朱夏の終わり、押しよせ、さらう。

雨昇千晴

朱夏の終わり、押しよせ、さらう。

耳慣れないその言葉を教えてくれたのは、サーファーである叔父だった。あまりに海を波を愛していて、いつでもサーフィンができるよう、海辺に流木を使った店を建てるほどの、モテはしても結婚はできないタイプの大人だった。


幼い私はよくその店で番をしていた。学童の閉まる長期休みは、両親にとってもかきいれ時だったからだ。母は毎度恐縮していたが、おかげで私はたくさんの若い人たちに囲まれ、可愛がられたり弄ばれたりしながら叔父との日々を過ごしていた。


その日は、朝から小雨が降っていた。

若い人たちは雨でも波に向かっていたけれど、叔父は必ず店にいて何かの作業をしていた。棚卸しをしたり、機材をチェックしたり、端末に向かって何かを打ち込んでいたり。けれどその日は違った。


「リィはどれがいいと思う」


ばさり、と昔なら音がしたのかもしれない。そのくらいたくさんの、でも数えられはする程度の、女性の写真が画面に並んでいた。

気軽に渡されたタブレットを持つ手が震える。声まで揺れる前に私は隣に座る叔父へ口を開いた。


「16股はどうかと思う」

「お前はどこでそう言う言葉を覚えてくるんだ」


くん、とこめかみを小突く叔父の指は、枝のように太く固く茶色い。


「商売するなら身を固めろ、って上の親戚がうるさくてな。とうとう写真まで手配して来やがった」

「利益は出てるんでしょ?」

「講座に広告に動画教材――それで黒字にはしてるし飯も食える。可愛い姪っ子に菓子ぐらい買ってやれる」

「お菓子ぐらい自分で買えますー」

夏が終われば12歳だというのに、彼の目にはまだ幼児なのか。

ツンと顎を上げてみせた私を、なぜか叔父は真剣な目で見つめ返した。


「そうだ、菓子も服もリィはすぐ買えるようになる。嫁にもなれりゃ子も産める」

「な、何」

いきなり話が飛びすぎだ。結婚だの出産だの以前に、恋すら私はしたことがない――はず、で。

「だけど、俺が独り身のままじゃそれも難しくなる……俺は、リィの幸せでまで邪魔をしたくないんだ」

だから選んでくれ。どの写真でも、気に入った奴でいいから。

シリアスな顔でそう言われた瞬間、私は手にある端末で叔父の頬をぶっ叩いていた。


「ふざけんな!」


――後に聞いた話。父が母と結婚するとき、定職につかず年中どこかでサーフィンをしているような叔父を、母方の親戚が案じて結婚に反対したことがあったらしい。


「うぬぼれてんじゃねぇよ馬鹿!」


――その頃の叔父はサーフィンの講座と広告で稼ぐ、立派な個人事業主だったのだが、老人達には理解しがたかったようだ。叔父は自営業とわかりやすくするために店を開き、定住することを選んだ。海と波と、何より自由が好きな人だったのに。


「叔父さん馬鹿にする奴なんざ、こっちから願い下げしてやんだから!」


はあ、はあ、と空っぽの肺が急ぎ収縮をくり返す。

小雨に降り囲まれた世界は、叔父と私の二人だけだった。高波の音も、若い歓声も、全て遠くの出来事で。


「瑠璃」


日に焼けた腕に抱き寄せられる。私の頭は叔父の手にすっぽり収まった。


「悪かった。泣かんでくれ」

泣いてない、と言うには視界が悪かった。ぼろりぼろりとあふれる滴が、自分はまだ子供だと返してくる。


「こと、わって」

「うん」

「じぶっ、きめて」

「ああ、そうだよな。ごめんな」


背中に腕を回し抱きつきながら、叔父の胸で泣くのはこれで最後なのだろう、という予感が、私の胸を突いた。

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朱夏の終わり、押しよせ、さらう。 雨昇千晴 @chihare

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