静寂の森
静寂に満ちた夜の森の中——
偵察者の情報により、長月の兵は太い木々が並ぶ森の中を音を立てまいと歩く。数にして百人。今宵、月は雲に隠れ、夜に慣れた夜目を持って墓川の寝床に向かう。
「……墓川軍は、こんな所に兵を忍ばせていたか」
先陣を歩く長月の兵が目にしたのは、布に葉や木の枝を縫い合わせて作られた幕だった。遠くから見れば自然と一体化しており、すぐには気付けないだろう。しかし、よく見を凝らせば、それは不自然なものだという事が判る。
「間違いないな、墓川軍はここで休息を取っている」
鈴虫の音色と、足音だけが夜の森を響かせる。自然に擬態させた布の壁を中心に囲み、槍の先端が向けられた。兵の一人が、刀の切っ先を天に向ける。
刀を前へ振り下ろして火蓋は切られた。百の兵は一斉に走り出すと、大きな音と共に幕は豪快に破る。そして、その幕の向こうは——
「……誰もいない?」
見渡すは無数の大木と、地に生える草の景色を見て兵達は呟いた。墓川の兵の姿はそこに在らず。
「どういうことだ?」
遠くから
「——上か」
女が見上げると、そこには大木の幹に乗った、弓を構えて矢先を向けた無数の兵の姿だった。小袖姿に鎧は着込まず、矢を入れる筒のみを身に着けている。
「放てぇい!!」
宏次の声が森中を木霊する。合図で放たれる一斉射撃の雨が、長月の兵を次々と射抜いた。
「槍兵は下がれ! 弓だ、弓を持てぃ!」
長月の兵の一人が叫んだ。木の幹にいる墓川の兵達には、槍は届かず無力だった。後退を始めるが
◇◇
「やったか?」
再び森に静寂が訪れた。宏次は木の幹から森中を見渡し、敵の影が無いことを確かめてから手を振る。宏次の合図に従って墓川の兵達は、次々と大木の幹から飛び降りた。
「若、策は成りましたね」
「奴なら、この状況を逃しはしないだろう。張っていて正解だった」
「この戦でこちらの被害は無し」
ふと、宏次は足元に転がる無数の死骸を見る。
「雪定、早く森を抜けよう。休息を取りたい」
「はい、若」
早くその場を去ろうと、足早に歩き出す。
「……墓川 宏次だな?」
宏次の前を遮るのは女の声。宏次は太刀を引き抜いて刀身を向ける。続いて、墓川の兵も弓を引き構える。人影が見えるや、時を移さずして、招かれざる客に矢を向けた。
「貴様のお陰で退屈せずに済みそうだ」
「そりゃどうも」
女の声に対し、宏次は素っ気無く返事を返した。
「その首、貰い受ける」
敵意を示す冷たい言葉。有無を言わさずして、兵の矢が人影に放たれた。鞘から刀が抜かれる音と共に鋭い風が吹き、矢は真っ二つに折れて地に落ちる。兵は再び弓を引こうとしたが、弦は既に、振るわれた刀の風圧で切断されていた。
夜目を持ってしても、女の姿は判らない。見えるのは暗い色をした薄着の装束と、二本の刀のみ。その姿を見て雪定は顔色を変えた。
「二本の刀……まさか戦鬼姫!」
「あいつがか?」
戦鬼姫。金で戦場を駆ける剣術の達人——それも女だというのは、ここらでは有名な話だった。女が一人、刀二本で五百ほど率いた小国を根絶やしにしたという……助けを乞う声も、逃げ惑う悲鳴も、全て彼女の持つ妖刀により振り払われた。噂が本当であれば、相当厄介な相手に違いない。
敵は女一人、対して多勢の兵。どう見ても圧倒的に有利な状況だが、女の余裕な笑みが緊張を張り詰めさせた。
「……雪定、ここは俺が引き受ける」
「若、正気ですか? ここは私が!」
「早くしろ、死にたいのか!?」
宏次の怒鳴り声が辺りを響かせる。
「承知。皆の者、退け!」
雪定の合図で後ろの兵はその場を去る。
「姑息な真似はしない……か。嫌いではないな、その性格」
「さあな。だが、俺の首を狙っている以上、女であろうが一人だろうが容赦はしない」
宏次は紫紺の太刀を鞘から抜き、強く握りしめる。
女は腰の刀の柄を掴み、中腰の体勢を取る。
「……名を聞こう」刀身を女に向けて、対峙する宏次が名を聞いた。
「小物に名乗る名は無い」
女が動いた。一歩、強く踏みしめると同時に、宏次の懐に入り込んでいた。
——女の早い逆袈裟斬りの一撃を、宏次は太刀で受け止める。
「随分と大きな刀だな」
「ああ、こいつは妖刀だ! どうなっても知らんぞ」
「たわけたことを」
女が後ろへ半歩下がり、刀を滑らせて宏次の太刀を流す。押し争う力を止めることが出来ず、宏次は体勢を崩して、地に太刀を叩きつけてしまう。太刀を持ち上げて防ぐ時間は無い。既に女の刀が宏次の頭に振り落とされている。
——血の雫が刀身を伝う。刀身から女の手、そして
「……やるな!」
女の瞳の奥には、片手で刀身を掴む宏次の姿を映していた。手の平からは血が止め処なく流れる。
「……そのまま手首ごと落としてくれる」
女は、柄に力を入れ一気に引いた。その間一髪に、宏次は掴んでいた刀身を放す。手首を切り落とす力が仇となり、刃は空を切った。女は、有り余った力に振り回され、足をよろめかした。
宏次は太刀を拾いあげて、女の首を目掛けて太刀を振るう。
「舐めるな!」
首元目掛ける太刀を、女は刀を持って弾く。一気に押し上げられた力が、今度は宏次の体勢を崩す——女が狙いを定めて刀を構える。切っ先が宏次の顔を捉えた。
「
猛烈な突き。
刀は簡単には抜けず、大きすぎる隙だった。女の左腰目掛けて、今度は宏次の太刀が横一閃に振るわれる。
「今度こそ!」
肉を断ち切る渾身の一振り——しかし、刀が重なる音が響いただけだ。女の腰には もう一本の刀。左手でそれを手に取り、太刀を受けていた。
「——ッ! なかなか!」
「お前もな」
短い言葉を放つと、両者は後ろへ退き、再び武器を構えて対峙をする。
雲に隠れていた月が顔を出して、仄かな明かりが二人を照らした。ようやく女の顔がはっきりと分かる。
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