エピローグ

 白衣のポケットに手を入れたまま、そっと足を止める。

 調剤室から病棟へと向かう道すがら。窓越しに空を眺めれば、黄金色の木の葉がはらはらと舞い散るのが見えた。

 病院の敷地に植えられた銀杏いちょうの木々は、ここ数日で見事鮮やかにお色直しを遂げた。

 毎年目にする光景。また今年も、この季節がやって来たのだと実感する。

 あれから10年——はたして、自分はどれくらい成長できたのだろう。

「茉莉花先生!」

 物思いに耽っていると、不意に自身の名前が廊下に響いた。

 声の主は、とある少女。前方から、快活な足取りでこちらにやってくる。

 彼女は、私の担当患者だ。

「もうすっかり元気になったみたいね」

「うん。今朝、院長先生が『もう退院してもいい』って」

「ほんと? おめでとう!」

 ここへ入院してから約1ヶ月。この日、めでたく退院が決まったそうだ。

 院長という肩書きを持ちながらも、いまだ現場で患者と向き合っている彼が、OKサインを出したらしい。

「もー、嬉しくて嬉しくて。早く先生に報告したかったんだ」

「私も嬉しい。……頑張ったね」

 彼女の頭にそっと手を乗せる。すると、照れくさそうに目を瞑り、ほんのりと頬を赤らめた。今年高校に入学したばかりだということもあり、大人びた表情の中に、まだあどけなさが残っている。

 今でこそ明るく人懐こい彼女だが、入院した当初は、その心をかたく閉ざしていた。多感な年ごろゆえに悩み、苦しみ、患ってしまったのは、私と同じ病気。

 そんな彼女の担当に私を指名したのは、彼だ。

「アタシ、最初『入院』って聞いたとき、すっごく嫌だったんだけどさ……入院した病院がここで、ほんとよかった」

 あのころに比べ、歳を重ねた分、少しは成長できていると思う。だが、それよりも、彼女たちに成長させてもらっている部分のほうが、よっぽど大きい。

 つらいことも、もちろんあるけれど。

「茉莉花先生に出会えて、ほんとよかった」

 この言葉を聞くたびに。

 この笑顔を見るたびに。

「……ありがとう」

 自分の仕事がとても誇らしいと——そう、強く感じられるのだ。

「あ、茉莉花先生。303号室に、患者さんとご家族の方々が到着されました。今、院長先生とお話されています」

「はーい」

 ナースステーションへと戻る看護師さんに声をかけられた。返事をし、本来の目的地へと足先を向ける。

「じゃあね、先生。話聞いてくれてありがと」

「ううん、こちらこそ。でも、調子良くなったからって、あまり無理しちゃだめよ?」

 彼女の顔を見るかぎり、心配は無用だろうが、一応軽く念を押す。

「わかってるって!」

 これに対し、彼女は、弾けんばかりに破顔させると、手を振りながら、病室へと戻っていった。

「お大事に」

 その姿を見送り、私も自身の足を進める。

 一歩一歩確かめるように、しっかりと踏みしめながら。


 過ぎ去った日々は、生きてきた証として、生きていく糧として、色褪せることなく、今もこの胸に息づいている。

 けっして平坦な道のりではなかったし、寄り道だってした。だけど、無駄なことなんて、何ひとつなかった。

 そう思えるのは、きっと、ひとりじゃなかったから。

 彼が、隣にいてくれたから。

「失礼します」

 だから、これからも私は、


「担当薬剤師の速水です。お薬のことで、わからないことや不安なことがあったら、いつでもおっしゃってくださいね」


 前を向いて、歩いていける。



《了》


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硝子の海と天色の贈り物 那月 結音 @yuine_yue

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