たった1行の手紙の主

 しかし、「春」の曲はすぐに止み、この隙に帰ろうとした僕の足は止まりました。

 背後の戸が開いたのです。

「あの、とね……さん?」

 刀根と刀祢、どちらを書くのか分からないままにウロ覚えの名前を呼ぶと、返事をしたのは男の声でした。

「刀に根っこと書いてトネだ」

 振り向くと、そこには小柄な少年が立っています。

「理科の理に子供で、理子。今、自分の稽古をつけてもらってる」

 上目遣いに僕を睨みつけるなり、初対面の僕に理子さんよりも失礼なことを言いました。

「面汚し」

 男が相手なら何の気兼ねもいらないはずですが、僕はやはり何も言えませんでした。

 畳み掛けながら見つめるそのまなざしには、背筋がぞっとするような何かがあったのです。

「檜皮和洋。俺はお前を知ってる」

 まさか、と思いました。ひとつだけ、心当たりがあったのです。

 僕は尋ねてみました。

「君も?」

 彼は頷きました。

樫井豹真かしい ひょうま。覚えておけ」

 同じ言霊使いがそんなに簡単に出会うものか、と思うかもしれませんが、僕たちの同類は結構、あちこちにいます。お互いに連絡を取り合い、血筋と技を受け継ぐには何かと不便の多い世の中を、助け合って生きているのです。

 実際、僕と父がここへやってきたのも、仲間内の紹介があったからなのです。

「じゃあ、君が……」

 僕より一つ年下の言霊使いが既にいるらしいという話は、父から聞いていました。父の亡くなった友人の息子で、母親も早くにこの世を去り、彼の素性を知らない親戚の家に引き取られて暮らしているということでした。

「知ってるんなら余計なことは言うな」

 まるで心を読んでいるかのように、言葉を的確に返してきます。

「俺も事情は知ってるから聞かない」

 彼の言う事情は深刻ですが、単純です。

僕が言霊使いの力を隠しきれなかったために、周囲から気味悪がられておかしな噂が立ち、居づらくなったというだけのことです。

 よくあることだ、と彼は鼻で笑いました。

「昔は、雨男だってだけで仕事を干された大工がいたっていうしな」

 その逆もあったといいます。雨乞いをしたり、もっと昔は船が海で嵐に遭わないように祈ったりもしていたようです。

「まあ、刀根理子とはうまくやるんだな」

 理子さんとの間に入ってくれたことには、彼の素性が分かったところで気づいていました。

 そこで僕は聞いてみました。理子さん本人には言えない事だったからです。

「これ、どういうこと?」

 僕がいきなり祝詞を読まされた理由です。

 面倒くさそうに顔をしかめられましたが、丁寧に説明してもらえました。

 四十万町周辺にある日御子神社は、もともと農作物の実りをつかさどる地元の太陽神であったこと。春の神楽は、その神様を山から里に迎えるものであること。その祝詞は男女の掛け合いで、10代後半の若い男女2人が毎年交代して役目に就くものであること。

「……ってことは、刀根さんは中学3年生?」

 ぎりぎり15歳ということになりますよね。

「町立の氷月ひづき中」

 てっきり、樫井豹真も同い年かと思って聞きました。

「じゃあ君も?」

 物凄い形相で睨まれました。

「俺は有馬高の1年」

 それなら、祝詞の条件に合っています。

すぐに気づきましたが、僕が何も言わないうちに不機嫌そうな答えが返ってきました。

「背が低いとダメなんだとさ。」

 フォローの言葉もありませんでしたが、彼は自己完結してくれました。

「俺も別にやりたくないし、こうやってBGM流してるほうが性に合ってる」

「神楽にクラシック?」

 まさかそんなはずはないと思いましたが。

「お囃子さ。横笛を吹ける大人も減ってるんでな」

「じゃあ、助けてくれたあのビバルディは?」

 フォローのつもりで聞いてみると、彼の頬が心なしか緩んだ気がしました。

「いつも聞いてるのをアンプにつないだのさ」

 懐からレコーダーを取り出して見せてくれましたが、表情を強張らせてすぐ引っ込め、話題を理子さんのことに戻しました。

「刀根理子も別にやりたくなさそうだけどな。受験生だし」

「じゃあ何で?」

 会ったばかりの年下の相手に罵詈雑言浴びせられて、結構気分を害していた僕です。正直なところ。そこまでムキになる理由を知りたいと思いました。

「あそこは代々、しきたりにうるさい婿取りの家でな。母親が仕切ってんのさ」

 気の毒ではありましたが、さいぜんの辛辣な発言でチャラ、ということにしました。新学期が始まれば、もう会うこともありません。問題は、どっちの高校に来るかということです。

 授業料無償の県立有馬高校か、学費がかかってちょっとランキングの低い私立勿来高校か。

 止せばいいのに、身内の気安さで、つい余計なことを言ってしまいました。

「来年は有馬に来るんじゃない?」

 樫井豹真は急に背中を向けて言いました。

「刀根理子の親父は勿来高校の理事だぞ、どうでもいいが」

 僕は「へえ」というしかありませんでした。本当にどうでもいいことだったのです。むしろ、続く言葉のほうが問題でした。

「くれぐれも言っとくが俺たちの力は、隠すことなんかない。見るに堪えないから止めてやったけど、次はやれよ」

さらに、公民館の戸に手を掛けながら付け加えたのは、これです。

「こないだ持ってた入学案内見たら、県庁所在地にある進学校のだったぞ」

 そこで入れ替わりに理子さんがやってきたので僕たちの会話は途切れましたが、あの後に掛け合いをやってみたんでしたね。

 もちろん、さんざんだったと思っています。

「早うやって早う終わっとくれん? 受験生やもん、私」

 町内会長さんにそう言っていた理子さんですが、僕が大人から何度ダメ出しをされても、自分の番が来ないことに表情も変えず、ずっと同じところに立っていましたが、余計なことは何一つ、冗談はおろか不平不満さえも言いませんでした。

 お囃子のCDを流すプレイヤーのボタンを押す樫井豹真はと見れば、その指にムダな力が入り、デッキを壊すのではないかとさえ思われました。


  始めさもらへ、始めさもらへ、日御子の宣らしたまふや、なれ……


 早い話が「なんじ」と言わなければいいのですが、それは通りませんでした。「なれ」を「な」と読んでも同じことです。とうとう、僕は休まされ、樫井豹真が代役に立ちましたが、実に堂々としたものだったと思います。


  始めさもらへ、始めさもらへ、日御子の宣らしたまふや、汝このくにに来してひととせ、ふたとせ、長きにわたれば、とこしえの恵みを賜はん。


 そこで語り始めた理子さんの笑顔は、まるで別人のもののようでした。照明の蛍光灯をいつ交換したのか分からないほど古ぼけた部屋が、あのときだけふわりと明るくなったようにさえ思えたものです。


  受けたまへ、受けたまへ、我みとせ、よとせ、とこしへに、日御子の恵みにて、五種いつくさたなつものやすらへん。


 結局、あの日は朝から引っ張り出されただけで、ほとんど何もせずに半日が潰れました。気が付くと公民館は昼前の日が差し込んでいたにもかかわらず、また元の薄暗くて辛気臭い場所に戻っていました。

 練習が終わった後、町内会長さんが手を擦りながら感謝の言葉を述べるのをうわの空で聞きながら、それとなく理子さんを探したのですが、あなたはもういませんでした。

「どうしたんやな?」

 話をろくに聞いていないのに気付いたのか、町内会長さんが尋ねてきました。

 刀根さんは、と聞いたところ、この近辺では名の知れた旧家の生まれで、本来はあまり出歩くことも許されておらず、帰りは早いのだということでした。

 やっぱり、受験生の気持ちは経験してすぐでないと分からないものですね。

 僕もすぐに帰ろうかと思ったのですが、そこで声をかけてきたのは、樫井豹真でした。

「ちょっと顔貸せ」

 相変わらず、彼はぶすっとしていました。

 本当は帰りたかったのですが、ここで断ると後を引きそうだという判断が勝ち、「昼飯前に済む用事なら」と条件を付けて、ついていきました。

着いた先は、公民館からだいぶ離れたところにある、山肌を削った採石場でした。

 人家のあるところなどとうになく、あるのは舗装もされていない道と、ごろごろ転がる大きな岩だけです。

 どう考えても関係者以外立ち入り禁止の場所です。

 うすぼんやりと晴れた空の下で、僕たちは乾いた砂を踏みしめ、向かいあって立ちました。

 場所的にも雰囲気的にも、昼食は遅くなりそうでした。

 そこで僕は、とりあえず謝っておくことにしたのです。

「悪かったよ、代わってもらって」

 しかし、豹真の怒っていたポイントは、そこではありませんでした。

「やれって言ったろう」

 僕が祝詞を上げなかったことを言っているのです。

 それは無理だ、と僕はさいぜんから言っていることを繰り返しました。

 この力を人に知られたら、また引っ越さなければいけません。まるで趣味であるかのように。

 父は転職三日目で、辞表を出さなくてはなりません。根性なしの新入社員でもないのに。

 しかし、豹真にとってそんなことは知ったことではありません。

 彼は、僕に言霊使いのプライドがないと思っているのです。

「できない」

 僕は断言しました。

 子どもの頃からどれだけ引っ越してきたでしょう。どれだけ父に職を変えさせたでしょう。母は、そんな生活に疲れたのか、去っていきました。

 もういい加減、静かに暮らしたかったのです。

 父から聞いていた彼の境遇は僕よりも過酷なのですから、そんな気持ちは話せば分かるはずでした。

「君だって、使わずにやってこられたんだろ?」

 豹真の言霊がどんなものかは分かりませんでしたが、人前で使えばタダで済むわけがありません。両親を失い、人の厄介になっている立場ではなおさらのことです。

 しかし、豹真は顔を歪めて笑いました。

「使ったさ。言霊も、頭も」

 僕の身体に、ぞっとするものが走りました。

 言霊を使う者同士は、それが働く前から互いにそれを感じ取れると父から聞いたことがありましたが、それを実感したのは初めてでした。

 実感できたことは、まだありました。

 それまで何となく感じていた、豹真の性格の悪さです。

「事故が起こっても、周りには、その場の誰かのせいだと思わせればいい」

 いちばん知り合いになりたくないタイプでした。

 言霊使いがお互いをそれと感じ取れるのには、それなりにいいこともあるのですが。

 なぜなら、父が言うには、言霊とは違う力を持つ者たちもいるからです。

お互いにその存在は感知できないので、こうして仲間同士を見分けて固まることで棲み分けができてきたということなのですが、この場合はお互いに気づかないほうが幸せだったのではないかと真剣に思いました。

 どうやら豹真にとって、僕は仲間というより対等の喧嘩相手のようでした。

「いやなら、使わせてやるよ」

 そのつもりがなくても、口だけでは分からないということが、ようやく覚悟できたのは、このときです。

 豹真の口が、小さく動いていました。耳を澄ますと、微かな声が聞こえてきます。

 言霊を動かすための祭文でした。


  ほのたつや、ほのたつや、ひと・ふた・み・よ、ほむらたつ……。


 肌に熱いものが感じられて、ふと身体を見渡せば、うっすらと煙が立っています。

 祭文の意味と豹真の力は、そこで分かりました。


  火の立つや、火の立つや、一・二・三・四、炎立つ……。


 何もないところに火を起こす。

たぶん、そのキーワードは「ほむら」……。

 その時思ったのは、僕が父に言霊を鍛えられてきたように、豹真も亡き父親から同じように育てられてきたのだろう、ということです。

 そうなると、自分の身体に火が点きかかっていることの恐怖よりも、またそうしている豹真への怒りよりも、むしろ同情や憐れみのほうが強く感じられました。

 しかし、それが豹真に伝わるわけはありません。

「使え! お前の言霊! 大火傷するぞ!」

 きな臭い匂いの中で、僕は叫びました。

「やめろ! 言霊使い同士は闘っちゃいけないって、知らないのか?」

 それが僕たちの掟です。互いに傷つけあって、共倒れにならないための。しかし、豹真はそれを軽く笑い飛ばしました。

「そんなもんがあったかもしれんな。俺はずっと一人でこうしてきたから関係ない」

 ぞっとしましたが、聞かずにはいられませんでした。

「言霊使いでない人にまで?」

 楽しそうな笑い声が返ってきました。心からの笑いだったでしょう。

「そうさ、バカはいくら傷ついてもいい!」

 あの甲高く耳障りな声は、今になっても忘れることができません。豹真は舞い上がっていました。生まれて初めての、言霊使い同士の戦いに。

「さあ見せろ、お前の言霊! 使わなければ焼けて死ぬぞ!」

 もともと黒いジャージなので目立ちませんでしたが、あちこち焦げているようでした。豹真はもはや正気とは思えませんでしたが、それでも僕の頭の中で引っかかっていることがありました。

 なぜ言霊が動かないと、焼けて死ぬのか? 見せれば、やめてくれるのか?

 そう考えて、一つだけ、思い当たったことがありました。

 僕の言霊の効果のうち、豹真が見て知っている可能性があるのは、理子さんを前にしたときの、空を覆う暗雲しかありません。

 もし、そうであれば、明らかな勘違いです。

 僕の力は、雨風を起こすことではありません。火をつけられても、消せないのです。

 已むを得ません。

 僕はジャージを脱ぎ始めました。脱いだものを片端から地面の砂に叩きつけていると、今度は靴下に、そして下着に火が付きます。僕は構わず脱ぎ続けました。

「何してるんだ、お前!」

 豹真の金切り声を聞き流し、僕は最後に残った腰の一枚に手を掛けました。

「やめろ! バカかお前は!」

 僕は笑いました。

「そうさ、僕はバカだ。好きなだけ傷つけるがいい。ほら!」

 これで全裸になる、というところで、豹真は僕に飛びつきました。

 どうやら、こういう結末はプライドが許さなかったようです。

 荒い息をつきながら、豹真は言いました。

「服着ろよ」

 もう、服から煙は出ていませんでした。

言われなくても、と腹の中で毒づきながら、僕は脱いだ服の砂を払って再び身に付けはじめました。

 豹真は諦めたのか、ものも言わずに背を向けて、歩み去っていきます。僕はようやく安心することができました。

 しかし、羽織ったジャージのファスナーを上げたとき。

 あの悪寒が、再び襲ってきました。

 僕はとっさに叫びました。


  な、なじ、なんじ、にじ、とよみなれ! (汝、蛇、汝、虹、響み鳴れ!)

  

 彼方の山の向こうが一瞬だけ陰り、稲妻が一瞬閃いたかと思うと、微かな轟きが聞こえました。

 これが、僕の言霊です。「なじ」「なんじ」あるいは「にじ」。

 どれも「蛇」を意味する古代の言葉に由来するものですが、その時代には稲妻も「天空を駆ける蛇」と捉えられていたらしく、それが言葉に力を持たせる源となっているようなのです。

 遠い空で雷が鳴った瞬間、ぞっと来る感触は失せました。振り向いて見ると、ごつい大岩が転がる山の中の採石場から、豹真の姿は消えていました。

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