炎と雨と
練習が中止されてしまったので、僕にはヒマな一日が待っているはずでしたが、神様というのはなかなかに意地が悪いものです。
帰ろうとした僕は、背後から理子さんに呼び止められました。
「つきあってくれませんか?」
淡々とした口調でしたが、どきっとしました。いや、いい意味で。
「交際してくれ」の意味でないことは理解できていましたよ、もちろん。
そこで、「どこへ?」と尋ねたわけですが、僕が連れて行かれたのは町はずれの河原でした。
山裾に沿って流れる川のほとりの広い場所でしたが、山間なので、ところどころに大きな岩の転がる河原の石はごつごつと大きく、たいへん歩きにくくなっていました。
足もとの石がときどきぐらつき、僕はバランスを崩しがちでしたが、理子さんは軽々と歩くので、ついていこうにも距離はどんどん開いていきます。
やがて、トレパンにヤッケ姿の理子さんは大岩の一つに腰を掛けて、僕を待っていてくれました。ようやくたどり着いた僕に「遅いですよ」と言うなり、目の前にぽんと飛び降りて宣告したのは、この一言でしたね。
「特訓します」
帰りがけの一言とおなじくらい、どきっとしました。
特訓という言葉に、いい思い出はないんです。父親が厳しかったもので……。
それにしても、まさか前日に会ったばかりの年下の女の子からシゴかれることになろうとは。このときばかりは、情けなくて涙が出そうになりました。
理子さんの言う「特訓」のポイントは、もっともなことでした。相手が僕でなかったら、たいてい上手くいくだろうと思います。
「檜皮さんは、必ず同じ言葉を間違えます。間違えるから、違う言葉でごまかそうとするんですよね」
当たらずとも遠からず、でした。後半だけ当たってましたから。
「私、思うんですけど、その言葉を言おう言おうとして構えるから、かえって間違えちゃうんじゃないでしょうか」
そう受け取られていたなら、たいへん望ましいことです。言霊使いが人の中で生きていくのに肝心なのは、不自然な行動や現象にどうやって理由をつけるかということですから。
さらに、理子さんのアイデアは目の付け所もさるところながら、その方法も独創的でした。
「ですから、その言葉が口グセになればいいんじゃないか、と思うんです。意識するのが原因なんですから、無意識のうちに声が出ればいいんです」
ゆっくり話したのは、僕があまり賢くない、という配慮からだと思います。もしかするとバカにされていたのかもしれませんが、いい思い出のほうを取っておきます。
さて、そこで唐突に理子さんが言い出したのは、これでした。
「どんな曲が好きですか?」
これには僕もちょっと戸惑いました。話が飛躍しすぎていたからです。しかも、声を低めて尋ねられたので、僕が知らないうちに何か悪いことでもしているかのような錯覚にとらわれました。
答えに困っていると、理子さんは更に同じことを尋ねて急かします。あまり音楽には詳しくありませんが、慌てるとなかなか思い出せないものです。おまけに理子さんは、うつむき加減に目を閉じて、額に手を当てています。僕の目には、 相当の怒りを溜め込んでいるように見えました。
僕は記憶を探るヒントを求めて、あちこち見渡してみました。
川のほとりの山、町を挟んだ反対側に連なる山並み、うっすらと雲の流れる春先の青空、殺風景な河原……。
ふと、その河原の広さが気になりました。川の幅に比べて、河原が広すぎるのです。
そこで僕は、「あの」と手を挙げてみました。まるで野外学習に来た小学生のように。
「何ですか」
そう答えた理子さんの口調は、たまたま虫の居所が悪かった引率の先生のように不愛想でしたが、僕は構わず尋ねました。
「この川はもともとこんなに細いんですか? 河原がこんなに広いのに」
しばらくの沈黙が重かったのを覚えています。
やがて、理子さんは「関係ないんじゃないですか」とつぶやいたうえで、こう答えてくれました。
「この川は、雪解けで水が増えても、こんなものです。でも、もともとはもっと水量が多くて、この河原一帯に流れていたらしいですね。今でも、大雨が降ると、河原は水に浸かります」
不愉快そうな口調が、そのときはたいへん不思議に感じられました。まるで、川の流れに責任があるのを追及されているかのような、そんな口ぶりでした。
しかし、川の増水をイメージしたとき、思い浮かんだ曲がありました。
質問されてから随分経っていたので、理子さんがきょとんとしたのも無理はありませんが、あのときの表情は忘れることができません。無表情で、声を押し殺したように話す理子さんに、あんなとぼけた顔つきができるとは思わなかったのです。
そこで僕は、歌詞の内容をかいつまんで説明しました。
「洪水の夜に、崩れそうな堤防にすがって泣く気持ちを歌っているんですが……」
そう、とだけ答える理子さんの表情が再び曇ったのには慌てました。どっちが本来の理子さんかは分かりませんでしたが、僕は、きょとんとしたときの顔をもっと見ていたかったのです。
やがて、理子さんは「じゃあ」と手を叩いて言いました。
「歌ってみて」
今度は僕が面食らいました。歌はあまり得意ではありません。カラオケに行ったことさえないのです。
僕がどぎまぎしていると、理子さんはゆっくりと手拍子を取りながら、理由を説明してくれました。
「好きなリズムで覚えたら、きっと構えないで言葉が出ると思うんです」
相変わらず抑揚のない声でしたが、そう言ってもらえたことが嬉しかったのです。「ああ、気にかけてくれたんだ」、そう思うと、不思議なことに。
でも、変といえば変ですよね、僕のほうが先輩なんですから。
そこで、僕は理子さんの取ったリズムに合わせて歌い始めました。
だんだんと気分が乗ってきて、歌い終わったときに聞こえた小さな拍手で初めて、僕は我に返りました。理子さんの表情は全く変わっていなかったので、照れ臭いとも思いませんでした。
さらに、拍手の割に褒め言葉もなく、僕はすぐに祝詞を挙げさせられました。
理子さんの手拍子に合わせて。
始め・さもらへ、始め・さもらへ、
しかし、「なんじ」と続けることはできませんでした。口にできなかったわけではありません。リズムに乗せられて、本当に喉まで出かかっていたのです。もし、本当に声になっていたら、広い河原の落雷という、危険な状況になっていたでしょう。
その落雷を阻んだのは僕の意思ではなく、「何やってんだよ」という声だったのです。
そう、河原に踏み込んできた豹真でした。
理子さんが「樫井さん?」とためらいがちに声を掛けたのは、当然の礼儀だったと思います。
別に同じ学校に通っているわけでもなく、ただ「日御子神楽」に関わっているというだけなのですから。
しかし、理子さんは豹真の眼中にはありませんでした。
彼が見ていたのは、僕だけだったからです。
僕たち二人を見た豹真がたどりついた結論は、1つしかなかったでしょう。
「邪魔したみたいだな」
そこで理子さんが豹真をじっと見つめていたのは、「だったら帰れ」という意思表示だったのでしょう。
しかし、豹真はそんな気持ちを読まない男です。
ぐらつく石を軽々と踏んで、さいぜんまで理子さんが座っていた大岩に腰を下ろしました。
そんな豹真を見もしないで「見学ならお静かにどうぞ」と言い放った理子さんは格好よく見えましたが、同時に心配でもありました。
はっきり言えば、理子さんはあの場で帰ってもよかったのです。豹真なんかを、あなたが相手にすることはなかったのですから。
そもそも、「見ていろ」と言われて、黙って見ている豹真ではありません。
「あんたが見ていろ」
おい、と僕が止めた理由はもうお分かりでしょう。怪しまれるだけでもまずいのに、豹真が言っているのは、「僕との闘いを見ていろ」ということなのです。
僕が慌てるのを見て、豹真は笑いました。
「帰ってほしいってさ、檜皮センパイは」
そこで、理子さんは僕をじっと見つめましたよね。まるで、豹真とどっちを選ぶか、と問うかのように。
僕は困りました。
理子さんとの闘いは、豹真の勝ちです。理子さんの前で、僕は祝詞を上げることができません。しかし、僕を心配してくれた理子さんに、「邪魔だから帰れ」とはとても言えませんでした。
しかし、帰るどころか、押し黙ったまま棒立ちになった僕に代わって口を開いたのは理子さんでした。
「それは、私の言葉ってことにしてくれませんか?」
何、と豹真が目を剥くのも構わず、理子さんは舌鋒鋭く責め立てました。
「忙しいんです、私。受験生なんです。いいんですよ、帰っても。そのときは、神楽もやりません。母が何と言おうと。樫井さん、責任とってもらえますか?」
豹真は大岩の上に立ちあがりましたが、それはまるで低い身長を補おうとでもするかのように見えました。実際、その物言いは偉そうでしたが、声は震えていました。
「俺に、何の責任があるって?」
理子さんには分かるはずもありませんでしたが、その朝の爆発事件に限っていえば、豹真は図星を突かれた形になります。現に、僕の身体には、既にあの悪寒が這いこんでいました。しかし、理子さんを止める術はありませんでした。
「この日御子神楽ができなくなったとき、これに関わっている人たち全員を納得させる責任です。それができないのに難癖だけつけるなんて、口答えを覚えた幼児のすることです」
豹真の口元が歪んだのを見たとき、まさか、と僕は思いました。朝に起こったカセットコンロのことが思い出されました。さかのぼって、「バカはどれだけ傷ついてもいい」、そして、「使ったさ、言霊も、頭も」……。
しかし、その心配は早すぎました。豹真は言霊ではなく、嘲笑で返したのです。
「じゃあ、降りりゃいいだろ、神楽。そこまで受験が大事なら、な」
今度は理子さんが言葉に詰まりました。豹真はさらに言い立てます。
「勉強がどうとかいいながら、これやってる時点でサボってんだろ。で、それをおふくろさんだの町内会長だの引合いに出してごまかしてんだろ」
「違うわ! 私は……」
理子さんが声を荒らげたとき、空が一瞬だけ陰りました。僕はそれに気をとられて見上げていたので、理子さんと豹真がどんな顔をしていたかは分かりません。ただ、気を持たせるような勿体ぶった口調で、豹真がこういうのだけは聞こえました。
「そんな中途半端な気持ちは、どっちかを葬らないとなあ……」
その時、僕はさっきの「まさか」が起こったことに気づきました。
ほうむらないとなあ……ほうむ・ら……「ほ」う・「む」・「ら」……。
風と共に、布の焦げる臭いが微かに漂ってきて、僕は豹真に叫びました。
「やめろ!」
豹真は「何を?」とでもいうように苦笑します。
ますます強くなる風に、理子さんのヤッケからは、煙が目に見えて吹き散らされていました。
それを見て、豹真はけたたましい声で騒ぎます。
「あれえ? カイロから火でも出たかなあ? たまにあるんだよねえ!」
その時、僕は雷を呼ばなければならないと覚悟を決めました。
どんどん正気と冷静を失っていく声に誘われるかのように風は吹き乱れ、辺りは次第に暗くなっていきます。
そして、僕が空を見上げて「ナジ」と呼びかけようとしたとき。
既に低く垂れこめていた暗い雲から、土砂降りの雨が降ってきたのです。
こうなっては、いくら豹真の言霊でも火を放つことはできません。彼は舌打ちするなり、岩から飛び降りて駆け去っていきました。
あの叩きつける雨の中、理子さんは茫然と立ち尽くしていましたね。
駆け寄った僕に背中を向けて、「帰って」と突き放したそのひと言は、泣いているようにも聞こえました。
僕は何も答えられませんでした。
ヤッケのフードを引き出して頭にかぶるなり、理子さんは「この川、すぐ増水するから」と言い残して行ってしまったからです。
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