天使の心に狂い咲く、

あおいしょう

1 冥界


「あたし……死んだ……の?」


 ミルク色をした空の下で、大きな瞳を見開いて、少女は呟いた。

 体も、声も、震わせている。やはり同じように震えているだろう脚は、濃く立ち込める、空と同じ色をした靄で見えない。


 少女はまだ十五、六歳ほどで、幼さを残している。白い肌の丸顔を、胸まで垂らした黒髪が覆っている。桜の刺繍をあしらった鮮やかな紅色をした和風の着物が、ずいぶん小柄なその身を包んでいる。


「はい。僕は天国の案内を務めさせていただくランムです」


 少女の呟きに答えたのは、天に仕える者である《天使》だ。やわらかそうな栗色をした髪が、涼しげな目元のすぐ上で切りそろえられている。爽やかな好青年のような容姿だ。白いネクタイを締め、白いスーツを着て、白い手袋をはめている。その、少女よりも頭一つ高い体躯を追って一礼する。まるでダンスにでも誘うように優雅に。

 天国への光が、天使――ランムの後ろに開いている空間の穴から溢れ出している。

 ここは死んだ者達が集う冥界への入り口なのだ。


「……うそ、だよ。いやだ。いや……。帰して……。お母様に会いたい。お父様、に、会いた……。あわせてぇ……」


 嗚咽が白い空間に響き渡った。ランムが顔を上げると、少女は悲嘆の紅で染めた頬を、涙で濡らしていた。ランムはその頬に流れる雫を、指でそっと掬い取る。


「ごめんね。この世界に来てしまったらもう、その願いは叶えてあげられない。でも他に願うことがあるのなら、必ず叶えてあげるから、だから――泣かないで」


 少女の黒髪をゆっくりと撫でながら、彼女を安心させるために、泣き止ませるために、「ね?」――と柔和に微笑みかけた。


 ――そうだよ、泣くなよ鬱陶しい。


 ランムは心の中で毒づいた。

 天使の――ランムの仕事のひとつは、天国に来た人間の魂を案内すること。

 だがランムはこの少女のように、死を受け入れないで泣き喚く魂が大嫌いだった。今、目の前で泣き出したこの少女が、苛ただしくてしょうがなかった。

 なのに少女は天使の顔など見てはいない。当然ランムの微笑は効果を成さず、彼女は泣き止むどころかさらに大声で泣き声を上げた。思わず出そうになった溜息をこらえる。


 もう一度、今度は髪に指を絡ませて、少女の頭を撫でる。離したランムの手には、銀色に輝く彼女の《願いの結晶》が乗っていた。


 手品でするような軽い弾ける音がなって、結晶が霧散する。後には花束が現れた。少女は驚いて、泣くことも忘れて花を見る。両手いっぱいに現れた色とりどりの花を、少女の鼻先に差し出す。少女は戸惑いで何度も瞬きをする。


「ほら、綺麗でしょう?」


 ランムは“綺麗”や“美しい”という概念をよく解っていなかった。ただ、人の心がこういうものに囚われることは知っていた。


「花は、好きよ。でも……今は、見たくないの。貰えないの。貰ったら枯れていくところを見なくちゃいけないから……見たくないの」


 止まった涙がまた、下瞼の上で玉になって膨らんでいく。ランムは辛抱強く、もう一度彼女に微笑みかけた。


「大丈夫。君が願えば、天国の花は枯れない」


 少女は鼻をすすり上げながら、花束と、ランムの微笑を交互に見つめた。


「ホント?」

「うん。ホント」


 ランムが頷くと、少女はゆっくりと両手を前に出し、その存在を確かめるように花束を受け取り、軽く胸に抱きしめた。


「ありがとう……」

「さあ。行こう」


 天使は少女の背中を押して、天国への光に導いた。



    * * * *



 夜しか知らないと言いた気な空間で、ランムの手の中にある銀色の結晶が弾ける。薄い氷を割ったみたいな音がした。すると、黒しかない空のそこかしこに、白い点が無数に表れる。


 明滅する星々が降ってきたかのように錯覚させられる白いものが、着地する場所に迷いながら、地面へと向かっていく。着地に成功した白たちは、漆黒の地面を白く染め上げていく。一面の銀世界へと変貌した空間の真ん中が、ボコリと音を立てて盛り上がる。そして、ぽこりぼこりぽこり、と次々に白に穴を開けていく。


 音を立てたのは緑の芽だった。芽たちは一気にランムの身長を越えて伸び、横幅を広げていき、大木となった。そしてあっという間に、淡い紅色の蕾をつけた。


 桜。


 誰かが雪の中でこれを愛でたいと願った。ランムは見上げてその蕾を眺める。まもなく蕾は開くだろう。開いて、夜空から降ってくる雪たちと一緒に舞い落ちる。

 天国の創造。ランムに任されたもう一つの仕事である。


 冥界は元々無の世界だった。

 無の場所で、魂たちが願い、神が触媒となり、願いが具現化され――創り出され、《天国》と言う形になり、世界になった。だが願いが消えれば創ったものも消えてしまう。天国が消えてしまう。


 だから神は創り続けてきた。しかし神の力は無限ではなかった。神も年をとり、衰えるのだ。《神》という地位は何代にもわたり受け継がれてきた。そして今は、霊力の強いランムが次期神候補として、この仕事を一部任されている。

 冥界はたくさんの誰かの想いが集合して出来ている。天国は《願い》で。地獄は《絶望》で。

 蕾を眺めていたランムの頭の中に、いつもの疑問が浮上する。


 ――これを眺めたからって何があるんだろう。


 ぼんやりと浮かべた疑問の答えを求めて、蕾を眺めていた。すると、空のずっと向こうから、何かが飛んでくるのに気づいた。地獄に仕える者である《獄使ごくし》だ。星空を泳ぐようにこちらに向かってくる。

 獄使の背には紅い何かが乗っていた。


 少女だ。


 紅い着物の、あの少女だ。数日前ランムが天国を案内した少女。泣き叫んで、ランムを苛立たせた少女。

 獄使はランムの眼前に――銀色に光る雪の上に降り立った。雪は獄使に踏まれて、窮屈そうな音を立てる。次に獄使は背中から少女を降ろした。


「ちわっす」


 黒髪の下の厳つい顔が、邪気の無い笑顔を浮かべて挨拶した。型は同じだが、色はランムのものと対照的な真っ黒いスーツを着ている。

 続いて紅い着物の少女が、清楚な微笑を浮かべて会釈した。


「ここはまだ開発中で、人間の魂は立ち入り禁止なんだけど……」


 ランムは軽く抗議したが、少女は聞いているのかいないのか、桜の木を見上げる。つられてランムも改めて見上げる。蕾が膨らみ、数を増やしていく。所々で、ゆっくりと桃色を広げていく。


「知ってるよ」

「知ってるっす」


 と、少女と獄使は同時に答えを寄越した。分かっていて来るなんてふざけた奴達だ、とランムはまた少し苛立った。


「でも、あなたに会いたかったんだ」

「硬いこと言わなくていいじゃないっすか。別に危険があるわけでもないんすから」


 ランムたち三人の目に晒されて、桃色が揺れながら落ちていく。身を飾っているものが散る姿を観賞して喜ぶなんて、ストリップみたいだとランムは思った。これからこの舞台で、白と桃色は舞い狂い続ける。


「それにしても、見事なものを咲かせますねー」


 獄使が嘆息混じりに賛美の句を投げて寄越した。正直うるさい。頭の中を探ってみても、こいつの名前が思い出せない。覚えられないほど印象に残らない“その他大勢”に賞賛されても、何の価値も喜びも感じなかった。


「別に大したことは無いよ」


 謙遜ではない。実際、ランムには大したことをしている気はなかった。ちょっと人間の魂から《願いの結晶》を取り出して、弾けさせているだけだから。しかし結晶を取り出すこと自体が、並みの者では出来ないのだが。


「いやいや、謙遜しないでくださいよ。ランムさんはやっぱ、すごいんっすから」


 獄使は頭の悪そうな顔で、うん、うん、頷く。


 ――すごいから……だからなんだって言うんだ。すごくても、叶えたいことが叶えられないんじゃ意味が無いだろ。


 そう思って一瞬怒りを感じた。直後、自分に違和感を覚え我に返った。


 ――叶えたいことって、なんだ?


 頭の後ろが、ちりちりと焼けるように痛んだ。遠いどこかからの、とても昔からの、何かの記憶が浮き上がってきそうな気がした。浮き上がってくるにつれ、それは熱さを増し、ともに苦痛をも増したので、ランムは頭を振ってそれを追い出した。


 天使や獄使や死神。冥界で暮らしている存在は皆、ランムに憧憬の念を抱いている。ランムはそれに対し、鬱陶しいと感じていたが、仕方ないとも感じていた。自分は神と同列に並ぶ存在なのだから、と。


「ケイスケさん。連れてきてくれて、ありがとうね」


 少女が獄使に向けて一礼した。


「いえいえ、どうもっす」


 と、歯茎を剥き出した笑顔で敬礼する。


「では、ケイスケは任務に戻るであります!」


 この獄使は下界のテレビを見すぎなのだろう、「とう!」と、ヒーローのようかけ声を上げて飛び去って行った。獄使の任務とは、この冥界を警邏することである。


「で、何か用があって来たの?」


 ランムはしばらく獄使が飛んでいった空を眺めていたが、少女に向き直り尋ねた。彼女は頬を、舞い散る花びらと同じ色に染めた。


「ランム、言ったでしょ? あたしが初めてここへ来たとき。『他に願うことがあるなら叶えてあげる』……って。あたしの今の願いは、あなたと一緒にいることだから」


 ――なんだそれ。


 人間にとって天使は憧れの対象などではなく、唯の案内人でしかないはずなのに。何故そんなことを願うのか……。


「どうして、それが君の願いなの?」


 訊ねると、彼女は子供がプレゼントを渡されたような笑顔で、


「わかんない」


 と答えた。


 ――わからないなら大人しくしてろよ。


 思わず舌打ちしてしまいそうになる。

 だがランムは、ここで彼女を突き放してしまってはいけないということは解っていた。

天使は天国の魂を、極力傷つけてはいけない。人間の魂の幸せを保つことは、天使の義務だ。だからランムは、儀礼的に天使の笑顔を作り、


「そっか。わかんないか……。でも、ありがとう」


 と答えた。

 すると彼女は両手で口を隠し「えへへ」と笑った。

 改めて、ランムが創った桜を見上げて、「綺麗だねー」と呟いた。



    * * * *



 円卓を囲む五つの影がある。

 場所は、願いと絶望が交錯する、冥界の中立にある《冥会議堂》の中。そこで声が響く。


「ではー、七夕に会わせてあげるカップルは、そちらが葉山千草嬢。こちらが坂石稔氏で決定――ですね?」


 目が細く、頼り無さそうな姿をした若造――天使長・ジンが、議題をそう締めくくった。

 場に座しているのは、獄使の総指揮官である獄使長・マギ。その右腕である獄使ミント。死神の伝達係のミジュ。天使たちの最高責任者であるジン。そしてランム。


 冥界の幹部会議である。議題は七夕にちなんだ、天国と地獄に分かれてしまった恋人同士を会わせる、という催しで、誰と誰を会わせるのか、というものだ。

 ジンの最終決定に誰も異論を示さなかった。元よりランムは、こんな下らないことはどう決定されようと異を唱えるつもりは無かったが。


「ではでは他に、何か連絡事項があったらおっしゃってください」


 ジンの間延びした声に答えて、伝達係の死神が嬉しそうに立ち上がる。


「じゃあ、僕から。この間来た、《子ども》達の適正をチェックした結果が出たんだ」


 《子ども》達とは、身体に一度入ったのだが生まれる事が出来なかった魂が、天国にも地獄にも行かず冥界の中立な場所に待機している存在であり、未だどんな世界の経験も無い魂のことである。

 冥界に来た魂は時期が来ると転生する。そして転生するために前世の記憶を全て消さなければならない。どんなに下界に居た時間が短い魂でも、ほんの僅かに記憶はあるので例外は無い。だが、前世での経験が少なすぎる魂に記憶消去をかけると、魂は耐えられずに消滅してしまう恐れがある。


「ジン。今日から教育期間に入るからさ、またみんなに名前付けてあげてね。よろしく」


 そのため《子ども》達は、天国に仕えるか、地獄に仕えるか、あるいは魂を冥界に届ける者になり、記憶消去に耐えうる魂にならなければ転生できないのだ。


 自分が産まれなかった魂だという認識を持っているのは、この場にいる幹部と、ほんの一握りの上級の力を持つ者だけだ。母親の腹の中に居た頃の記憶を引き出せることも、普通出来ない。だが、ランムはなぜだか――穴だらけの記憶ではあるが――思いだせることがあった。


 どこか裕福な家だったらしい。母親にはいつも美辞麗句が並べられていた。生まれてくる子供への、無責任な期待ばかりを叩きつけられていた。その賛辞は母親を萎縮させ押しつぶし、苦しめていた。そして結局、期待を叩きつけられていた子供は生まれなかった。

 事故だったような気はするが、よく覚えていない。


 そして自分だけが、今の世界に住んでいる。しかしランムはそのことも、自分が産まれなかったことも、悲しいと感じた覚えが無かった。


「そうだ、ランムもたまには見に来なよ。かわいいよ? ランムの後輩になる子も、もちろんいるんだしさ」


 ミジュは、締まりのない笑顔でランムに話を投げて寄越した。


「ランムお得意の霊力の演舞を見せてあげたらきっとみんな喜ぶよ」


 穏やかに笑って、頷いてやる。


「ああ。時間ができれば行くことにするよ」


 産まれていても結局自分は、今と同じように賞賛の海に溺れさせられていただろう。どっちにしても下らない世界だ。


「わたくしからも、一つ報告があります」


 獄使長の付き人であるミントが淡々とした声で告げる。


「囚人番号四八〇二〇号が、壊れました。緑のゲル状になってしまい、元に戻る見込みがありませんので、処分の検討を行います」


 囚人番号四八〇二〇号は、下界への未練で天国から逃走を計り、下界の者を傷つけ、地獄に堕ちた者の魂だ。

 天国にいても、冥界で仕事をしている者でも、規則を破れば地獄に堕ちることがある。そしてさらに凶悪な者には、さらなる罰が与えられる。その罰は、時に魂を破壊してしまう。ランムは壊れてしまった魂を何度か見たことはあるが、いつ見てもあまりの醜悪さで背中に怖気が走った。どうあってもあんな姿になるのはごめんだと思った。


「ランム。お前は何も報告することが無いのか?」


 低く重い声が響いた。

 紅い長髪を後ろになで上げている、マントに身を包んだ黒ずくめ――獄使長のマギだ。

 促されたランムは溜息を抑えること無く吐き出し、答えた。


「特にこれといっては……。ああ、そうだ。崩壊しかかっていた五十八番地区の修復がそろそろ終わる。もうすぐ使えると思う」


 自分の声に投げやりな感じが出てしまっているのを自覚する。

 ランムは誰か個人を嫌うということがない。小さい存在にいちいちそんな感情を抱く気になれないからだ。だが――――

 会議が終わり席を立つと、


「ランム」


 後ろから抱きしめられた。


 ――またか。


 見上げると、赤い髪が頬にかかった。目と唇を、三日月のように細めて、吊り上げて、気持ちの悪い笑みを浮かべている顔があった。

 マギだ。

 笑顔であるにも拘らず、鋭く、何もかもを切り刻んで、何もかも見透かしてしまいそうな眼差しに、ランムは眉を顰めた。


「なに?」

「外で、あの娘が待ってるぞ」

「……そう」


 あの少女はあれ以来、どこへ行こうともランムの側をついて歩いた。ランムが魂に天国の案内をしているときも、少女は一緒に天国を案内する。彼女は人懐っこく、案内した魂とはすぐに仲良くなるが、交友関係になることはなかった。ランムと過ごす時間が減るのは困るから、と言って。


「お前はあの娘が嫌いなのか?」

「いや。別に」


 ランムは誰か個人を嫌うということがない。――だが、今自分の背中に張り付いている存在は、存在しているだけで苛ただしかった。理由は分からない。生理的に受け付けない。しかも相手はランムが抱いているものに気づいていて、わざと交流しようとする。そんなところも苛ただしかった。


「じじぃさ。邪魔なんだけど」 

「なんとまぁ、この俺様の抱擁を邪険にするとは……愛し甲斐がないなぁランム」


 体に巻きついている腕に力が込められ、耳に息がかかる。


「下らないことはさ、やめてよね」

「離してやってもいいけどな、ランム。お前、もっとあの娘と心を交わしていくって気にはならないのか?」


 ランムは、今度は髪を弄ってきた手を取り、拘束していた腕を難なく振り解いた。


「残念ながらならないね。大丈夫。無駄に傷つけるなんてことしないから」


 よくしゃべる彼女を、ランムは初め鬱陶しく感じていた。邪険にするわけにも行かず、ランムは貼り付けた笑顔で受け答えしていた。だが時が経つに連れ、彼女は話さずとも、側にいるだけで満足するようになっていた。ランムにとって彼女はいまや、ただの景色だった。

 マギは行き場を無くした腕を広げ、肩をすくめた。


「そうか」


 嘆息混じりに言うマギに背を向けて、歩きだす。

 ――どいつもこいつもくだらない馬鹿ばっかりだ。



    * * * *



 垂れ下がった枝に満開の花。ランムが《願いの結晶》で生んだ中の一つ。枝垂桜。

 ドームのようになった桜の下で、少女と、獄使のケイスケと、ランムの三人は一時の休息を過ごしていた。


「マジでビビったっすよ。まったく理解できねぇ……」


 七月七日。七夕である日。織姫と彦星が年に一度出会えるという日。冥界では信用された者だけではあるが、地獄と天国に分かれた恋人同士が出会える日。

 今年、その日に異例の惨事が起こった。


「てめぇの恋人を、っすよ? 天国の魂が地獄の魂を、っすよ? 全然解せねぇ……」


 天国に住んでいた男の魂が、地獄に住んでいた女の魂を、文字通り喰らってしまった、というアクシデントが起こった。

 魂を喰らったことのある者は皆、何故喰らったのかと言う問いに関して、『いい匂いがしたから』と答えるらしい。だが、ランムはその匂いを嗅いだことはないので、狂った奴の幻だろうと思っている。実際、今回魂を喰らった奴の事情は少し違うらしかった。


「その男、今は幸せそうな笑顔を浮かべたままナンもしゃべりませんよ。恋人喰らって……何で笑ってられるんすかね」


 ケイスケは何度でもうねった。少女は自分の掌に溜めた花びらに、息を吹きかけて飛ばすと、ケイスケの疑問に答えた。


「そんなの、もう二度と、好きな人と離れたくなかったからに決まってるよ」


 吹き飛ばした花びらが雪の上に落ちる。少女は桃色にまみれた暖かい雪を、こね始めた。


「……それはまぁ……、そうなんでしょうけどね……」


 ランムは二人の話を上の空で聞いていた。冥界の中で重大な事件なのかもしれないが、当事者の感情についてなど興味が無かった。また会議で面倒なことになるかもしれないな、とぼんやりと思っただけだった。唯々、踊り狂う白と桃色を眺めていた。そんな事件が起きたのだ、という事実だけを頭に蓄積する。


「ケイスケさん、そろそろ行かなくちゃいけないんじゃない?」


 少女が声をかけると、ケイスケは「あ!」と大声を上げ、弾かれた様に立ち上がった。


「すいません、愚痴聞いてもらっちゃって。俺もう行きますわ。それじゃ、二人ともごゆっくり。失礼しまっす!」


 敬礼し、あっという間に夜空に飛び去っていく。少女は作った桜まみれの雪兎を膝に乗せ、すでに見えなくなった獄使の背中に軽く手を振る。


「ねぇ……ランム……」

「……ん?」


 少女との会話にも慣れてきていたランムは、苛立ちを募らせることも無く、少女の呼びかけに穏やかに答えた。


「あたしね、その恋人達の気持ち、なんかすごくわかるの」

「…………へぇ」


 別に解ったからって興味がない、と言いそうになったのを、喉の奥に押し込み何気ない返事を返す。


「あたしもあなたと、離れたくないから……」


 少女はその言葉どおり、天国に来てからのほとんどをランムの側で過ごしていた。だが、片時も離れない、ということはもちろん不可能だった。ランムは、人間の魂が入れない冥界の幹部会議に出席しなければいけないし、願いが消えかけ、空間が消滅しかけている危険地帯の修復に行くこともある。その間はどうしても少女とは離れて行動しなければならなかった。


 少女の膝から雪兎が転がり落ちた。彼女はランムの肩に、自分の肩を並べて、ランムの手に、自分の手を重ねた。


「あなたが好きよ」


 少女の大きな瞳がランムを上目遣いで見つめている。

 とろけるほどに甘い匂いが、今のこの場を包んでいることに気づいた。ランムは少女の頬についている花びらを、そっとはらった。花の香りではない。


「あなたとひとつになりたいの」


 果汁を辺りにぶちまけたように香りが充満している。嗅覚だけでなく、味覚に、舌にまで纏わりついてきそうな香りに支配される。

 まさか、と思った。ありえない、とも思った。それでも――

 吸い寄せられるようにランムは、少女の頬に唇を近づけて、舐めた。


 甘かった。


 甘さは舌に絡みつき、思考を溶かした。体の中で何かが生まれて暴れ回っていた。

 天使は自分の中で暴れまわるそれを、飼いならすことが出来ずに抑えきれず、少女の頬を、額を、首筋を、舐め続けた。少女の体に張り付いた花びらも気にしない。

 少女の瞳は幸せに潤んでいた。涎まみれの天使の顔を、両手で包み込み、尋ねる。


「ランム……あたしの名前、知ってる?」


 そんなことは知らなかった。興味も無かった。

 少女の問いには答えず、天使の舌は胸元へ落ちる。


「るり子、だよ」


 一心不乱に少女の体に舌を這わす天使の口腔に、少女は自分の指を差し入れた。


「大好き……。だから……食べてよ、あたしのこと……」


 天使は口の中のものを、飴玉のように味わった後――少女に言われるままに、歯を立てた。



    * * * *



 暴れる何かが大人しくしていたのはほんの一時のことだった。天使はまた自分の中の何かを飼いならすことが出来ないでいた。


 ――早く……早く下界に下りよう。


 自分の口の中を、舌で探る。だが、甘い余韻はもう無い。

 ランムの隣。少女の姿も、もう無い。彼女はランムの中にいる。

 彼女は冷め切っていた天使の胸に、煮えたぎる何かを灯した。今まで笑みを作り続けていた唇を、自然とほころばせた。“もう一度”と、願う心を植えつけた。ランムにとって、全て初めてのこと。


 しかし冥界ではその願いを叶えられそうに無い。常に獄使達の目が光っている。冥界で人間の魂を漁ろうものなら、すぐに捕らえられ、自由を奪われ、地獄以上の苦しみの場所へと堕とされるのは間違いない。汚いゲルになるのはごめんだった。


 だから下界に下りることにした。


 天使が下界への道を開くには天使長の許可が必要だが、そんなものはこじ開けてしまえばいい。自分には容易い事だ。自分はそれほどの力を持っている。

 冷静な頭で考えれば、他に道があったかもしれない。が、今のランムは魂の甘さに焦がれ、何も考えられなくなっていた。


 白い靄が沸き立つ、ただ白いだけの空間。この白い空間で許可証を翳せば下界の道は開く。他に開くすべはないはずなのだが、ランムは白い空間に手を翳して、閉じている空間の切れ目を探る。――見つけた。そこに右の人差し指を向け、霊力を集中して、放つ。空間が、呆けて開いてしまった唇のようにだらしなく開いた。

 扉の封印に使われている霊気の質。それさえ理解していれば開くのは容易い。

 開いた穴の向こうには青い下界の空が広がっている。


「いやはや……。ランム君、何をなさっているんですか?」


 子供を諭すように穏やかで、間延びした声がした。振り向くと、長身の若者立っている。細い目は和やかだが、なぜか威圧感がある。


「あんたか」


 ジンだった。ランムにとって、親に近い存在であり、上官でもあり、天使にとっては絶対者であるはずの存在。そして――


「あれ? おかしいですね。私はランム君に、下界へ下りる許可を与えてませんよ?」


 ――そして、天国を創造する、現在の神である存在。


「つまらないんだ。ここは」


 空間の裂け目から風が吹き、ランムの頭髪をなびかせた。


「僕だってね、人並みに楽しいことをしたいんだ。だけど周りは低能な奴ばかりで、対等に立てる奴なんか誰一人としていないし。そんな奴らに気なんか使ってさ……。くだらないんだ。僕は今までなんにもなかった。何で今まで僕はこの世界に留まっていたんだろう、って思うよ」

「るり子嬢は、どこに行っちゃったんでしょうねぇ?」


 ランムは右の人差し指を咥えて、唇を嘲笑に歪めた。

 ジンは表情を変えない。


「あぁ……。喰っちゃいましたか」

「ああ。美味かった」


 ジンには隠す必要を感じなかったので、ランムは誇らしげに言った。


「そうですか。人の願いを叶えること、彼女と触れ合うことで、君には変わって欲しいと思ってましたが……。困りました。君を下界に行かせるわけにはいきませんねぇ……」


 瞬間、ジンが消え失せた。しかし、ランムにとっては――


「見えてるよ」


 ランムが銃の形にした指で霊力の弾丸を放った方向――ランムの右上方から、「見えちゃいましたか」と言う声と共に、紅蓮の炎が渦巻いて迫り来る。ジンめがけて飛んだ弾丸は飲み込まれ、ランムは舌打ちと共に炎を回避した。

 炎を回避したランムの正面に、ジンの姿がある。ランムの胴体を貫いて、ジンの拳が背中から顔を出した。


「すみませんが、とらえさせて頂きました」


 しかしジンは何かに気づいたらしく、息を呑み、目を見開いて後ろに飛び退いた。


「耄碌じじぃ。なんて顔してやがる」


 ランムの声と同時に今度はジンの腹から拳が突き出る。先ほどジンが貫いていたランムの姿が、中心から波紋が広がるように揺らぐ。そして、消えた。


「あんたは僕を消せない」


 ジンの体を貫いたまま、ランムは後ろからジンの耳元に唇を寄せる。


「知ってるよ。あんたは姿が若くても、もう後先短いってこと。神様も歳には勝てないわけで、こんなにも、動きが鈍くなってるっ……て」


 神の体を貫いたままの拳を、強く握ってみせる。


「こいつが弾けたら、あんたは一体どうなるのかな?」


 ランムの拳の中にあるのはジンの《願いの結晶》だった。結晶は普通、外で弾けさせ願いを具現化させるもの。精神や、生物の生き死にに影響を与えられるものではない。だが、願った本人の体に植え付け発動させると、その者は頭に直接幸せの幻覚を見せられ、瞬時に腑抜けてしまう。


「いやはや……私の歳、隠していたつもりでいましたが……バレちゃってましたか」


 ジンは苦笑を浮かべた。

 ランムが腕を引き抜くと同時に、銀の結晶が弾けた。

 ジンの膝が折れる。目の色が虚ろに、夢見る瞳になる。 


「……あはっ。やっと笑ってくれましたねー。私はもうずっとずっと、君に笑って欲しかったんですよぉ」


 ジンの満面の笑みに、ランムは噴き出した。


「嬉しいですよぉ。ずっと見守ってきた甲斐がありましたぁ」


 ジンは幻の誰かに抱きつき、幸せに浸っている。神の威厳などどこにもなかった。――神の願いは誰かの笑顔。なんてささやかなんだろう。

 踵を返して歩く。ランムが着ている、ランムを天使だと示す衣服が、腕の先から、脚の先から、散り散りになり、舞っていく。

 下界への穴に背を向けて立つ。


「ジンさんさぁ、なにやってんの。早くしないと僕、下界に行っちゃうよ?」


 哂って声をかけたが、ジンは無反応だった。

 ランムの“天使”が消えた後、ランムの体を包むのは黒に統一された、人間の青年が着るようなラフな服装だった。

 哄笑が止まらない。過去を振り返ってみてもこんなに大笑いしたことはなかった。今は小さなことでも可笑しくて堪らない。


 ランムはそのまま白い地面を蹴り、背中から、下界への穴に落ちていった。冥界に笑い声を残しながら……。



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