狐の嫁入り
神楽坂
第1話
木々は光と影を巧みに利用しながら自身の緑を様々に変えてゆく。作り出す黄緑は眩しく、生み出す深緑は奥行きを持たせる。
空は自身の持つ濃密な青を誇示しつつ、雲が保有する白と絶妙に調和する。存在というものを心得ているかのようなその振る舞いは地上にはない。
木々と空の境界を風が吹き抜ける。形を持たず、色を持たない風は初夏の匂いを狭い世界に広めながら境界を曖昧にし、それらをさらに彩る。
差し込む太陽の光がそれら全てを両手で包み込む。決して激しくなく、決して素早くなく、光と影を与えながらおおらかに抱擁する。
完成された風景はその姿を完成させようとは思わない。それぞれは活発に動き、他に干渉し、他に干渉されながらその表情を変えてゆく。一度出来上がった風景は次の瞬間には消失し、全く違った風景をまた創る。
「次の瞬間、ね」
私はポツリと言葉を漏らした。小さく地面に落ちた声は風景の生産に加わることなく、アイスクリームのように溶けてなくなる。
太陽の光は風景に対しては寛容だが、私に対しては容赦なくその熱を与えてくれる。葉緑素のない私にとってみれば、降り注ぐ光のシャワーはアイスクリームに対するそれでしかない。
私の座る木材で構築された和風な長いすにもその熱は伝わり、迂闊に手をつけられない状態になっている。コースターの上に乗っている麦茶も攻撃を受け、コップの側面に細かな水滴を浮かび上がらせながら体温を上げてゆく。もはやこの麦茶に私の喉を潤すほどの力は籠められていないだろう。
私は顔を上げて聳える山を眺めた。この麓にぽつりと店を構える茶屋の前から真っ直ぐに道が山を駆け上っている。道の傍らに並ぶ木々は自らの枝を伸ばし、道の上に葉のアーチを作り出していた。自然の創造力というものの底力を思い知る風景だ。アーチによって淘汰されなかった光は地面を照らし、葉は影を作る。白い坂道を斑模様に塗り替える。
「そんなところにずっと座ってたらいつか日射病になっちゃうわよ」
背後から透き通った声が聞こえる。私はその声の方に振り返る。
茶屋「住友亭」。茶屋といっても、大きな屋根の四隅を太い円柱がしっかりと支え、屋根の中に私が座っているのと同じ長いすが数脚置かれているだけの質素な造りになっている。人工的な佇まいからできるだけ離れ、風景と旨くその姿を混ぜ合わせている。
店主の住友さんは細い足を組み、肘掛にひじを置き、頬杖をしている。
影によって黒が足されている住友さんの姿はどこか浮世離れしているように見える。七分丈のズボンからは、影の黒とは対極にある白い足がすらりと伸びている。わずかにウェーブがかかった髪の毛を首の後ろでゆるりと結んでいる。
「大丈夫です。日差しには強いんです」
私は慌てず騒がず正確に受け答えをする。
「変な人」
住友さんは微かに笑顔を作る。芳しい風が住友さんの髪の毛をくすぐり、風の通る音が住友さんの凛とした声と重なり合い、反響する。
住友さんは、他の風景とは違い変化せずその姿勢を保ち続ける。木々が葉を揺らしている間も、住友さんの長い睫毛はぴくりとも動かずに存在感を醸し出す。空が雲を移動させる間も、住友さんのしなやかな腕は小さな頭を支え続けている。
変化をしない、存在。しかし、他に影響を与える、存在。
住友さんははっきり言って不思議な人だった。
今まで出会ってきた数多くの人間とはまた違う人間。
正確に他との差を挙げようとしても見つからない。しかし、その差は歴然なのである。
「こう暑いと、この茶屋も忙しくなるんじゃないですか?」
私は山に視線を戻しながら住友さんに声をかける。
「忙しいっていう言葉はこの店には似合わないかもね」
その通りだ、と私は思った。
この店の周辺の時間はとてもゆっくりと通過している。慢性的でもなく倦怠的でもなく、確実に正確に同じ感覚で、しかしゆっくりと動いている。そのような風景の中に「忙しさ」が存在できるはずもない。
「お客さんも一日で十数人しか来ないしね。お金儲けのために営業してるわけじゃないからいいんだけど」
住友さんはこの茶屋から歩いてすぐの自宅に暮らしている。周りにある人工的なものといえば田んぼと畦道ぐらいしかない。民家もまばらで、住友さんの家のお隣さんは百メートルほど離れている。
私がこの茶屋に通い始めてからもうすぐ一年が経とうとしている。一年前、住友さんはこの村に引っ越してきて、「住友亭」を開いた。私はこの以前からこの村に住んでおり、最初は少し距離を置いた場所からこの茶屋を観察していた。人の出入りが少ないこの村にとってはこの茶屋の出現は歴史的な変化であったため、警戒心を抱いていたのは否定できない。しかし時間が経つにつれその警戒心も解け、次第に村人も利用するようになり、住友さんは持ち前の人当たりの良さで村人の信頼を得ていった。
そして、私もこの茶屋に通い始めた。
通い始めてからは週に二日は顔を出すようになった。今日みたいな晴れの日も、雨の日も、雪の日も、私は足繁くこの茶屋に通った。その度に、いつも変わらぬ微かな笑みを私に投げかけてくれる。
私がこの茶屋に通う目的は明確だった。
しかし、目的の性質が私にはわからない。
特に多くの言葉を交わすわけではない。いつも一時間ほど長いすに座っているが、会話という会話を私達はしない。今日のこの一連の会話は非常に珍しいくらいだ。一つの会話はAという質問にBという答えが返ってくるだけの、とても簡易的な会話である。今日のように彼女から話しかけてきたり、Bという答えに付属品がつくようなことは稀である。
つまり、私はこの茶屋に彼女と会話をするために来ているわけではない。
だからといって、彼女の存在を観察しているわけでもない。私の視線は山か空に向けられていることが多い。もちろん、恥じらいの気持ちがそうさせているのだろうが、彼女の存在を視界に入れている時間は少ない。
しかし、目的は彼女なのである。
では、私は彼女とどうありたいのか。
私にはそれがわからない。
声を聞くこともなく、視界は上の空を彷徨っている。
しかし、心は強く鼓動を打ち、浮ついている。
この動きの正体はなんなのか。
私は傍らに置いてあったコップを手にとり、常温以上になった麦茶を喉に流し込む。麦茶は私の体温を冷ますことなく、喉を通り過ぎた。
「ごちそうさまでした」
立ち上がって、コップとコースターを住友さんに返却する。
「今日はもうお帰り?」
上目遣いで住友さんは私を見上げた。
「いえ、今日は天気が良いので山に登ってみます」
目の前の彼女は、何よりも潤って見える。輝いて見える。
住友さんは、そう、と短く呟いた。
「山で、化かされないようにね」
住友さんは、そう言った。瞬間、彼女の視線が僅かに冷たさを帯びる。
「狐でも出るんですか?」
私はわざとらしく茶化して言った。
その言葉に、彼女は笑顔で応じた。
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