契り

「本当についてこなくて良かったのに」

 翌朝、土曜日。僕は家に向かっていた。隣にはマスターがいる。

「うるせぇ。お前が良いか悪いかじゃねえんだよ」

 片棒を担いだからには、俺も一緒に行く。マスターはそう言って、僕についてきた。

 覚悟もしたし、昨夜を思いっきり楽しんで、何も怖いものはないと思っていたが、やはり家に帰ってからのことを考えると少し足取りは重い。マスターと話ながら帰ることができるのは正直助かった。

 家の前について、一度深呼吸をする。玄関に手をかけようとすると、その扉は勢いよく開け放たれた。

「昴!」

 母だった。僕の顔を見るなり、母が平手打ちをしてきた。僕は面食らってしまった。多分、母に手をあげられるのは初めてのことだと思う。しかしここ数日、殴られてばかりだ。意外と我が家の気性は荒かったのかな、とぼんやり考えた。

「昴…!心配したのよ…」

 気付くと母は、僕を抱き締めていた。いや、抱きついてきたという方が正しいかもしれない。そこで僕は初めて、母がこんなに小さいのだと気付く。真希より背が高くなったな、とは思っていたが、僕はいつのまにか母の身長もこえていた。

「…母さん、ごめん」

 僕はしっかり謝ったつもりだが、思いの外出た声は小さく、そして震えていた。

 暫く立ち尽くした後、マスターに促され、僕たちはリビングに入った。父はソファーに座って待っていた。

「言うことは」

 父が短く僕に問う。

「…ごめんなさい」

 僕は短く返した。

「反省してるんだな」

「迷惑をかけてしまうことは承知で出ていったけど、思った以上に申し訳なくて、想定以上に反省してる」

「悪かったな、斎藤」

 マスターは僕の隣で父に向かって言う。

「坂本のせいじゃないだろう。こちらこそ悪かったな、迷惑をかけた。昴に頼まれたんだろ」

「ああ、匿えってな。とんだ不良息子だよ…で、昴。言うことはそれだけか」

 マスターは僕の肩を叩く。

「…」

 僕は一瞬、戸惑った。でも決めたんだ。決めたからには、しがみつかなくてはいけない。

「父さん、母さん」

 床に正座で座り込み、手を床につく。母は驚いた顔をしている。

「迷惑かけてすみませんでした」

「何に関してだ」

 父は僕を見下ろして言い放つ。

「先日の進路の話と、その後の態度と、昨日勝手にいなくなったこと」

 僕は手をついたまま、父を見上げる。

「色々考えて、反省もしました。進路の結論も出しました」

「結論?」

「この前は、自分の出生がショックで、いじけて、あんなことを言ってすみませんでした。まだ二人が許してくれるなら」

 許してくれるなら。今度こそ、僕自身の本当の希望で。

「医大に行かせてください。僕は今、心の底から小児科医になりたいんだ」

 そして僕は、お願いしますと言いながら頭を下げた。何となく医者に、じゃない。兄のためでも母のためでもない。心のなかでそれをしっかりと感じながら。

「…お前の人生だ」

 降ってきた父の声は、柔らかかった。

「それをできる限り助けてやるのが、親である父さん達の役目だ。好きにしなさい。応援するよ」

 その言葉に、ゆっくりと顔を上げる。父も母も、マスターも微笑んでいた。

「ありがとう」

「昴、いつまでもそんな所に座り込まないで、ほら」

 母は僕に立つように促す。

「ところで坂本」

「なんだ斎藤」

父とマスターが顔を合わせる。

「お前、謝るためだけにここにきたのか」

「まさか。お前の可愛いバカ息子が逃げないように送り届けて」

 そんなことを考えていたのか。心外だな、と僕は思った。

「説教垂れるなら是非俺も混ぜてもらおうと思ってな」

「説教はもうあまりする気はないけど、一発くらい殴っていくか?」

「喜んで」

「え?」

 立ち上がろうとしていた僕は、驚いて声を上げる。

「と、父さん!反抗期の子供を受け止める甲斐性くらい持ってるんじゃなかったの」

「受け止められるかどうかと」

 父が立ち上がり近付いてくる。気迫で立ち上がり損ねて、僕は固まった。

「叱るかどうかは別もんだよ、不良息子」

 マスターが続ける。

 そして僕は、二つの拳骨を頭に受けた。


「ここ数日本当に殴られてばっかりだ」

 僕は仏壇に向かってため息を吐いた。

 リビングから、マスターと父の笑い声が聞こえてくる。

「父さん達はマスターがお店休みにしたからって、昼間から酒盛りだよ」

 恨めしい声で言う。…まあ、店を臨時休業にさせてしまったのは僕のせいだ。あまり大きな声で言える文句ではない。

「僕はいつまでこうしてればいいのかな。忘れられてるんじゃないかと思ってくる」

 あの後、「和室で暫く正座してろ。見張りは優だ。呼ぶまで座ってるんだぞ」と父に言われ、僕は仏壇と向かい合って大人しく座って、兄の写真に語りかけていた。普段ならあまりしないのだが、他にすることが無いからしょうがない。

「…兄さん。僕は、貴方が嫌いだ」

 写真の中に写るのは、知らない赤ん坊。僕がずっと兄と思ってきた子。

「勝手に去っていく人間は卑怯だ。残る人の気持ちの一部を持っていってしまう」

 リビングから聞こえる笑い声に、一度耳を傾ける。何を話しているかは聞こえないが、楽しそうなのは確かだ。

「だけど、兄さんが生きたくても生きられなかったのは理解している。そして、兄さんがもし仮に生きていたら、いなくなっていたのは僕だったかもしれないとも」

 形がはっきりしない、心のどこかに残る孤独感がずっとある。これはきっと、僕の幼少の記憶だ。産みの親の帰らぬ部屋で、ひっそりと息を引き取っていく自分を想像して、眼を一度強く瞑る。

「だから、僕は兄さんに感謝をしている。陳腐かもしれないけど、それでも」

 手を伸ばして写真を取る。

「約束させてほしい。僕は兄さんの分まで悔いのない人生を生きて、兄さんの分まで、父さんと母さんを護っていくよ」


 数分後。写真を仏壇に戻したそのすぐ後に、けたたましい足音が聞こえる。

「昴ぅ!俺達は親友だよなぁ」

 酒臭いマスターが僕に寄り掛かる。

「俺の自慢の息子に何絡んでる!放せ!昴も一杯どうだ」

 父まで、その上から寄り掛かる。

「…どうして、大人って酔うとこんなに馬鹿っぽくなるの。いたっ!!足、痛い!只でさえ痺れているのに。痛いよ!あと未成年だからお酒は呑まないよ!」

 悲鳴をあげながら酔っ払い達を必死で押し退ける。

「もう正座は終わりにして良いわよ、昴。お父さん達すっかりこんなだから」

 後から顔を出した母の許しで、僕はよろよろと立ち上がる。母は笑いながら、僕に囁いた。

「許してあげて。あんなにはしゃぐの久しぶりに見たわ。…昴のこと、本当に嬉しかったのよ、二人とも」

「そうなのかなぁ」

「隠し事がなくなったっていう解放感もあるかしら」

 そう付け足して、母は少し悲しそうな眼をした。

「本当にごめんなさいね、昴」

「良いんだ。僕こそたくさん迷惑をかけて、心配させて、ごめんね」

 母に心の底から、そう伝えることができて。僕の心は、今度こそ本当に晴れやかだった。


「すーばる!」

「わ!…だから、背後をとらないでって言ってるだろ」

 月曜日。登校中に真希に背中を押されて朝から声を上げる。

「だから、昴がどんくさいだけっていってるでしょ」

「驚きすぎだろ」

 真希は笑う。先程から僕の隣を歩いていた慎司も続く。

「聞いたよ、金曜日、ズル休みだったんでしょ。いけないんだぁ」

「一回くらい、やってみたいなと思ってさ」

 真希が僕の横に並ぶ。幼なじみ二人に挟まれて、僕は学校へ向かう。

 友人、家族、将来の夢。

 何一つ、変わってはいないけど。

「真希」

「何?」

「夏休み、海に行かないか。有紗も誘って、行きたいよな、慎司?」

「もちろん」

「いいね!有紗にも訊いてみるよ」

 慎司が隣で小さくガッツポーズをするのを、僕は見逃さなかった。

「真希。その前にさ」

「うん?」

「今度の週末、僕と二人で出掛けてくれない?」

「え?」

「宣言通り、伝えたいことがあるんだ」

 僕はこの夏、少し自分に正直になった。


 蝉が鳴いている。

 精一杯、この夏を生きるために。

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アンビバレンス 暮月いすず @iszKrzk

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