体を貫かれた当人は、紅い瞳をこれ以上できないほどに剥き出していた。
「掴んだよ。あんたの《結晶》」
手の中の《願いの結晶》が激しく脈打っていた。持ち主の動揺が現れているかのようだった。
「あんたをさ、快楽のどん底に落としてやるよ」
数日前、ジンにしたように腕を引き抜くと同時に、結晶を弾けさせた。
マギは一瞬、薄い笑みを浮かべたあと、ゆらりと前方に体を倒して、転落していく。海へ。そして最高の地位から、転落していく。
「あは、」
唇の端から甲高い笑いが漏れた。
「あはははははははははあはっははははは――――!」
爆発した笑いの意味が、自分でもよく解らなかった。
鬱陶しい奴を消したから? これで自分が冥界の最強だと証明できたから? また美味い魂を探し続けることが出来るから?
その全てのせいなのか、それともまた違った何かなのか……。
ともかく最高に気分がよかった。今のうちに止めをさしてやろう。二度と自分に触れることが出来ないように。二度と自分を馬鹿に出来ないように。二度と自分を哂えないよう……――
音が、耳をくすぐった。
こんな海の真ん中にはそぐわない、違和感を放つ音。機械の稼動音に似ていた。ハッとして顔を横に向けると、視界に入ってきたのは宙に浮いている、宝石のような塊。
漆黒に光るそれに、何故だか体が震えた。その震えが恐怖だと気づいたとき、声が頭に直接響いた。
《――さて、ランム。今お前の目の前に浮かんでるものがなにか、当ててみろ――》
数瞬前に、自分が海に沈めたはずの声。
自分が震えていることに、また恐怖した。回らない舌が勝手に、答えたくない答えを、答えたくない相手に返していた。
「俺、の……結晶…………」
――いつだ? あたまを、いじられてるときか……?
にんまりと、笑われた気がした。
《――ご名答――》
《願いの結晶》と対になる《絶望の結晶》。人の絶望を結晶化し、取り出したもの。絶望を具現化し、冥界の地獄を形成しているもの。《願いの結晶》と同様に本人に植え付けて発動させると、結晶に詰まっているものを、幻覚で見せらる。
「……じじぃ……あんた、反則だよ……」
心に直接響く幻覚は、地獄での絶望よりもその者の全てを深く蝕む。罪を重ねたものに対する、最上の懲罰。
《――これが反則ならお前も反則なんだから、五分と五分だろう――》
最悪、魂が崩壊し、腐臭のする粘液の塊に成り果て、廃棄される。
結晶が、ふるりと震えた。
「……いや……」
首を振って後ずさり、「いや、いや、いや、いや……!」ランムは体を翻して子供のように怯えて逃げ出した。――自分が壊れるなんてあってはならない。あってはいけない。あっちゃいやだ! 壊れたらぐちゃくちゃんのとろとろのどろどろになってもどらなくなっちゃう。そんなのはいやだ。いやだいやだいやだいやだ――――!
必死になって空を駆けた。何故だか太陽を目指していた。
だが、結晶は獲物を逃すことの無い狩人であり、弾丸だった。結晶はランムの背中を捉え、ランムの心に侵入していく。
自分を操縦できなくなった。太陽の光を反射するコバルトブルーが近づいてきて、水面を境に世界が蒼に包まれた。水の中は暖かかった。――――の中に浮いていた頃の自分を思い出した。
声が聞こえた気がした。
――――と、――――の、幸せそうな弾んだ声が。
そろそろ動かないかな。
うーん……。少し気が早いかしら……。あら?
どうしたんだい?
今、少し動いたような気がしたの。
え! 本当に?
あははっ。もうすっかり親バカだね。
何かを隔てて、やさしい心地よい何かが自分を撫でる。何も思考できなくて、心地よさにうっとりと自分を委ねて目を閉じた。やさしさが去ると、自分の一部を失ったかのような空虚感。――まってよ……もう少しだけ……。手を伸ばそうとして、目を開いた。目の前には笑顔が浮いていた。顔だけが浮いていた。天井から降り注ぐ光を浴びた群青の中に、表情だけを切り取られた笑顔が浮かんでいた。
笑顔の唇が動いた。声は聞こえない。ただ、賞賛の言葉だということはわかった。笑顔は口を閉じると笑顔のまま、ランムに噛み付いてきた。噛み付かれた肩が、焼かれて、溶けていく。歯型の形で無くなってしまった。
群青が深くなっていく。黒く、沈んでいく。段々と光が届かなくなっていく。白い笑顔が、深海を埋め尽くしていた。
彼らは口々に賞賛を、賛辞の句を、賛嘆を、美辞麗句をばら撒き、ランムに牙を向けて襲い掛かってきた。歯を立てられた場所から、焼けて、爛れて、無になっていく。
狂おしい痛みが全身を侵している。苦痛を声にして爆発させたかったが、叫ぶことはおろか、小さな声を発することすらが出来なかった。
――やめろ!
自分が削られていく中で、どこにあるかもわからないそれに向かって手を伸ばした。
叫べなくても叫ぼうとした。大きく口を開いた。
――お前ら――――を傷つけんな!
どんなに褒め称えられても、どんなに重圧から解き放ってやりたいと願っても、自分の力では母のところに手が届かなかった。守れなかった。期待という重圧につぶれそうな母を。もっと力が欲しいと思った。力など無意味だと思った。矛盾した想いに囚われ――そして、産まれるはずだった世界と自分は、何の関係も無くなってしまった。
笑顔が自分を喰らい続けていた。自分も顔だけになっていた。遠くに揺らぐ、太陽の光を見つめて、やっと、かすかな声で、呟いた。
「……かあさん……とぅさ――」
呟いた唇にも喰らいつかれた。
最後の意識までにも喰らいつかれた――――
* * *
マギは、波の上を歩いていた。手の中の瓶を眺めながら。瓶の中のものに話しかけるように独白しながら。
「ジンは、お前が冥界を飛び出したことを、喜んでた。……ある意味では」
瓶の中には、天使を自ら放棄した魂が横たわっていた。
「ジンは、お前に感情を見せて欲しがってた。お前の本当の笑顔を、見たがってたんだ。ずっと昔から」
マギは足を止めて嘆息する。
「まったく……。やっぱりお前はガキだったな。お前が掴んだあの結晶は、中身なんか無い偽モンだ」
瓶を、親指で一つ、撫でる。
「俺様には“願望”なんてもんは無いからな」
足が水面から、空へと浮き上がる。
「そろそろ帰るか。お前が“生まれた”世界へ」
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