3 “夢”
乳白色に包まれていた。
うんざりしていた冥界の色とそっくりだと思った。途端にうっすらと白に灰色がかかった。
――一体ここはなんだ?
訳のわからぬままランムは歩き出した。せっかく美味い魂候補を見つけたのに、こんな所で油を売ってる場合ではない。
「ランム」
いつからそこいたのか、自分のすぐ隣に少女がいた。
――るり子……。
自分が彼女の名前を覚えていることに驚いた。
世界が白に戻った。るり子はいつかと同じに頬を染めた。
「よかった。やっとあたしの声、ランムに届いて、ランムが応えてくれて」
るり子はランムの右手を取り、自分の紅く染まった頬に、そっとあてる。
「僕が? 君の声に? ……いつ?」
記憶を探ろうとしたが、うまくいかない。なんだか思考が酷く緩やかで、彼女の言葉の意味を理解するだけで精一杯だった。
「応えてくれたよ。とっても、うれしかった」
彼女の後ろに、いつの間にかあの枝垂桜があった。ならばやはりここは天国なのだろうか。いつの間に帰って来たのか。帰ってきたということは――自分は獄使に捕まった?
また空間が色を変えた。今度は濃い藍。
――いや、冥界の色がこんな風にころころと変わるわけが無い。
途端に冥界に似た白に戻る。
指先に、柔らかく、温かい唇の感触。
「うれしいよ。ランムの中にいて、ランムの声が聞けて、ランムに声が届いて、こうやってランムを感じられて……あたしにとって、ホントの天国」
るり子はランムの首に腕を絡ませてきた。頭を引き寄せらる。お互いの吐息が感じられる位置。るり子の唇が、自分の唇に軽く触れた。離れたと思ったら、もう一度。今度は軟体動物のような舌が口の中に入ってきた。軟体動物は口の中で蠢き、歯の裏をなぞっていく。頭の後ろが痺れた気がした。引き抜かれた舌を追いかけて、今度は自分から彼女の口の中に自分のものを押し入れた。
空間は淡い紫に変貌する。下界に来て、初めて口に入れた魂の持ち主といっしょに入った建物が、こんな照明を付けていたな――と思い出す。
甘い匂いがしていたわけではない。けれども止められずに彼女の中をかき回した。
彼女の膝がゆっくりと折れていき、床と言えばいいのか、地面と言えばいいのか、薄い紫のそこに、るり子は崩れ落ちた。
ゆっくり唇を離すと、
「“るり”って、呼んで?」
蜜にまみれた赤い唇が開かれる。それに魅入りながらランムは彼女に応えた。
「るり」
彼女の紅い着物が邪魔に思えた。するとその着物は、すうっと透明になり、白い裸身があらわになった。ランムは勝手に動く自分に逆らわず、手で、舌で、全身で、彼女のすべてを探っていった。いつの間にかに自分も産まれたままの――人間として生れ落ちたことなど無いが――姿なのに気づいた。
自分でもどういう理由でその行為を行っているのかわからなかった。だが、止まらなかった。止める必要はないと思った。止めたくなかった。
全てを終えたあと、空間は乳白色。心地よい気だるさに包まれて、一瞬まどろんで目を閉じ、
開くと、木目の天井が目に入った。
耳に届くのは波の音。布団の上に寝転がっている自分がいる。隣にもう一組、からっぽの布団あった。
ランドセルが置かれて、本やノートや漫画が散乱している勉強机。無造作に隅に寄せられている模型やプラモデル。閉められたカーテンの隙間からは、僅かに太陽の光が漏れている。
白い空間も、少女も、どこにも無かった。
「ああ……」
妙に気落ちして嘆声を吐いた。
自分は“夢”というやつを見ていたのかもしれない。彼女は――るり子は、ただの夢の産物。やはり彼女は現実のものでは無かったのだ。当たり前だ。彼女と自分が対面できるわけが無い。彼女を喰らったのは自分なのだから。
ふすまを開く音がしたので、顔を上げ振り向いた。
「おにーちゃん、起きたん?」
細いふすまの隙間から、目だけをのぞかせて、少年がこちらを窺っていた。
「……ああ」
答えると曇っていた少年の顔が晴れわたった。ふすまが勢いよく開かれ、少年が飛びつかんばかりに側に走り寄ってきた。
「よかった。もうお昼やのにおにーちゃん起きへんから、なんか病気かと思たやん。おかんは疲れてはるんやから寝かしとこって言うてたけど、ちょっと心配しててん。もうおにーちゃん元気になった?」
小首を傾げ、丸い大きな瞳で見上げてくる。
言われてすっかり体のダルさがとれていることに気づいた。霊力を抑えることも、“身体”を維持することも、意識しないで出来ている。
「うん。もう大丈夫。ごめん、心配かけたね」
少年の頭を撫でて微笑んだ。少年も得意げに笑う。
「おかんがおにーちゃんに『お昼どーぞ』って言うてこいって。いっしょに食べよう」
少年に連れられ一緒に階下へ降りる。父親は会社に行ってるらしい。母親に侘びと礼を告げ、三人で食卓に着く。味がないのに等しい食事を美味いふりして食べた。
母親はランムの『おいしい』の言葉を一切疑うことなく、食事中ずっと能天気な笑顔を浮かべていた。誰かに似ていると思った。――誰だろう……。頭に一人の少女が浮かびあがった。――るりだ。
ならばもしかすると昨日、旦那が帰ってきたときに香った匂いは、彼女のものなのだろうか? 根拠はない。共通点はよく笑うことと、女であること。たったの二つだ。
違うとも言い切れないし、当たってるともいえない。確かめる方法は喰ってみることだけ。
「いち、に、さん。はっしゃー!」
小さな衝撃が二つ、ランムの背中を襲った。
「こら、シンゴ! ロケットパンチ、人に向けて撃ったらあかん!」
思考を中断し、母親の言葉に下を見ると、プラスチックの腕が床に転がっていた。子供の他愛ないいたずらだ。怒りなど湧いてくるはずもなかった。
少年も母親のお叱りにビクともしていないらしく、無邪気な笑顔をランムに向けていた。
「おにーちゃん、戦争ごっこせーへん?」
「こらシンゴ、ちゃんと謝り!」
なおも叱ろうとする母親をランムは手で制した。
「大丈夫ですから、謝ってもらう必要はありません。彼流のお誘いですから、気にするなんてことしませんよ。むしろ嬉しいくらいですから」
よくも白々しく言えるもんだと自分でも思う。わざわざこの程度で気にならないのは本当だが、嬉しいのはこの家族の中に、確実に甘い匂いの持ち主がいることじゃないのか?
「じゃあシンゴ君、やろっか。玩具は向こうの部屋にあるの?」
そうしてしばらく意味のない戦争に付き合う。少年は戦争で正義を主張し、自分は悪者に徹した。確かに自分は禁忌を犯している悪者だから相応しい役どころかもしれない。“ごっこ”であり、自分は正義に勝ってはいけない悪役なのにもかかわらず、ときどき少年の操るロボットを潰してやりたくなって、少々困った。さすがに実行には移さなかったが、自分は破壊行為が好きだったのかと自分で驚いた。
少年に付き合っている間も、母親への疑惑が頭を離れなかった。本当に彼女が匂いの持ち主なら、早く喰ってしまいたい。
「シンゴ君ごめん。ちょっとトイレいいかな」
「うん。いってらっしゃーい」
部屋を出て、母親が洗い物をしているだろうキッチンへ。
案の定、母親は鼻歌交じりで洗い物に没頭していて、ランムが来たのにも気づいてさえいない。
よく笑って、人の世話が好きで、人の目を気にせず旦那とスキンシップをし、少々間延びしたしゃべり方をする女――。
喰らう対象を分析しようと思っていたが、一体何を見ればいいかよく分からない。何をもってして“純粋”だと判断すればいいのだろう。昨日初めて会ってからの会話からは大して汚れているとは感じなかった。むしろ、周りから汚されることなく、まっさらな自分のままで生きている気がする。
「ちゃら・ら・ら・ら~ん♪」
曲の終わりのピアノ伴奏らしき箇所も口で歌い、一曲歌い終わったと思ったら、すぐに次の曲の伴奏を口ずさみ始めた。まだランムが後ろにいることに気づいていない。
今喰ってしまいたいなら、後ろから襲って口に手を突っ込んでやればいい。
どうする? 母親を試すか? 当初の予定通り息子を試すか?
一歩だけ、そっと踏み出す。母親はまだ気づかない。
もう一歩、踏み出してみようと思った。だが自分は相当迷っているのか足が動いてくれなかった。
魂を引き抜いてやれば、もちろん相手は自分がした行為を覚えている。いくら人が良くても自分を襲った相手を家に置いたままにはしておかないだろう。引き抜いたときの記憶だけを綺麗に消してやれれば問題ない。だが、数分、数秒だけの短い記憶だけを切り取るなんてことは不可能に近い。いくら自分でもそこまで器用な真似が出来るとは思えなかった。
つまり一つの家族に付き一度しか魂の試食は出来ない。試食した魂が美味くても家族のほかの者を喰うことも出来ない。突然死が一つだけなら病気で済まされるが、家族全員なんてことになったら、冥界のヤツの目にも止まってしまうだろう。
息子を喰うか、母親を喰うか……。
息子か、母親か。
息子か、母親か、息子、母親、息子、
母親、息子、母親息子母親息子母親母親ははおやははおやははおやははお…………。
どくん、と、体のどこかが脈打った。
――母親が苦しんだからって、それがなに?
そう。自分は母を助けなかった。金持ちゆえの重すぎるプレッシャーに押しつぶされそうになっていた母を。神に匹敵する力を持っているならば、たとえ腹の中からでも助けられただろう母を。助けなかったのは、神を超えた自分にとって、母親なんてものは取るに足らないものだったから――――
頭に浮かんだ言葉とは裏腹に、足は進まなかった。
頭の後ろのあたりがまた、灼熱に妬けたリングで締め付けられているように、熱い。痛い。
――だいじなら、むすこがたすけにくるさ、だからだいじょうぶ……。だいじょうぶだよ。ふみだせばいい。ふみだせばまた…………。
「っ!」
尻にまた例の衝撃があった。足元を見るとやはりプラスチックの拳が落ちている。飛んできただろう方向を見ると、少年が不機嫌な顔をして、こちらにロボットを向けながら立っていた。
「おにーちゃん。きもちはわかる。わかるで。おかん美人やもんな。でもあんまりみとれんといて? おかん、おとんのモンやし」
「は?」
半眼で睨みつけられた。
「あ、シンゴまたロケットパンチ!」
ランムを睨みつけていた少年の目に勢いよく涙が溜まっていく。
「オレこのトシでかてーほーかいするんイヤやー!」
少年は大粒の涙を流しながら盛大に泣き出した。よくはわからないが、自分が母親を食べようとしたことに気づいて怒っているのではなさそうだった。
母親はわけの分からないままなのだろうが、少年をあやすために「よしよし」と、抱きしめながら頭を撫でている。
「にーちゃんいい奴やしイケメンやもん。おかんとフリンするんやったらどうしようと思って」
「……あんた何を変なこと心配してんねん」
少年が母親にティッシュで洟や涙を拭いてもらいながらランムの方を見た。
「そもそもにーちゃんオレのことわすれやがってぇー。もう! なにしてんのぉ」
「いや、別に……」
“何をしていたか”
訊かれて、戸惑う。
――僕はさっきまで何を考えていた?
自分に問いかけたが、その部分だけがすっぽりと抜け落ちているかのように、記憶を引き出すことができなかった。
――何故だろう、思い出せない。
――なら、まあいい。どちらにしろ母親の魂が息子よりも汚れていないなんてありえないだろ。
母親は喰わなくていい。やはり息子だ。
そうしよう。決めた。
結論付けてランムは微笑んだ。
「うん、ごめん。のどが渇いたから水でも貰おうって――」
* * * *
目を開くと、やわらかい紅色に頭を乗せていた。
薄紅色の空間に、寝転がっている自分がいる。
少しだけ寝返りをうって、視線を上に向けると、るり子の微笑みがあった。さらに上から、桜色が舞い落ちてくる。
前髪を、さらりと撫でられる。
「また、会えたね」
自分の頭の下にあるのは彼女の膝だと認識する。
「そうだね」
ランムはそれ以上口を開かず、ゆっくりと地に向かっていくたくさんの小さな桜色を目で追いかけた。追いかけていると、一つがランムの額の上に到達した。
るり子が静かに、額の上の桜色を手に取る。同じ色をした唇がかすかに開いて、言葉をつむいだ。
「ランム……ごめんね」
「……なにが?」
少女の白い指が、ランムの唇をなぞった。
「あたしがあなたに『食べて』って、お願いしたこと」
ランムは少女の手を取り、手の甲に唇をそっと押し当てた。
「どうして?」
白い指の一つ一つに、ゆっくりと、唇をつけていく。
「あたしがお願いしたから、ランム、あの世界にいる場所がなくなっちゃったんでしょ?」
――そうだっただろうか。
――僕は、居場所をなくしたんだっただろうか。いや。別になくしてなんかいない。下界に下りてきただけだ。自分の意思で。
――自分の意思なら、何のために降りてきたんだった? ――思い出せない。
やはりここでは思考が緩やかで、何も思い出せない。だが、それがとても心地いい。
「いいよ、なんでも。今、こうしていられれば」
寝返りを打って、彼女の腰に腕を回した。
「ありがとう」
「うん」
「ランム……」
「うん」
「すきよ」
「うん」
瞼が落ちそうになる。耳からそう遠くないところから聞こえているはずの、彼女の声も、意味を理解して聞こえてこない。
「あたしのうちって厳しくてね。いつもいつもお稽古お稽古で。ほとんど遊んだことなかった。悲しくて泣いてる時も厳しくて、やさしくされたことなんて、あんまり覚えてない……」
ただ、瞼を閉じたくなかった。ずっと、こうしていたい。目覚めたくない。永遠に降り積もり続けるだろう桜に埋もれたとしても、このままでいたかった。なぜだかはわからない。
「だからあの世界に初めて来たとき、あなたが、泣いてるあたしに優しくしてくれたのが、すごぉく、うれしかったんだぁ」
髪を撫でる彼女の手が、耳の裏をなぞっていく彼女の指が、いつまでも続いてほしいと思った。
なのに抗えない。瞼が重い。目を閉じたら、きっとまた目覚めてしまう。
ランムは体を起こして、手で彼女の頬を包んだ。きっと、昨日と同じ行為を続けていれば、ずっと眠っていられる。根拠もなく、思った。
顔を近づけて、唇が触れる寸前――瞼は、落ちた。
* * * *
大量の水が押し寄せ、すぐに去っていく。それを繰り返す音。目に入るのは水の蒼と空の青と、砂の色だけ。海の季節だというのに浜辺にはランムと少年だけ。
少年の家に滞在することになって三日目になる。
少年の母親はランムが極度に疲れているらしいことを察すると、『長旅の疲れ、ゆっくり癒してくださいね。うちでよければいくらでも居ててくれてええですから』と申し出た。
あまりの人の良さに――それはないと分かっていつつも――思わず何か裏があるのではないかと疑いたくなってしまう。もしもこのまま居候し続けることにしてやったら、彼女は果たしてどういう風な対応をするのだろうか。
そうして彼女の言葉に甘え、息子を喰うことを延期した今日。少年に海に誘われた。
贅沢なほどに広い砂場で、少年は嬉々として水に濡れた砂を捏ね始める。ぼんやり眺めていると「おにーちゃんもぼんやりしてんといっしょにやろー?」と、スコップを突き出してくる。
今の彼の笑顔が天真爛漫ってやつなんだろうな、とランムは思った。
溜息を飲み込んで、少年の積み上げている砂の側にしゃがみこんだ。
共同で淡々と砂を積み上げていく。少年は楽しそうだが、ランムは、自分は何をやっているのだろう、と何度も自問したくなった。
「シンゴ君は日曜日なのに、他の友達と遊ばなくていいの?」
天国でガキの相手をさせられることはたまにあったが、下界に来てもすることになるとは……、とウンザリしてきて訊いてみた。
「うん。みんなとはいつも遊んでるし、今はおにーちゃんと遊んでたいんや」
少年はイヒッ、と歯をむき出して笑う。
「そっか。ありがとう」
と微笑して、思ってもいないことを返した。
砂の塊が城に形を変えつつあった。大きさはしゃがみこんでいる彼の頭を超えるほど。
「よっしゃ、おにーちゃん! そっちから掘ってきて。トンネルトンネル!」
頭の上に音符の幻が見えそうな勢いで少年ははしゃいでいる。ランムは淡々と少年の指示に従い、素手で砂山に穴を掘り進んでいく。掘り進んで掘り進んで、手を思い切り伸ばさなければ掘れなくなってきた頃、反対側から掘り進んでいた少年の声が上がる。
「にーちゃんの手ぇや!」
トンネルの中で小さな指がランムの手に触れた。砂まみれの手が指を握ってくる。
「トンネルかいつーや!」
城が邪魔で見えないが、満面の笑みを浮かべているのが容易に想像できる声。いつまでこのテンションを維持するつもりなのか。自分が獲物の候補に入ってることも知らないで。――これが純粋無垢ってやつか? 今この城を壊したらどうなる? ……泣き喚くに決まってる。純粋なやつは傷つきやすい。
ランムは腕を穴の中に突っ込んだ状態のまま、上に振り上げた。少年が築き上げた努力の結晶が爆砕し、粉塵になり、城だった砂は重力に従い元いた場所に帰る。唯の砂浜の砂に戻る。
少年の顔が、驚いた表情のまま凍りついた。
「なに? なんで?」
少年の混乱の声。表情。やがて少年が鼻をすする音としゃくりあげる声が聞こえる。
「なんでぇえやあぁあああああ!」
地面にはいつくばったまま、砂まみれの少年は悲しみを爆発させた。砂に顔を埋め、砂に爪を立てて、脚に規則性の無い運動をさせている。――ほら、泣いた。
ランムは少年の側に膝を突いて、後悔の表情を貼り付ける。
「ごめんね。ちょっとした悪戯だったんだ。こんなに君を泣かせるとは思ってなくて」思ってやったのだけど「やりすぎだった。ごめんね」
少年は砂に顔をこすり付けるように頭を振る。
ふと思った。もしかしたらここで酷く傷つけてしまったら、彼の魂は不味くなるのだろうか。
しばらくして動かなくなり、声を殺して泣いている少年を眺めながら考えて――決めた。
ならばもう食べてしまおう。
十分に彼が純粋だということが分かったし、これだけ怒らせてしまったら同じ家にはいられないだろう。それにあまり長居をしたら、家族の記憶から自分を消すのが面倒になってくる。
少年の頭を掴み、顔を上げさせる。涙混じりの、砂を貼り付けた顔に戸惑いを浮かべて「おにーちゃん?」と呟く。ぼんやりとして開いている唇にランムは自分の唇を近づける。
――――!
何かの予感がしてその場から飛び退いた。
一瞬前にいた場所に、先ほど作り上げた城と同じくらいの高さがありそうな針が、雨の如く無数に突き刺さった。針は少年の体にも突き刺さったが、すぐに霧散し、少年の身体には何も跡を残さなかった。
「ランムさん……」
声がした空を仰ぐ。うっすらと紅く染まり始めた空に一点、黒が浮かんでいる。黒は砂浜に音も無く着地した。
「ケイスケ……」
ランムのところにるり子を連れてきた、厳つい顔をした獄使だった。
「今、その子を喰おうとしてましたね」
「そうだな」
獄使に答えて、ランムは少年に歩み寄った。
少年にはケイスケの姿が見えないし声も聞こえない。近づくランムが怖かったらしく、弾かれたように上半身を起こした。だが立ち上がることが出来ずにそのまま後ずさりする。ケイスケが制止の声でランムの名を呼んだ。
「安心して。傷つけることはしない」
獄使に対しても、少年に対してもそう声をかけ、ゆっくり後ずさりを続ける少年の頭を右手で捕まえる。指が、柔らかい粘土に埋まるようにズブリとめり込んでいく。少年の瞳から光が消える。ランムの手は少年の記憶を探り、目的の箇所を見つけると、霊力でそれを切除した。
「今日君は一人きりで遊んでたんだ。昨日眠った時も一人だった。食事を家族と一緒に食べた“おにーちゃん”も、この間君を助けた“おにーちゃん”も、存在してない。君はボールを追いかけて、車道に足を踏み入れかけて、自分で踏み止まったんだ」
少年の瞳に少しずつ光が戻ってくる。
「『あ、もうゆうがたや。今日はもう帰ろう。おかんがまっとる』」
暗示をかけて、頭から指を引き抜く。少年がクルリとランムに背を向けて駆け出した。後で母親と父親の記憶もいじってやらなければと、心にメモをして立ち上がる。
「ケイスケ」
「はい……」
「何で僕の居場所がわかったの?」
押し殺しているのか、本を棒読みしているように感情が窺えない声で、ケイスケは答えた。
「先日、人間の魂を喰らっていたので捕らえた死神がいて……そいつの記憶の中にあなたがいました。それで見当をつけて、ここに。知っているのは俺だけです」
風が吹いているがケイスケの髪などはなびいていない。ランムの髪は踊り狂っていたがピタリと静まる。元の霊体にもどって《下界》の影響を遮断した。
ケイスケの眉間に、徐々にしわが増えていく。拳が握られ、震えている。
「ランムさん」
「なに?」
「るり子さんを……喰ったって、本当……ですか」
あの時したことを思い出すと自然に指が舌をなぞる。
「うん。本当」
風の音に負けない音が出そうなほどに、ケイスケは歯軋りする。
「るり子さんはあなたが好きだった」
「知ってる」
怒りのためか、ケイスケの顔が朱に染まる。ランムの指は自らの口腔をかき回す。
「彼女に喰ってくれと頼まれただけ。他に要求を受けた覚えは無い。僕がるりと一緒にいたいとか、お互いはお互いだけのものだとか、願ったんじゃない」
唇の端から欲望が次々と垂れてくる。
「俺はあなたに憧れてた」
「それも知ってる」
「今までのあなたは幻想だったんですか」
指を奥歯で一度噛みしめ、口から出した。
「さあ? 今までも今も、僕は僕だ。“僕”のイメージを勝手に作り上げて、勝手に嘆かれても僕は知らないよ。幻想だったのは、君の頭の中だろ」
涎がついた手を、ズボンのポケットに突っ込む。そういえばと、今身に付けている服が借り物だったことを思い出す。だが、その服もランムの霊体の一部となっていた。
「自首してください」
「嫌だ」
自然と唇が綻んだ。右手を銃の形でケイスケにむけて突き出す。
「早く逃げた方がいいよ。僕の中で、君は消えることに決まったから」
勿論こんな雑魚は瞬時に消せるし逃がすことはしないが、ゲームがしたくなった。どうやら少年と遊んでいるうちに自分も童心に帰ったらしい。
だがケイスケは体を翻さなかった。獄使の両手が霊力の光に包まれる。ランムの言葉に反して戦闘態勢になる。
「なら、俺があなたを消します」
「無理だろ。それは」
ランムは無表情で「バーン」と、ケイスケに向けて軽く霊力の玉を発砲する。ケイスケは玉を避けて体を空に躍らせる。空から獄使が放つ、光の雨。ランムは自分の中の、“自分に向かってくる脅威を無効化したい思い”を結晶化させ、はじけさせた。結晶がはじけた後には空間に穴がうがたれ、光の針は空間の穴に吸い込まれていった。穴は収束していき、消える。
ランムの足元に金色の光が渦巻く。空中のケイスケにめがけて、光の柱が空を走る。電気が空気を切り裂く爆発音。辛うじて空へ昇る雷を避けたケイスケが、砂浜の上に着地した。
「俺は……るり子さんが好きでした」
ランムの体の周りで、火花が散る。
「何だお前」
――ああそうか。僕もこいつと同じで、るりに……。
ランムは、眠りの中で彼女に行った、自分の行動の理由をようやく理解した。
「あいつに欲情してたのか。どおりで最近よくくっついてきてたわけだ」
「ちがう! 欲情じゃない!」
獄使は両の腕を袈裟懸けに振り下ろした。途端に浜辺が――夕日に照らされて朱色に染まった海が、白に飲み込まれていく。
――霧?
目では白以外何も捉えることが出来ない。だが、感覚が熱を捕らえた。感情の熱。煮えたぎり沸きあがる音が聞こえそうな怒りの熱だ。
――気配も消せ無いなんて、だからお前は雑魚なんだよ。
熱は後ろから手刀を繰り出してくる。頭部を狙って。
ランムは体を沈め、地面に片手をつき、足は地面を蹴る。狙ったところから呻き声。反動をつけて跳躍する必要はなく、そのままの姿勢で浮遊する。正面に苦痛に呻く獄使の顔。流石にこれだけ近づけば深い霧の中でも相手の顔が見える。ランムはその顔を逆さのまま、手で包んだ。
「じゃあ、欲情じゃなきゃ、何?」
屈辱を与えてやったつもりだったが、獄使の瞳はますます光がぎらついていた。脆弱な精神の持ち主ならそのまま射殺せそうな勢いだった。だが、ランムはその瞳を見て微笑む。
「ね。なに?」
「決まってるじゃないっすか。愛っすよ」
「……その答え、寒い」
片手を獄使の頬からはずす。ケイスケは飛び退いたが遅かった。獄使の腹めがけて手加減せずに霊力を放つ。胴体の中心に大きく穴が開く。霧が晴れて、腹の穴の向こうから黒い海が覗いた。
「しかも答えになってない。結局違いがわかんないよ」
「あ、はは……」
そんな声が、ケイスケの口から漏れた。砂の上に仰向けに倒れる。ランムは倒れた獄使の体に覆いかぶさった。
何故だか舌が饒舌に回った。
「つまり僕は仇? だから一人で誰にも僕のことを教えずに来たの? じゃあ何で君は初めにるりを僕のところに連れてきたの? るりが僕のことを好きだって知ってたんでしょ? 君はるりが好きだったんでしょ? なら連れてこなきゃよかったんだよ、変なの」
獄使の頬に涙が伝っていた。だが何が可笑しいのか笑いは止まらなかった。
「ランムさん……今日、はは初めて……へへっ……俺、の、なま、え、呼んでくれま……し、した、ね……ははっ……」
「……そう言えばそうだな」
記憶に留めた覚えが無いのに、鮮明に思い出せた名前はこれで二つ目。
「ちょ……と、だけ、ううれ……かっ……た」
「で? 愛って何? 消える前に答えてよ」
「お、お俺は、あなたををおもうるりこさんがすき、きでっっ……」
「だからなんなの?」
「あああなたに、は……あはっ……わ、わかんないとっ……と、おもぅっ……す」
ケイスケの答えに、ランムは引きつった微笑を浮かべた。
「ほら、答えられない。所詮そんなものは思い込みで、存在しないんだよ」
ランムの膝元、ケイスケの体から、花火の如くに金色の光が広がった。光が消えたとき、すでにケイスケの体は消え失せていた。
ランムはその場に胡坐を掻いて空を仰いだ。点々と、星が明滅している。人が死んだら星になるってよく言うけど、霊体が消滅したらこんな風に何も残らない。馬鹿な話だよな。そう思いながら、砂浜の上に寝転がる。
「あー……しまった。木端微塵にしなきゃ良かった。喰ってみればよかったのに」
ふぅうう。と、盛大に溜息をついた。
立ち上がる。もう一仕事、お世話してくださった夫婦の記憶を消しに行かなければならない。それが終わったらゆっくりと寝よう。
夢の中でまた彼女に会えるのだろうかと期待している自分に――“欲情”している自分に気づいて少し戸惑い、ランムは歩き出した。
* * * *
眠りは再びランムを白で迎えた。
うんざりしていたはずの白に、もう苛立ちは覚えなかった。欲望がまたランムの胸を疼かせていた。そしてそれを治めてくれる存在が、この場にまた現れるはず……。
少女が何の前触れも無く目の前にいた。少し前に出すだけで、手が届く距離に。白がオレンジ色になった。ランムは少女を抱き寄せようとゆっくりと腕を前に出したが、先に少女の手が素早く動いた。
響き渡る乾いた音。オレンジだった空間に、青と黄色が混じって渦巻いた。頬に感じる痛み……。
――るりが僕を殴った?
「どうして……」
問いかけ、一歩近づくと、同時に彼女は一歩退く。
「ランムの馬鹿!」
叫んで、少女は現れたときと同様に何の前触れも無く消え失せた。彼女の声には涙が混じっていた。一人取り残された空間はただ、暗色に染まった。
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