第3話

 頂上には小さな稲荷が建てられている。

 古めかしい社の前には、対に狐の像が立っている。しかし、今は片方の台座には狐は乗っていない状態だ。少しくらいなら、仕事をサボってもバレはしない。

 山の麓よりも少し気温が低い。さわさわ、と葉と風が戯れる音が響く。緑と白が交錯して、新たな色を作り出す。

 私は社の前まで歩き、本来狐の乗っている台座に寄りかかった。

 ふぅ、と小さくため息をつく。今日は住友さんと話したり、長い距離を歩いたり、狸に化かされたりと気が抜けない一日であった。天気だけが私を労わってくれる。私は空を見上げて黙って感謝の気持ちを捧げた。

「あら、こんにちは」

 背後から聞き覚えのある女性の声がした。私はすぐに振り返った。そこには住友さんが佇んでいた。さっき店で会ったときとは服装も髪型も違う。黒縁の眼鏡もかけている。

「こんにちは」

 私はたどたどしく挨拶を返す。

 おかしい。

 私は住友さんの店を出て、まっすぐにこの稲荷に向かった。この頂上にたどり着くには私が歩いて登った坂道を通る他に道はない。つまり、どれだけ早く歩いたとしても私を抜かしてこの場所にたどり着くことは出来ないのだ。山の中腹でいざこざに巻き込まれはしたが、それはほんの一瞬の話である。それに住友さんがあの場所を通ったのなら、不自然に思い、私に声をかけるだろう。

「今日は、ずっとこちらに?」

「えぇ。朝からここで小説を書いていたわ」

 住友さんは首をかしげて私を見た。

「あいつめ」

 私は住友さんに聞こえないように呟いた。「あの時点」で、既に化かされていたということか。確かに、違和感を覚えてはいたが。それだけ、私の意識はあくがっていたということだ。

「ここで仕事をするとなかなか捗るのよ。風も麓より気持ちいいし」

 住友さんはぐっと背伸びをした後、大きく空気を吸い込んだ。新鮮な夏の空気が住友さんの肺を満たす様子を想像する。それだけでも、胸がいっぱいになる。

「そうなんですか」

 私はそう返すのが精一杯であった。

 私は住友さんに気がつかれないように、彼女を観察した。

 どこか妖艶な顔つき。周囲の空気とは隔絶されたような独特な雰囲気。

 もしかして、「この住友さんも」、と思わせるような、感覚。

「そうなんですよ」

 住友さんは悪戯そうに、微笑んだ。

 私は、間違いなく住友さんに化かされていた。

 狸でも狐でもない、人間である住友さんに。

 人間の方が、私たち狐よりも優秀なのかもしれない。

 狐や狸は、誰かを化かすためには自分の姿、形を変化させなければならない。

 しかし、人間にはそれが必要ない。

 人間は姿を変えずとも、他者を化かすことが出来る生物なのだ。

 相手が人間であろうとも、狐であろうとも。

 そうして、日々暮らしているという点では人間も狐も変わりはないのだ。

「あ」

 住友さんは手のひらを空に向けた。

「雨、降ってきた」

 住友さんに倣って手のひらを広げてみると、小さな雨粒がぽたりと落ちてきた。空を見ると、さっきから太陽を遮っていた入道雲が灰色に変色していた。雲は蓄え切れなくなった水分を地上に落とす。

 しかし、その入道雲以外には雲は存在していない。輝く青が広がっていた。

「狐の嫁入りね」

 住友さんはくすりと微笑んだ。

「そうですね」

 火照った顔に雫が落ち、少しだけ温度が低下した。

「小雨だし、大丈夫よね」

「えぇ」

 もう一度、住友さんの横顔を観察する。

 私はやはりただ意固地になっていたのかもしれない。プロである私が人間である彼女に化かされているのが、心のどこかで快く思っていなかったのだ。しかし、そんな下手なプライドなど、この想いには必要ない。

「うちの店でラムネでも飲んでいかない?」

 住友さんは、言う。

 化かされてみよう、私は心の中で呟いた。

「ご一緒させていただきます」

 ぱらぱらと、夏の天気雨が山に降り注ぐ。雨の雫に太陽の光が差し込み、反射する。

 どこかの誰かが結婚でもしたのだろうか。

 だとしたら彼は、彼女は、もしくはお互いに、化かされているのだろうか。

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狐の嫁入り 神楽坂 @izumi_kagurazaka

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