2 下界


 人間がたくさんいた。


 立ち並ぶビルは、赤や黄色に点滅する光をつけている。空はすでに黒一色だが、夜には顔を見せるはずの星は、一つも見えない。


 そんな下界で食物がたくさん歩いていた。


 ランムはこのたくさんの中からどれを食べようか迷い、吟味していた。

 普通、冥界の者は下界に下りれば姿が人間に見えることはない上、死神以外は人間の魂を身体から切り離す方法を持っていない。だが、霊力の高い者は霊力で《身体》をつくり、人間のフリをすることが出来た。そしてさらに霊力の高い者だけは、人間と物理的な接触をもてば、魂を身体から引きずり出すことが可能だった。ランムはそれができるほどの霊力を有していたので、《人間》になって歩いていた。

 すると、喧騒や雑音が入り乱れる中、肩に軽い衝撃があった。


「あ、ごめん!」


 二十歳に手が届くか届かないか、といった風な女だった。一目で染めていると分かる金髪。耳にも、指にも、露出している腹にも、銀に光るアクセサリーを付けている。


「いえ、こちらこそ」


 言葉を返すと女は、ランムの顔をまじまじと眺め回してきた。


 ――何だ、この女は。


 そう思った途端、


「あんた美人だねぇ」


 女は目を瞬かせながら感嘆の声を上げた。


「あたし今日ちょっとイラついてんだよね。どう? これからあたしと飲まない?」


 妖艶に唇をゆがめる彼女の誘いに、ランムは言われるままにのった。

 連れて行かれたのは女の容姿には似つかわしくない、客は中年ばかりの居酒屋だった。女は席に着くなり「おっさん、ビール!」と大声で注文する。

 女は笑い上戸らしく、飲む量に連れて笑い声が徐々に大きくなっていった。


「でねでね~? そいつが最悪なのぉ。つか、からんで来たあいつらも最悪なんだけどぉ~、そいつったらあたしのこと囮にして逃げやがんの! 一ミリも守ろうって気もなくよ? ふざけんなっつの。男のクセについてんのかっつーの!」


 女はビールのジョッキを一気飲みしてけらけらと笑った。


「まぁそのチンピラどもは空手がスーパーなこのあたしがぶっ飛ばしてやったんだけどもさ。で、その後、男のクセについてない男、なんて言ったと思う?」


 ランムはどちらにしろ答えを考えるつもりは無かったが、女はランムに考える隙を与えずに話を進めた。


「『素敵だ! 君みたいに強くてかっこいい女性は見たことが無い! 僕は一生君に守られて生きてゆきたい!』……だって。ぶっとばしてやったよ」


 女がフッた恋人の話など下らなすぎて、ランムは嘲笑に狂いそうになるのを耐えた。


「そうだね。大事な人を守ろうとしないなんて最低だ。守れないのは最低だ。多分君がその男をぶっ飛ばしたのは正解だよ。それだけ心の弱いやつだ。今日でなくても、いつか切れてた」

「あ、やっぱりー? うんうん、そうよね。顔と口先ばっかりの男なんてそんなもんよぉ。あんたわかってんじゃん」


 楽しい。人間が馬鹿で。胸の奥から、安堵のようなものがじんわりと湧き出す。


 ――そうだ……。大切なら守れるはずだ。守ったはずだ。守らなかったのは大切じゃなかったから――


 不意に、自分の膝の上に女の手が置かれた。


「でもじゃあ、顔であんたを選んだあたしは今、マズいのかな?」

「……さあ、どうなのかな」


 居酒屋を出て、次に女が誘ったのはピンク色の明かりが目に付く建物だった。女の話によると、どうやら交尾するための宿らしい。ベッドの上で、女が唇に吸い付いてきたので、ランムはそのまま魂を吸い出してやった。

 あの甘美を、脳を支配する快楽を、期待した。


 だが――女は不味かった。


 きつい酸味に苦味が混じっていて、涙目になってしまった。

 思わず吐き出した魂は、光の玉となり、空中を浮遊し、口から女の身体へ戻っていった。意識を失っている女が目を覚ます前に、ランムはピンクの建物を一人で出た。


 ――何故だ。人間の魂はうまいんじゃなかったのか?


 口の中を汚されてしまった気さえする。胸の中を針で幾度も刺されているような、なんともいえない感覚に侵される。どうにも治まらないわだかまりを持て余しながら、ネオンの明かりもささない路地を歩く。


 自分が歩いてきた反対側から、背広を着た男が千鳥足で歩いてきた。男はランムに気づくと、笑顔を浮かべ、壁に背を付けた。道を譲っているのだろう。ランムは何も考えず、手を男の口に突き入れた。粘着質な道を突き進み、目的の物を掴み取り、引き抜く。引き抜いた光の玉を自分の口へ放り込んだ。そしてすぐに吐き出した。


 ――何故だ何故だ何故だ何故だ!


 わけのわからないものに突き動かされて、足元に倒れている不味い魂の持ち主を踏みつけた。だがわけのわからないものは治まらない。男を踏みつけながらランムは自らの胸に爪を立てて掻き毟った。


 それから数日間、何度も、何度も。喰らっては吐き、喰らっては吐きを繰り返した。気づいたとき、自分の体の動きが酷く鈍くなっていた。


 見せているつもりでいても、自分の姿が人間に見えていないときもあった。霊力が消耗するまま、まったくと言っていいほどに回復することが無くなっていたのだ。

 冥界にいた頃、こんな風に“疲れる”などということは稀なことだった。大きな仕事を連続でこなしていった時などがそれにあたるが、当時はすぐに回復していた。今回のように疲れが持続することは、ランムにとって初めての経験だった。


 上瞼が自分の意思とは関係なく、視界を閉じようとしている。一歩を踏み出すことが過酷で残虐な行為を科せられている気分になる。

 ランムは、よろけつつたどり着いた公園のベンチに体を横たえた。ふと、この行為が、人間が毎日している“眠る”というやつなんだな、と思いながら目を閉じた。



    * * * *



「おまえさん。起きなさいよ。もうお天道様が昇ってるよ」


 閉じている目の前に、何かの気配がする。

 獄使達に自分の居場所を悟られないように、勝手に外に発散してしまう霊力を抑えていたのだが、もしかすると疲れでそれを怠っていたのかもしれないと思った。しかし、この声の主が獄使だとすると、こんなにのんびりと自分の体を揺することはしないだろう。ランムはまだ開くことを拒否したがっている瞼を無理矢理に開いた。


「やっ、起きたね、天使さん」


 汚れ放題の服を着た、汚い顔をした醜い笑顔があった。一見すると中年の女なのだが、


「そういうあんたは……死神だな」

「“元”……ね」


 女は――元死神は黄色い歯を覗かせて笑う。


「お前さん、まだ新人だね」

「……新人?」


 ランムが訝しげな表情で尋ねると、唇の隙間から「んふふ」と笑い声が返ってきた。

 元死神は手を振って、ランムに起き上がれとジェスチャーする。仕方なく起き上がってやると、元死神はランムの頭があったところに腰を下ろし、短い足を組んだ。


「だって漁ってんだろ? 人間の魂」


 ランムは頷かなかったが、元死神はそれを肯定と取ったらしく破顔する。


「ああ。魂喰ったことある奴はね、なんとなく判るんだよ、見るだけで。なんて言うかね、同じ匂いを纏ってる? みたいな」

「へぇ……。なら訊くが――」


 普段なら煩わしさを感じたのだろうが、隣に座った元死神に今は興味を抱いた。こいつなら何か知っているかもしれない。


「初めて食べたときはうまかったんだ。けど、そいつ以外は全部不味い。どういうことかわかるか?」

「ああ、あんたもしかして甘党なわけ? ならこの辺の奴らは不味いだろうね」


 案の定だ。こいつは美味い魂の事を知っている。


「味は心。純粋だと甘いし、いろんなもんがブレンドされてたら、それ相応に渋い味になる。もっと田舎に行ったらいいよ。近場だとS**町あたりかな。あそこにゃ甘党に向いてるやつが結構いるらしいから。同じ志を持つもの同士は、こうやって同業者にうまい狩場を教えあうのがルールなわけ。おまえさんもまだ始めたばっかりみたいだから、覚えときなよ」

「そうか。参考にしとく」


 ランムはベンチから立ち上がって歩き出した。その背中に元死神が「また会おうねー」と声をかけてきたが返事は返さなかった。歩き出したときにはすでに、情報源の顔など頭から消え去っていた。

 ランムの頭の中はすでに一つのことで占められている。


 ――やっとだ。やっと……。



    * * * *



 木の葉がざわめく音。干した布団を叩く音。ちり紙交換がどうしたこうしたと言う声。時折聞こえる子供達の歓声。一つ一つの音が判別できる。つまりはとても静かだということ。昨日までいた街とはまったく違う。


 体が未だガタガタだったので、この街に来るまで無駄に時間がかかってしまった。だが情報が真実ならば、この街の人間の魂は質がいいはずだ。あの甘美のためなら、眠ってなどいられない。


 通行量の少ない車道。その脇の歩道を歩く。数人の中年女とすれ違うが、そいつらを喰らう気にはなれなかった。ここまで来てまた不味いものを食べさせられたのでは堪らない。


 先ほどから車が一台も通らない車道から、とん、と音がした。反射的に視線を向けると、黄色いボールが跳ねている。


 車道を挟んで、向こう側にある公園の門から飛び出してきたボールは、後ろを追いかけてくる少年を導くように、鉄の塊が走るための道に転がっていく。そして、超自然的な何かの意思によって――しかしそれは神ではありえない――運命付けられたと言いた気なタイミングで、トラックの爆音がこちらに向かってくる。ランムが興味を無くして歩き出し、少年が車道に足を踏み入れた瞬間だった。


《――たすけてあげて!――》


 悲鳴が聞こえた。無意識に、足が地を蹴っていた。

 気がつくと、ランムは先ほどまでいたのとは反対側の歩道にいた。

 しゃがみこんでいる自分の腕の中に、少年がいることに驚いた。トラックは運転手の吐いた罵声を残して後方へ去っていく。ボールは先ほどまで自分が立っていたあたりに転がっていた。

 腕の中のものが震えていた。ランムはそれを離す。


「あ、あ、あ、……あり、が……」


 少年は自分の愚かな行動の意味を知ったらしい。震える手でランムの腕を掴んみ、なんとか礼の言葉を紡ごうと苦心している。


「……いや、どうと言うことは無い」


 礼が聞きたくて起こした行動ではないので、少年の苦労を断ち切る。掴んで離さない少年の手を払いのけ、立ちあがった。


 ――さっきの声は一体なんだ……。


 あの声が自分にこんな無駄な行動をさせたのだ。一刻も早く、いい魂を見つけたいというのに……。

 そうだ。この子供はどうだろう。まだまだ幼い。まだ世の中の“汚れ”なんて大して知らないだろう。混じりけなんて無いはずだ。きっと美味い。

 そう考えてランムは少年を見下ろす。人間の魂に対応するときと同じ、天使の笑顔で。


「シンゴ!」


 小走りな足音がこちらに近づいてきた。顔を上げると少年の母親らしい女が公園の門のところに立っていた。トラックのブレーキの音を聞きつけて慌ててやって来たのだろう、顔が真っ青になっている。

 少年が「おかんー!」と小さく叫んで駆け出し、勢いよく母親の膝に抱きついた。


「いつも言ってんやろ。車道に飛び出したらあかんて」


 そう叱った声はまったく叱っている声にはなっておらず、震えていた。


「あのおにーちゃんが助けてくれてん」


 振り向いてランムを指さす。指されたランムはいつもの、仮面と化している笑顔で会釈する。母親は開いた口に手を当て「ほんまに?」と子供に言い、子供の手を引いてこちらに歩いて来た。


「この子を助けてもろたそうで……ほんまにありがとうございます」


 子供の頭に手を置いて、一緒に頭を何度も下げる。


「いえ。体が勝手に動いただけですから、お気になさらず」


 そう。本当に勝手に動いた。果たしてこの行動は自分の意思によるものなのかを疑いたくなるほどに。


「そんなん! お気になさらないなんて出来ません! なんかお礼させてください」


 母親の申し出に『じゃあ、息子さんの魂を喰わせてください』と言いたかったが、まさかここでそんなことを言う訳にはいかない。おそらく少年の友人だろう子供達、その母親達がこちらを窺っている。地上でニュースになるようなことは、勿論冥界にも派手に伝わってしまう。すぐに冥界にばれてしまう行動は慎まなければならない。


 あまりに頻繁に魂を喰らうのは良くない。むやみやたらに喰らう必要を無くすために、どういう奴がどういう魂を持っているのか見極めた方がいいだろう。


「じゃあ……もし良かったら、今夜一晩泊めて頂けませんか?」


 彼らの記憶に自分が残っても、少しだけなら消してしまえる。

 ランムはつくった照れ笑いを浮かべ、話を続けた。


「いやぁ、僕この間から急に思い立って旅をしてるんです。特に目的の無い旅なんですけど……そうしたら荷物をなくしてしまって、情けないことに今文なしなんです」


 この明るさは自分じゃないな、と自分で自分を哂った。

 母親はまだあどけなさの残る顔を笑顔にした。確実に三十には達していないだろう顔だ。


「ええですよぉ。シンゴの命の恩人なんやし、こっちからお誘いしたいくらいやわぁ。なあ? シンゴもお兄ちゃん来てくれたら嬉しいなぁ?」

「うん! おにーちゃん、来て来てー」


 ランムは笑顔で礼を言った。なんて簡単に他人を受け入れるんだろうかと思った。


 そうして少年の母親は、自分の家にランムを案内した。築十年経っているかいないか、という感じの一戸建てだった。招きいれられた家で、少年と共に風呂に入り、旦那のものだという服を貸り、少年の遊びに付き合った。旅ってどんな旅? と訊かれて少し困った。が、なぜだろうか……天国にいた、旅好きで話し好きの爺の話が、頭の片隅に残っていたので、それを自分のことのように話してやった。


 実につまらない一時。夕飯の支度の匂いがするが、まったく食欲というものが掻き立てられない。少女のあの匂いを嗅いだとき、自分が異常だったのか、あの匂いが異常だったのか、と考え込むほどだった。


 そう言えば、と思い出す。彼女は何故、あんなにも甘い匂いがしたのか。あれが自分をこんなにも駆り立てたのだ。だがこれまで魂を漁って来た中で誰も――甘いどころか匂いを発した奴なんかいなかった。勿論目の前の子供もそんな匂いを出してはいない。


 やはり自分は狂っていて、甘い香りは幻想なのだろうか。

 しかし、純粋な者の魂が美味いのか、というのは試してみる価値はある。

 玄関のチャイムが軽快に響いた。


「あ、おかえりなさいー」

「おとんー」


 母親と息子が玄関へ駆けていく。ランムも、旦那に挨拶しておくべきだろうかとついていく。妻は夫に抱きつき、唇を重ねていた。息子は父親の足に纏わりついていた。


「おとん、おとん! すごいんやで、スーパーマンが来てくれたんや!」


 一呼吸する間ほどの、ほんの一瞬だけ、甘い香りが鼻をくすぐった気がした。すぐに消えてしまった上、少女の匂いには程遠かったのだが、唇の端から少しだけ欲望の蜜がこぼれてしまった。慌てて手の甲で拭う。


「スーパーマン?」


 妻が横に身体をどけると、ランムは旦那と目があった。甘い匂いの出所がどこからなのかわからない。


「ちょっ! ……おまっ、五十鈴っ! お客様がいるのにちょっとは慎めよ!」

「えー? 気にすることないやん。大事な家族のスキンシップやで?」


 そしてランムは家族団欒に加わって、人間が作った食事を食べた。不味くは無かったが美味くも無かった。


「なあなあ、おにーちゃん。いっしょにねよーやあ」


 シンゴにそうせがまれ、少年の部屋に布団を二つ並べて眠ることになった。少年は初めはしゃいでいたが、すぐに眠くなったのか、ころりと眠ってしまった。さっきの匂いの正体はこいつなのだろうかと思い、眠る少年の額を舐めてみる。だがやはり身を舐めてみても意味は無く、うっすらと汗の味がしただけだった。


 少々気落ちして布団の上に体を横たえた。耳に入るのは近くの波音だけ。回復し切れていない疲れが手伝って、すぐに眠りにおちる。ベンチで眠るよりも、心地よく感じた。



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