最終話

 灰色の空から降ってくる細雪ささめゆき。凍えそうなくらい研ぎ澄まされた空気。

 前日に比べると、この日はかなり寒かった。

 駅に来る前、朔哉さんにお願いをして、私のマンションへ寄ってもらった。実家にいつまで滞在することになるか未定だったので、必要最小限のものだけでもケースに拾い込んでおきたかったのだ。

 東京から神戸へと向かう約3時間。このあいだ、私は何をするわけでもなく、ただただ窓の外を眺めていた。胸中では、『うれい』や『おそれ』といった負の感情が錯雑さくざつとしているはずなのに、妙に落ち着きはらっていた。自分でも驚くくらいに。

 ——行ってこい。

 きっと、彼が背中を押して、送り出してくれたおかげだ。

 父が入院している病院に到着したのは、昼前のことだった。

 西病棟5階の522号室。事前に母から病室の番号を聞いていたので、迷うことなくそこへ向かった。

 意外に覚えてるもんだな。

 ここは、以前私が入院していた市民病院だ。

 ロビー脇のエレベーターを利用し、5階へ。そこから、西病棟へと続く、長い長い渡り廊下を進む。

 廊下に反響する自身の靴音を聞いていると、しだいに踏み出す足が重たくなるのを感じた。速度がどんどん低下する。

 今ごろになって、『うれい』や『おそれ』が奇襲をかけてきた。

 どんな顔をすればいいのか。どんなことを言えばいいのか。

 しかめることしかできないかも。ののしることしかできないかも。

 そんなことを考えながらも、目では病室を探していた。

 そして、見つけた。

 外に名前はかけられていなかったが、ここで間違いないはず。

 ドアをノックをしようと、緩く手を握り、構えた。……が、なかなか行動に移すことができない。

 この扉の向こう側に父がいる。

 憎い父が。大嫌いな父が。

 大好きだった、父が。

「あっ。もしかして、真田さなださんの娘さん?」

 突然、背後から声をかけられた。はっとして、振り返る。

 そこにいたのは、さほど私と年齢差のない、若い看護師さんだった。

「えっ、あ、そうです。……お世話に、なります」

「今来られたんですか?」

「はい」

「そうなんですね。あ、どうぞ」

「え……」

 躊躇していた私に、看護師さんは入室を促した。思わぬ出来事に、面喰ってしまう。

 これで、中に入る以外に選択肢はなくなってしまった。仕方なく、彼女につづき、ゆっくりと足を進める。

 8畳ほどの無機質な空間。私が入院していたのも、こんな部屋だった。壁と天井の色も、カーテンの色も、まったく同じ。

 おぼつかない足取りで、徐々にベッドのほうへと近づく。その上には、目を閉じたまま横たわる、ひとりの男性の姿があった。

 私の父——真田さなだ章吾しょうごだ。

「真田さん。娘さんが来てくれましたよ」

 枕もとで看護師さんが呼びかけるも、父からの反応はなかった。

 搬送された直後は、ある程度受け答えできていたとのことだが、ここ数日は、ずっとこの状態が続いているのだそうだ。

「お父さんに話しかけてあげてくださいね。娘さんの声だったら、耳に届くかもしれないから」

 私にそう言って、看護師さんは病室をあとにした。

 この場に残されたのは、私と父のふたりだけ。

 付添人のための椅子は備えられているけれど、なんとなく私は座る気になれなかった。ベッドサイドに佇み、父を見下ろす。

 静かな空間に、規則正しく鳴り響く心電図の音。顔の半分を覆っている酸素マスクの中も、曇ったり晴れたりを、規則正しく繰り返していた。

 何年ぶりだろうか。父のことを、こうしてまじまじと見たのは。

 頬がこけ、随分と顔つきが変わっている。もともと白い肌が、さらに青白くなっていた。髪の毛も、色素の薄い中に、だいぶ白髪が目立ってきている。

 昔は、もっと爽やかでかっこよかったのに……。

「お父、さん……」

 記憶の奥底に眠る父を呼び起こすように、細く短く漏らす。

 さきほど看護師さんが呼びかけた声よりも、何倍も小さかったはず。

 それなのに——

「……ま、り……か……」

「!?」

 父は目を覚ました。はっきりと、私の名前を呼んで。

 やつれた蒼顔は上を向いたままだったが、瞳はしっかりと私の顔を捉えていた。

「大き、なって……美園みそのに、よう、似てきた、な……」

 美園は、亡くなった母親の名前だ。

 似てきたという自覚はある。ここ数年で、それは顕著になった。鏡に映った自分の顔に、母親の面影を重ねてしまうほど。

 ふたりは、とても仲のいい夫婦だった。理想の夫婦だった、と思う。

 遊園地、博物館、動物園……休日は、親子3人でいろんなところへ出かけた。楽しい思い出なんて、覚えているだけでも、数えだしたらキリがない。

 私は、父のことが、本当に大好きだった。

「ほんま、堪忍、な……。翠、にも……すまん、こと、してしも、た……」

 苦しそうに、切なそうに、絞り出したその声は、明らかに震えていた。

 父に対して、言ってやりたいことはいっぱいあったはずなのに。

 皮肉を言って、さげすんで、『あんたなんかいなくても、お母さんがちゃんと育ててくれた』って……。

 なのに、

「……と、うさ……」

 目の前が滲んで、

「……お、とう、さん……」

 気がつけば、


「お父さん……っ!!」


 膝を崩し、父の手を強く握り締めていた。

 その手は、小さな私の手よりも、さらに細く小さく感じられた。

 力なんて、もうどれほども残っていないはず。

 にもかかわらず、私に応えるように、ありったけの力を込め、懸命に握り返してくれた。

「……あり、が……と、な……」

 最期に、そう微笑んで。


 梅の花香る3月。

 灰色の東京の空がまるで嘘のように、青く高く澄みきった空の下。


 父は、深い眠りにつくように、静かに息を引きとった。



 ◆ ◆ ◆



 父が亡くなってから2日後。

 以前、3人で暮らしていた家から程近い葬祭場で、父の葬儀がしめやかに執り行われた。

 父の両親はすでに他界しており、参列した身内は、疎遠になっていた姉ただひとりだった。

 伯母とは、まだ母親が生きていたころに、2、3度会ったことがある。父がああなってしまってからは、伯母も父のことをしだいに避けるようになっていったらしい。

 伯母は、そのことを悔やむように、父の前で泣き崩れていた。

 私にも謝罪をしてくれたけれど、伯母のことを非難する資格なんて、私にはない。私だって、父に対してまったくひどいことをしていないかと問われれば、そうとは言いきれないのだから。

 意外だったことは、かつて父が勤めていた貿易会社から、たくさんの人が参列してくれたことだ。海外の支社に赴任している人までもが、わざわざ弔電を届けてくれた。

 先輩、同僚、後輩……みな口を揃えて、父には世話になったのだと、涙ながらに語ってくれた。

 初めて耳にする、サラリーマン時代の父の話。

 今回、神戸に帰ってこなければ……父に会わなければ、知ることなどできなかっただろう。

 父のことを、こんなにも誇らしいと思える感情を抱くこともなかったはずだ。

「ありがとう、お母さん。あんな立派に告別式してくれて」

 父が荼毘だびされてから、5日経ったこの日。

 私は、駅のプラットホームで母と肩を並べ、ベンチに座っていた。平日の昼間ということもあってか、利用客はそれほど多くない。

 父が亡くなってからは、実に目まぐるしく日々が過ぎていった。

 まだ処理しなければならないことがいろいろと残ってはいるが、これ以上大学を休むわけにもいかないので、いったん東京へと戻ることにした。

 春休みに、また改めて帰省するつもりだ。

「まあ、『元』いうても一応は旦那やったしな。……なにより、あんたのお父さんやから」

 私が感謝の気持ちを伝えると、母はこう言ってくれた。

 本当に、母の器の大きさには感服するばかりだ。

「いろいろあったけどな。章吾さんには、感謝してるんや。よかった時期も、もちろんあるし。……けど、彼の中で美園さんの存在が大きいことは、わかってた。あの人の一番にはなられへんって。でも、茉莉花が懐いてくれたから、それがすっごく嬉しくて。『私はこの子の母親になるんや』って、そっちの気持ちのほうが強くなってた」

 父と結婚した当初からかかえていた想いを打ち明けてくれた母。その横顔を見つめながら、今まで母と歩んできた軌跡をたどってみる。

 ずっと二人三脚で歩いてきた。ときに走ったり、ときにつまずいたりしながら。

 だけど、けっして転んだりはしなかった。それは、母が必死で踏ん張り、私のことを支えてくれていたからだと思う。

「……なあ、お母さん」

 でも、もう十分だ。

「ん?」

 もう、結んだ紐を、ほどいてもいい。

「まだ若いんやし、その……再婚とか、せぇへんの?」

 もうひとりで頑張らなくてもいい——そう、伝えたかった。

 私や父に配慮して、その選択をしつづけてくれているのなら、そんな必要などないのだと。

 けれども、母からすかさず返ってきたのは、いつもの『翠節』だった。

「あははっ! そら、ええ人がおったら、まったく願望がないわけではないけどな。ほんでも、その気はほとんどないわ」

 ケラケラと笑って、自身の再婚の可能性をあっさりと否定した。

 やっぱり、父との結婚で、男なんてもうこりごりだと思っているのだろうか。もしそうなら、余計なことを言ってしまった。

 少々自己嫌悪に陥っている私に、母はいたって穏やかに言葉を続ける。

「やりたいことがあるからな」

「……やりたいこと?」

 予想外の返事に、キョトンとして母のほうへ目を向ける。

 母は、そのつぶらな瞳をギラギラとたぎらせ、自身の夢について、私に教えてくれた。

「っそ。……お母さんね、あんたが卒業して何年かしたら、独立したいと思ってんの。やから、これからはそっちに心血注ぎ込むわ」

 独立——それは、今の職場を離れ、一から自分で事務所を立ち上げることを意味する。

 難しいことや、具体的なことは、よくわからないけれど、きっと並大抵のことではないはずだ。今よりも、さらに大きな責任がともなうことになるはず。

 いわば、これは『野望』なのだそう。これまで培ってきた能力をフル活用し、限界へ挑戦したいのだと、母は熱弁していた。

 私も、母のこの『野望』を応援したい。母が私に対し、薬剤師になることを応援してくれているように。

「それに、楽しみもあるしね」

「?」

 突如、母の雰囲気がガラッと変わった。この薄桃色なかんじ、誰かに似ている。

 雰囲気だけではなく、声のトーンも変わっていた。若干高い。なんていうか、浮かれ気味?

 ……あ、誰に似てるのかわかったぞ。

 大名先生だ。

 しかし、恋する乙女の口調で母からかけられたのは、紛れもなく『母』としての言葉だった。

「……私ね、めちゃめちゃ楽しみにしてんのよ。茉莉花のこと、羽柴ウチからお嫁に出すの」

「え……」

「あんたは、これから幸せになるの。いい? これは義務よ」

 自身の額を私のそれにコツンとあてて、言い含めるように母。触れた部分から、母のぬくもりが伝わってくる。

 娘としての幸せは、母から存分に与えてもらった。今もそれは、現在進行形だ。

 母が言っているのは、きっと、ひとりの『女性』としての幸せ。

「彼と一緒に、支え合って……生きていきなさい」

「……!!」

 血の繋がった両親は、ふたりともこの世を去ってしまった。塞ぎ込んでいた私を励まし、希望と目標をさずけてくれた人も。

 みんな、私にとってかけがえのない存在だ。誰かひとりでも欠けていれば、今の私は存在しえなかった。

 新幹線の到着を知らせるアナウンスが、ホームに鳴り響く。

 顔を伏せ、ケースを握り、ベンチから立ち上がった。

「あーもー、ほらこんなとこで泣いたらあかんて、茉莉花ぁ」

「~~っ!! お母さんのせいやもんっ……!!」


 大切な人たちに出会えたこと。大切な人たちを喪ったこと。

 つらい記憶も、悲しい過去も、楽しい思い出も、嬉しい出来事も……全部たずさえて、一歩を踏み出す。

 小さなわだちに、背を向けて。


 目の前の、


「朔哉さんっ」


 愛する人と一緒に、


「ただいま……!!」


 精いっぱい、


「おかえり」


 生きて——




「茉莉花」


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