蛇林寺の朝
藍色の空から朝の日差しが寺の縁側を照らす——卯(う)の刻
林に囲まれた庭は まだ冷たい空気に包まれ、
小袖姿の宏次は声を上げながら、
「……なんだ?」
今ここにいるのは、命の取り合いをしていた二人だ。直視されていると、どうも心落ち着かない宏次は、いつの間にか声を掛けていた。
「お前の
小夜の毒舌は宏次の
「……小夜と言ったか? 少し鍛錬に付き合ってくれ」
「私がか?」
小夜は少し考える。答えはすぐに出るように、縁側から腰を上げた。
「……まあ、いいだろう。飯を頂いた礼もあるしな。少し
小夜は宏次の前まで歩き対峙した。姿勢を低く構え、腰の刀を引き抜こうと柄を握る。
「さあ、どこからでもかかって——」
ゴンッ!
不意に小夜の額に、木刀が勢いよく打ち込まれた。鈍い音と共に、かん高い声が上がる。
「いっ……! ——ふ、不意打ちとは卑怯な! まだ始まっていないだろう?」
「お前は殺す気か! ド阿呆!」
小夜は、思わず握りしめていた柄を放して額を擦る。
宏次は手にした木刀の柄を、小夜の目の前に向ける。察したか、小夜は木刀の柄を握り、それを受け取った。宏次は、壁に立て掛けてあった、もう一本の木刀を手に取り、小夜に向け構える。
「遠慮はいらん。本気で掛かって来い」
「……後悔するなよ」と小夜は不敵な笑みを浮かべた。
木と木が重なり合う音は半刻続いた。そこには木刀で殴られて出来た
「……つ、強すぎる」
小夜が倒れている宏次を見下す。
「一言いっておこう、動きが遅すぎる。剣術以前の問題だ。お前はただ刀を振り回しているだけに過ぎない」
宏次は木刀を杖代わりにして、なんとか起き上がろうとする。
「……戦が怖いか?」
「!」
小夜の言葉は宏次を心底驚かせた。誰にも見せなかった心の中を覗いた様に確信を突いていた。
「先日、将の立場だからか自ら
凛としたその瞳は、宏次の心を全て見透かした。思わず口を閉ざしてしまう程に。
「貴様の兵法は、確実に自軍の被害を無にする完璧な奇襲。その上、距離を取った戦い方故に、弓兵が中心。
鼻に掛ける様に言葉が出てくる。しかし、将として、武士として『臆病者』と言われるのは流石に許しがたい。
「……知った風な事をいうな! お前に何が解る!」
少女の言葉が遂に宏次の
「そう腹を立てるな、恥じる事は無いだろ。自軍の兵を、武具を備えるまで将自ら囮となった行為は、嫌いではないな」
少女は笑みを浮かべる。その笑みを見て紐が解けたように宏次は、小さく息を吐いた。
「だが、そんな甘い考えでは長月の首は取れぬぞ?」
「……解っている」
「なら、戦い方を教えてやる。いくぞ!」
「ちょ……まて!」
そして更に半刻。小夜に木刀でしごかれるのであった。
「もうだめだ! 動けねぇ」
弱音を漏らし、大の字で寝る宏次の姿があった。
「……なかなか様にはなってきたのではないか?」
「教えてくれるのはありがたいのだが、もう少し優しく教えてくれないか? いちいち木刀で殴られては身がもたん」
「身を持って、身を知れ! ……爺ちゃんの教えだ。つべこべ言うな」
「爺ちゃん?」
「ああ、私に刀を教えてくれた……。とても厳しくて怖かったけど大好きだった」
小夜は、少し寂しげな表情を見せた。
「——だが、爺ちゃんは殺された」
突如、憎悪に満ちた顔が垣間見えた。気付いてか、小夜はまた寂しげな表情に戻る。
「つまらん話をしてしまったな」
「いや」
「……良い風だ。そうは思わぬか?」
「何言ってんだ、お前? 風なんか吹いてねぇじゃねえか」
そう、今現在——無風である。
「こういうのは雰囲気が大事なのだ」
「あ、そう」
宏次は、小夜の腰に下げていた鞘に目をやった。
「それにしても見事な刀だな。村雨といったか?」
宏次は小夜の腰の刀を いきなり抜く。
「——!? 馬鹿! 何をしているのだ!?」
「おお! なんだこれ? 一体どうなっているんだ?」
その刀は、朝の日差しを受けて、仄かな虹色を映していた。刀身から水が溢れ、刀身を伝って鍔から雫が溢れる。
「はよ返せ! 馬鹿!」
「なんだよ? そんなに怒るなよ」
突如、宏次の真横に、宏次の背丈をゆうに超える岩が落ちてきた。振り向いて呆気に取られた宏次の顔に、追い打ちをかけるか鳥のフンも落ちてきた。
「……これは一体?」
小夜は、慌てて村雨を奪い鞘に収める。
「村雨は妖刀だ。鞘から刀身を出している間は不運を呼ぶ」
「——てことは、あの夜。いきなり木が落ちてきたのは」
「そういうことだ。お前との戦いは私の運が悪かっただけだからな。負けてないのだからな!」
「まだ気にしていたのか」
◇◇
霧は晴れて暖かい日差しが森に差し込む。晴れた空は、今日一日は良い天候になりそうであった。
墓川軍は甲冑を装備して、荷物を馬に乗せたりと進軍に向けて準備をしている。
「行くのだな、宏次よ」
蛇林寺の縁側の前に雲州が立つ。甲冑を装備し終えた、宏次に向けた言葉だった。
「……墓林 雲州殿。この度、
滅多に使わない言葉を使い、深々と頭を下げる。
「ふん、言葉だけは一人前じゃな。……戦が勝てた
「……わかった、必ず注ぎに来る」
馬に乗り蛇林寺を後にする墓川軍。その背中を雲州は静かに見送った。
墓川軍は坂を下り始める。先日の道と違う所は二つあった。一つは罠は殆ど解除してあり、進みやすい道となっている。
もう一つは、先陣を進む宏次の前を、紺色の髪をした少女が足早に通り過ぎた事である。
「……なんだ、お前も行くのか?」
宏次の声が、小夜の足を止めた。振り返る小夜が目の前を阻めば、墓川軍は一斉に足を止まらざるを得ない。
「私には行く宛があるからな」
「どうせ、飯の宛はないんだろ? 今は戦の真っ只中、町へ行っても飯を分けてくれる奴なんかいねぇぞ?」
「……む」
小夜は声を詰まらせた。手持ちの銀で、食事を取る段取りをしていたからだ。
「お前の腕を買いたい。報酬として
小夜は少し考えた。暫くして答えが出たのか、胸の中から一つの袋を取り出して宏次に投げつけた。
「……なんだこれは?」
「貴様の首の金だ。もう私には必要無い」
「どういうことだ?」
「鈍い奴だな。貴様の首を取る必要が無くなったと言う事だ。まあ、そんなわけでよろしく宏次殿」
その先を聞く事はなかった。少女は微笑むと、再び前を歩き出し、それに続く様に墓川兵も歩みを始めた。
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