第2話
一歩一歩、地面を大切に踏みしめながら山道を登る。
山道はそれほど急な斜面ではない。なだらかで真っ直ぐな道が頂上までひたすらに続いている。途中に階段でいう踊り場のような平らな場所があり、休憩できるようにいくつか長いすが置かれている。
私は淡々と坂道を登る。木漏れ日が私の体を舐め、体温を徐々に上昇させる。葉の隙間から僅かに覗く空は、いつになく青い。
二つ目の休憩場所にたどり着く。長いすがぽつりと置かれ、そこに少女が一人、ぽつりと座っていた。
少女は白いワンピースで身を包み、足元には真っ赤な靴が姿を覗かせる。漆黒の、艶やかな髪はふんわりと少女の胸を撫で、腰の辺りまで届いている。ぱちりと眩しく開いた二つの目は前に向けられている。
座っているだけなのに、周囲の空気に干渉するような、ある種異様な雰囲気を少女は醸し出していた。
「こんにちは」
彼女は私の方を向いていた。突然の彼女の登場に、私は一瞬呆気に取られてしまっていた。
「こんにちは」
冷静を何とか取り戻しつつ、少女の挨拶に対応する。
「お暑いですね」
彼女はうっすらと目を細めた。容姿から判断すると中学生ぐらいだろう。しかし、どこか大人びた雰囲気を感じる。
「えぇ、まぁ」
私は目線をあちこち遣りながら言葉を繰り出す。
「少しお休みになってはいかがですか?」
少女は手のひらをこっちに見せて私に隣の席を促した。私はなすがままに、彼女の隣にちょこんと腰掛けた。
しばしの沈黙が私たちを包んだ。
忙しない蝉の声が山道に響く。その鳴き声を聴くと、彼らの生命の炎が燃え盛っている様子がわかる。ぎらぎらと、夏の太陽に負けないくらいに燃えている。
「今日はどちらへ?」
少女が口を開いた。
「いえ、ちょっと散歩をね」
「こんな山奥へ?」
「いつもの散歩コースなんですよ」
私は少女の方を見ずに会話を続けた。
「そちらこそ、一人で散歩ですか?」
「散歩…。そうですね。そんなところです」
少女はくすくすと笑った。靴よりも赤く、小さな唇をすぼめて、笑った。
「この近くにお住まいなんですか?」
少女は風鈴の音色のような声で私に問いかける。
「そうですね。ずっと、この村に住んでいます」
「なんで、この村に住まれているのですか?」
「考えたこともないですねぇ」
私は苦笑いを浮かべる。
「どこを見渡しても緑と青しかない、純粋で、混じり気がなくて、だからこそつまらないこの村に、あなたはどうして?」
「さぁ。わかりません」
「私だったら、もっとおもしろいものを見たいです」
「おもしろいもの、ですか。例えば?」
「おもしろいものは、おもしろいものです。それ以外の何ものでもありません」
妙な娘だ、と私は思った。妙というよりは不可思議な、私の常識では処理できないような何かが、言葉の端々から感じられる。
「夏って、暑いですね」
「そりゃあ夏ですからね」
彼女は私を見つめる。大きな黒目を眼球の上に寄せ、僕を至近距離から見上げる。まるで私の頭の中まで、もっと深いところまで見透かすような視線。私はその目を正視することが出来なかった。見つめてしまうと、私が、私でなくなるような感覚。
少女はゆっくりと立ち上がる。
「でも、もっと熱いものが近くにありますよね?」
彼女は丸い目を更に丸くして言った。
「え?」
風が、どよめいた。
「もっと熱いのは、あなたの心」
少女は、私の正面に立つ。
「あなたの心は、太陽みたいに熱い」
少女は、両手で私の手を取った。
「なぜこんなにも熱いの?」
私は、少女に促されて立ち上がる。
「別に、熱くは、ありません」
私はかろうじて声を絞り出した。
「そうですか?」
少女は、私を見つめる。
「私には、そうは感じられません」
周りの木々が声を荒げ始めた。ざざ、ざざ、と不規則に枝を揺らし、何かを訴えるように葉を擦らせた。
「あなたも、自分ではわかっているのに」
少女は、笑った。妖しく、怪しく、危うく、笑う。
「なぜ、正直になれないの?」
私の目の前から少女の姿はもうなかった。可憐な少女の姿は太い樹木に変化していた。ごつごつとした褐色の肌が私の目の前にあった。私の頭の中がぐるぐると渦を巻く。
「アナタは、カノジョのコトが」
私の足元は土の固い地面ではなく、無数の柔らかい葉で覆われていた。
「アナタハ、ジブンデ、ジブンニ、嘘ヲ、ツイテイルダケ」
柔らかい地面に、私の両足が埋まっていく。
「ジブンノ、キモチヲ、理解シテシマウノガ、怖イダケ」
ずぶりずぶりと、沼のようにぬかるんだ葉の地面に私の体が沈んでいく。
「ドウシテ、理解スルノガ、怖いノ?」
「それは、私が彼女とは違うからだ」
私は心の中でそう叫んだ。
「チガッタラ、理解シテハ、イケナイノ?」
「理解したところで、傷つくだけじゃないか」
「ダレガ、傷ツクノ?」
腰の辺りまで、私の体が埋まってしまった。
「ケッキョク、アナタハ、ジブンガ、傷ツクノガ、コワイダケ」
「違う」
「タダ、ジブンニ、オクビョウナ、ダケ」
「違う」
「ジブンニ、嘘ヲツイテ、ジブンヲ、擁護シテイルダケ」
「違う!」
「ダッタラ、嘘ナンテツクノハ、ヤメタラドウ?」
ぱちん!
破裂音と共に、風景がさっきの休憩場所に戻っていた。
いつの間にか私の体は長いすに横たえていて、額には脂汗がじんわりと浮かんでいた。
荒くなった呼吸をなんとか整えながら、私は体を起こす。
青い空、僅かな木漏れ日、風の音、葉の色、全てが元通りになっていた。
「大丈夫ですか?」
そして、少女の声が横から聴こえてきた。
「突然気を失ってしまわれたようで…。びっくりしました」
私は少女を見た。どこか妖艶な表情は変わっていない。
「熱中症でしょうか、お暑いですものね」
「黙れ」
私は少女の言葉を制した。
「どうかなさいましたか?」
少女は顔を歪めた。
「まんまと騙されたよ」
私はシャツの袖で額の汗を拭った。
「まさか、この私が化かされるとは。焼きが回ったものだ」
「なんのことですか?」
「芝居が上手いな。私はお前にまんまと化かされたってことだよ」
「化かされた? 私は狐か何かなのでしょうか?」
彼女は可笑しそうにけたけたと笑った。
「いいや、お前は狐なんかじゃない」
私は少女の目を見た。
「お前は、狸だ」
一瞬、言葉に間を空ける。
「狐である私が、狐に化かされるはずがない」
風が、再びざわめく。大きな入道雲が太陽の姿を覆い隠し、地上に深い影を齎した。
「なぁーんだ、バレちゃいましたか」
少女は、狸は手を組んで、ぐっと伸びをした。
「でも思い切り化かされちゃいましたね。私が指を鳴らしてあなたを目覚めさせなかったら、そのまま葉っぱの沼に沈んでいましたよ?」
「ここは私の縄張りだ。狐の縄張りに堂々と狸が入ってくるなんて思いもしなかったからな」
狸はくすくすと笑う。
「何が可笑しい」
「いえ、別に。ただ、私があなたの縄張りに侵入出来た理由はそれだけじゃないでしょう?」
狸は、人間の少女の姿のまま、私を見つめる。
「私はこれでも人助け、ならぬ狐さん助けをしてあげたつもりです」
狸はぴょこんと長いすから立ち上がった。
「狐さん、自分の気持ちにもっと正直になってください。じれったくて、見ているこっちがいつまで経ってもハラハラしっ放しですから」
「うるさい。お前はただ楽しんでただけだろう」
「あ、バレました?」
狸は満面の笑みを浮かべた。
「あーぁ、今日はおもしろいものが見れました。田舎暮らしの退屈が少し和らいだし。ありがとうございました」
狸はぺこりと頭を下げる。
「うるさい。さっさと失せろ。もうこの山には立ち入るんじゃない」
それが私の精一杯の虚勢だった。
「狐さんも、私のような輩に縄張り荒らされないように気をつけてくださいね。恋に現抜かしてばかりじゃだめですよ」
そう言い残し、少女は坂道を駆け足で下っていった。
肩の力が、がくん、と抜けた。少し人間の姿のままで体力を使い過ぎたらしい。私も、もう若くはないようだ。
狸の言葉が、私の中で反響している。確かに、私は自分を誤魔化していたのかも知れない。人間である彼女と、狐の私が寄り添うなどあってはならない話なのだから。
しかし、この心の中に確かに存在する想いにとっては、そんな差異など関係のないことなのだろうか。同じ種類の生物でも、同じ生物は存在しない。同じ人間同士でも、全く違う人間。それは、人間と狐の違いとどう違うのだろうか。私は、彼女にこの想いを抱いても良いのだろうか。
私は空を見上げる。まだ、入道雲が太陽の光を遮っている。
私は立ち上がる。そして、頂上に向かって歩き始めた。
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